しい。
 たかの気質は男子に似てゐた。言語《げんぎよ》には尋常女子の敢て口にせざる詞《ことば》があり、挙措《きよそ》には尋常女子の敢て作さざる振舞があつた。たかは毎《つね》に磯野勝五郎、小野|富穀《ふこく》の輩《ともがら》と酒を飲んで快談した。又男子の花信を伝ふるを聞いて、直に起つて同じく観むことを勧めたこともある。此等は後年柏軒の嗣子|磐《いはほ》の聞き伝へてゐて、渋江保さんに語つた所である。是も亦祝賀の日に当つて、措辞の忌憚なきを致した一原因であらう。
 これを読むものは、たかの性行中より、彷彿として所謂新しき女の面影を認むるであらう。後に抽斎に嫁した山内氏五百も亦同じである。此二人は皆自ら夫を択んだ女である。わたくしは所謂新しき女は明治大正に至つて始て出でたのではなく、昔より有つたと謂《おも》ふ。そしてわたくしの用ゐる此|称《となへ》には貶斥《へんせき》の意は含まれてをらぬのである。
 柏軒が家を中橋《なかばし》に構へたのも、恐くは此頃の事であらう。文書の上に於ては、わたくしは弘化四年の榛軒の湘陽紀行中に始て中橋の家の事を見出した。しかし柏軒が中橋に別居したのは、迎妻のためではなかつたかとおもふのである。そして此別居はやがて伊沢氏の「又分家」の成立となつたことであらう。
 わたくしは此より曾能子《そのこ》刀自の記憶に本づいて、此年三月三日の事を語らうとおもふ。幼い柏《かえ》の初節句である。
 榛軒の家には古くより持ち伝へた雛人形があつた。しかし志保は榛軒に請うて、別に新しきものを買ふこととした。さて柏軒と倶に内弟子某をしたがへて家を出た。
 留守は柏軒の妻たかであつた。忽ち柏が痙攣を起した。恐くは腸胃の不調和等に因る痙攣であつただらう。たかは驚いて家内の人々を呼び集《つど》へ、治療看護に手を尽した。
 柏が纔に常に復した時、志保等は還つた。たかは志保を玄関に出で迎へて、「あの、お留守にお柏さんが」と云ひさして泣き伏した。此女丈夫の心根にも優しい処はあつたものと見える。
「柏がどうかいたしましたか」と問うた志保は、心の裏《うち》に若しや死んだのではあるまいかと疑つて、甚だしく驚いた。そしてたかの語を継ぐを待つて、始て心を安んじたさうである。此事は後年志保が幾度となく柏に語つた。
 新なる雛人形のためには、新なる雛棚があつらへられた。榛軒は大工に命じて幅二間、高さ一間の階段を造らしめ、特にこれを堅牢にせむことを求めた。その出来て来たのを見れば、数人が践《ふ》んで升《のぼ》ることを得る程堅牢であつた。此雛段は久しく伊沢の家にあつて、茶番などの催さるゝ毎に、これに布を貼つて石段として用ゐられたさうである。
 此年冬榛軒は癰《よう》を病んだ。榛軒詩存に「天保七年丙申冬夜、病癰臥」の五律がある。「病夫苦長夜。一睡尚三更。風定林柯寂。月升烏鵲鳴。倦書背燈影。欹枕算鐘声。愁緒遣無地。通宵誦仏名。」

     その二百十八

 此年天保七年十一月十四日に池田|京水《けいすゐ》が歿した。柏軒が京水の家に就いて痘科《とうくわ》を聴いたことは、上《かみ》に記したるが如くである。又蘭軒門人渋江抽斎が同じく京水に学んだことは曾て抽斎の事蹟を叙するに当つて言つて置いた。京水は後に一たび榛軒の女《ぢよ》柏《かえ》の夫となるべき全安《ぜんあん》の父である。
 わたくしは抽斎の事蹟を叙して、始て其師京水に言及した。次で此年丙申に先《さきだ》つこと二十年文化丙子に、京水の養父|錦橋《きんけう》が歿した時、わたくしは再び其子京水の事を語つた。わたくしは此に養父と書した。錦橋が京水の実父なりや養父なりやは、曩《さき》にわたくしは決することを得ずに、疑問として残して置いた。しかもわたくしは実父説に重きを置いて、養父説をば一説として併せ存して置いた。是は錦橋が幕府に対して実子と申し立てゝゐたらしかつた故であつた。今わたくしは錦橋が確に寛政十二年の書上《かきあげ》に京水を以て実子となしてゐたことを知つてゐる。そして又それが虚構であつたことをも知つてゐる。
 わたくしは初に京水を語つた時と、再び京水を語つた時との間に、錦橋の宗家の後裔たる池田|鑑三郎《かんざぶらう》さんと相見た。是が研究上|稍《やゝ》大《だい》なる進歩であつたことは勿論である。
 しかしわたくしの主として知らむと欲したのは、父錦橋にあらずして子京水である。鑑三郎は嫡子京水|善直《ぜんちよく》の廃せられた後、其父錦橋の門人中より出でて宗家を継いだ霧渓晋《むけいしん》の後裔である。鑑三郎に縁《よ》つて分家京水の事を知ることは困難であつた。
 わたくしは百方捜索して京水の後裔を識らむとした。しかし久しく何の得る所も無かつた。
 然るにわたくしは本伝に錦橋の死を記した後、今京水の死を記する前、即ち再び京水を説いた時と三たび京水を説く時との間に、図《はか》らずも京水の後裔と相見た。
 わたくしの錦橋の死を記した文が新聞に連載せられてゐた頃の事である。当時品川に住んでゐて、町役場に出入《いでいり》する一知人がわたくしに書を寄せた。「高著伊沢蘭軒新聞にて拝読致居候処、痘科池田京水と申者の事蹟に御不審の箇条有之候と相見え候。然るに貴説に右京水の一子と相成居候全安の名、当町役場の書類中に有之候。但し此池田全安は現存者にして或は時代相違ならむかとも被存、若し同名異人なるときは、無用の穿鑿に可有之候へ共、兎も角も左に宿所姓名抄出、御一報申上候。」此書の末に「南品川猟師町三十九番地池田全安」と低書《ていしよ》してあつた。わたくしは此に書を裁した知人の名を公《おほやけ》にする必要を認めない。わたくしは永く其人がわたくしの研究上頗る重大なる資料を得る媒《なかだち》をなしたことを忘れぬであらう。
 わたくしは直に池田全安と云ふ人を訪ふことに決意して、先づ書を贈つて先方の都合を問ひ合せた。然るに全安さんは書を以て答へずに、自らわたくしの家にたづねて来た。

     その二百十九

 一知人がわたくしに品川に池田全安と云ふ人のあることを報じた。それは池田京水の子と名を同じうしてゐるが故であつた。わたくしは其人を訪はむと欲して書を寄せた。そして其人の忽ち刺を通ずるに会つた。
 わたくしは伊沢分家の語る所を聞いて、全安が嘉永二年に二十余歳で婿入をしたことを知つてゐた。若し客が其人だとすると、九十歳前後になつてゐなくてはならない。此の如き長寿の人も固より絶無では無い。しかし容易に未知の人を訪問しはせぬであらう。
 又客が若し池田京水の族人でなかつたら、わたくしの書を得て、わたくしを見ようとはせぬであらう。
 推するに客は京水の子全安の名を襲《つ》いだものではなからうか。わたくしは咄嗟の間に此の如く思量した。そして客を引見した。
 座に入り来つたのは、洋服を著た偉丈夫である。躯幹《くかん》長大にして、筋骨が逞しい。打見るところは、僅に四十歳を踰《こ》えたかとおもはれる。
 わたくしは此方《こなた》より訪ふべき人に訪はれたのであるから、先づ其|枉顧《わうこ》の好意を謝した。そして京水との親属関係を問うた。
「京水はわたくしの祖父でございます」と客は答へた。
「さやうでしたか。それではあなたは御尊父様のお名をお襲ぎなさいましたのですね。失礼ながら御実子でお出なさいますか。」
「いゝえ、わたくしは加賀の金沢のもので、池田家へ養子に参つたのです。」
「御尊父様は。」
「父は明治十四年に亡くなりました。」
 わたくしの推測は偶中した。客は京水の孫であつた。京水の子全安に養はれて、其名を襲いだものであつた。
 わたくしは客に池田京水に関する研究の経過を告げた。向島嶺松寺にあつた京水の墓は、曾て富士川游さんが往弔《わうてう》したのに、寺が廃せられて、他の池田氏の諸墓と共に踪跡《そうせき》を失した事、諸墓の中池田宗家に係る錦橋以下数人の墓石は、其末裔鑑三郎さんに由つて処分せられ、其|法諡《はふし》は一石に併せ刻せられて、現に上野共同墓地に存する事、然るに分家の一なる京水の一族の墓は其なりゆきを知ることを得なかつた事等である。
 わたくしは江戸|黄檗禅刹記《わうばくぜんさつき》の事をも客に告げた。禅刹記に嶺松寺を載せ、併て池田氏の墓に及んでゐることは、人あつてわたくしに教へた。その錦橋の墓誌を録してゐることは推知せられる。しかし京水の墓誌は有らうか無からうか。わたくしは前《さき》に再び池田氏の事を説いた時、疑を存して置いた。後渋江保さんは上野図書館を訪ふ序に、わたくしのために禅刹記を閲《けみ》してくれた。錦橋の墓誌は収められてゐて、京水のものは収められてゐなかつたのである。わたくしは客に此憾をも語つた。

     その二百二十

 わたくしは池田京水の孫全安さんを引見して、先づわたくしの京水の事蹟を探討した経過を語つた。わたくしの談は探墓談であつた。是はわたくしが京水墓誌の全文と其撰者とを知らむことを欲した故である。
 京水の孫全安即二世全安は、わたくしに向島嶺松寺にあつた池田分家の諸墓のなりゆきを告げた。わたくしは京水の子と孫とが同名なるを以て、以下彼を初代全安と書し、此を二世全安と書して識別し易からしむることとする。
 池田分家は宗家即錦橋の家にあつて廃嫡せられた京水に由つて創立せられた。京水の後は嫡男|瑞長直頼《ずゐちやうちよくらい》が襲《つ》いだ。瑞長の弟初代全安は一たび伊沢分家に婿入して離縁せられ、後更に分立して一家を成した。伊沢氏の例に倣《なら》つて言へば、初代全安の家は「又分家」である。今二世全安のわたくしに告げた所の諸墓のなりゆきは、此分家と又分家との諸墓のなりゆきである。
 嶺松寺の廃せらるるに当つて、二世全安は祖父京水の卑属たる池田分家並に又分家の両家の諸墓を処分せしめ、一石を巣鴨共同墓地に立てゝ「池田家累世之墓」と題した。是は宗家の裔鑑三郎さんが錦橋霧渓一系の合墓《がふぼ》を上野共同墓地に立てたと同時の事である。嶺松寺池田氏の諸墓は此時二地に分ち徙《うつ》され、その宗家に係《か》かるものは鑑三郎に由つて上野へ遣られ、その分家と又分家とに係かるものは二世全安に由つて巣鴨へ遣られたのである。
 是に於てわたくしは向島弘福寺主の言ふ所の無根拠でなかつたことを知つた。寺主は巣鴨に移された墓の事を聞いて、上野に移された墓の事を聞かなかつたのである。
 然らばわたくしが巣鴨に尋ねて往つた時、毫も得る所なくして帰つたのは何故であつたか。墓地の管理をする家の女は、わたくしに墓には皆檀家あり、檀家に池田氏なきを以て答へたのであつた。そして女はわたくしを欺かなかつた。二世全安は嘗て一たび池田両分家の合墓を巣鴨に立て、後又これを雑司谷共同墓地に徙した。わたくしの巣鴨に往つたのは此|遷徙《せんし》の後であつた。
 今は錦橋霧渓一系の合墓が上野にあり、京水瑞長系と京水全安系との両系の合墓が雑司谷にあるのである。
 そして京水の墓誌は永遠に湮滅《いんめつ》してしまつた。其全文を読み、其撰者の誰なるを知らむと欲するわたくしの望の糸は此に全く断ち切られたのである。

     その二百二十一

 わたくしが池田京水墓誌の全文を読み又其撰者の誰なるを知らむと欲したのは、京水の身上に疑ふべき事があつて、わたくしはこれが解決を墓誌に求めたのである。
 然るに墓誌を刻した嶺松寺中の石は、合墓《がふぼ》が巣鴨に立てられたと共に処分せられて、墓誌の文章は此に滅びた。又わたくしの望を繋いでゐた江戸|黄檗禅刹記《わうばくぜんさつき》も京水の墓誌をば載せてゐない。
 幸に我客二世全安さんは、別に京水身上の疑を解くに足るべき文書を蔵してゐた。それは京水自筆の巻物である。
 此巻物は「文政四年冬十一月九日朝より夜の子の刻に至るの間調薬看病の暇に書、名※[#「大/淵」、8巻−52−上−1]、字河澄、号京水、一号酔醒、又号生酔道人、仏諡可用宗経」と云ふ奥書があつて、下《しも》に華押《くわあふ》がある。又他の箇所には「善直誌」と署してある。文政四年は京水三十六歳の時で、巻子中
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