斎の妻《さい》五百の姉夫《あねむこ》塗物|問屋《どひや》会津屋宗右衛門方の通番頭は首席を庄太郎と云つて、年給四十両であつた。五百の里親神田紺屋町の鉄物《かなもの》問屋日野屋忠兵衛方には、年給百両の通番頭二人があつて、善助、為助と云つた。此日野屋すら相応の大賈《たいこ》であつた。此等より推せば、通番頭三人に各年に百五十両を給した、津軽屋の大さが想見せられる。且津軽家は狩谷に千石の禄を与へた。次年五月は廩米《りんまい》中より糯米《じゆべい》三俵を取つて柏餅を製し、津軽藩士と親戚故旧とに貽《おく》るを例としてゐたさうである。
 ※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の死は、津軽屋のためには尋常隠居の死として視るべきではなかつただらう。懐之は固より凡庸人でなかつたことが、慊堂の「風度気象能肖父」を以て証せられてゐる。しかし性頗る酒色を好んだ。家にあるに手杯《てさかづき》を釈《お》かず、客至れば直に前に陳《なら》べた下物《げぶつ》を撤せしめて、新に※[#「肴+殳」、第4水準2−78−4]核《かうかく》を命じた。そして吾家に冷羮残炙《れいかうざんしや》を供すべき賤客は無いと云つたさうである。又|妻《さい》後藤氏に随つて来た侍女に姿色があつたので、遂に留めて妾《せふ》としたと言ふ。想ふに湯島の店は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の董督《とうとく》に待つあること鮮少《せんせう》でなかつただらう。

     その二百十四

 わたくしは狩谷懐之が、縦令《たとひ》多少書を読んでゐたとしても、必ずしも大商店を経営する力をば有せなかつたものと推する。父※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は浅草に隠居した後も、屡《しば/\》湯島に往来して、懐之を庇※[#「广+陰」、8巻−40−上−11]《ひいん》することを怠らなかつたであらう。此年乙未の秋には、其※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が歿したのである。
 わたくしは嘗て懐之が怙《こ》を喪つた後久しからずして下谷|徒町《かちまち》に隠居し、湯島の店を養子三右衛門に譲り、三右衛門が離別せられた後、重て店主人《てんしゆじん》となつたことがあると聞いてゐる。此説は懐之に自知の明があつて、早きを趁《お》うて責任ある地位を遯《のが》れたものとも解せられる。わたくしは只その年月の遅速を詳《つまびらか》にしない。
 懐之の養子三右衛門は二人ある。離縁せられた初の三右衛門は造酒業|豊島屋《としまや》の子であつた。離縁の理由としては、所謂|天閹《てんえん》であつたらしく伝へられてゐる。其真偽は固より知ることが出来ない。後の三右衛門は即ち懐之の後を襲《つ》いだ矩之《くし》で、本《もと》斎藤氏である。
 わたくしは一の事実より推して、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎歿後に懐之が続いて店主人たりし時代は甚だ短くはなかつたことを知る。それは柏軒の女《ぢよ》国《くに》が、初め豊島屋から来た三右衛門の配として迎へられ、その離縁せられた後、遂に斎藤氏から来た三右衛門矩之に嫁したと云ふ事実である。
 矩之は天保十四年生、国は弘化元年生である。懐之の歿した安政三年には、矩之が十四歳、国が十三歳であつた。矩之に先《さきだ》つて狩谷氏に来た豊島屋の子三右衛門は、縦《よ》しや矩之より長じてゐたとしても、既に国を配すべき少年であつたとすれば、其|齢《よはひ》の懸隔は甚だ大くはなかつただらう。
 是に由つて観れば、懐之の退隠は安政の初年より早くはなかつただらう。此年乙未より安政紀元の甲寅に至る間は二十年である。是が懐之の店主人であつた筈の年数である。彼《かの》「怙を喪つて久からずして」退隠したと云ふ説は、斟酌して聞くべきである。わたくしは後に至つて又此問題に立ち帰るであらう。
 ※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の歿した時、其妻はどうしてゐたか。墓誌には唯「出為従祖弟狩谷保古嗣、配以第三女」の句があるのみである。わたくしは此に拠つて※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻が狩谷|保古《はうこ》の第三女であつたことを知る。しかし其生歿を明にすることを得ない。天竜寺には※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の墓があつて、妻狩谷氏の墓は無い。
 わたくしは頃日《このごろ》料《はか》らずも※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻の忌日を知ることを得たやうにおもふ。若し他に記録の徴すべきものが無いとすると、是も亦※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎伝を補ふべき重要なる材料の一であらう。

     その二百十五

 わたくしは此年天保乙未に狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の歿した時、其妻はどうしてゐたかと問うた。既に屡《しば/\》云つた如くに、わたくしは※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の詳伝の有無《いうむ》を知らない。しかし見聞《けんもん》の限を以てすれば、其妻であつた狩谷|保古《はうこ》の第三女は生歿の年月が不詳であるらしい。
 然るにわたくしは頃日《このごろ》市《いち》に閲《けみ》して一小冊子を獲た。藍界《らんかい》の半紙二十六枚のマニユスクリイで、茶表紙の上に貼《てふ》した簽《せん》に「糾繩抄」の三字が題してある。内容は享和三年より天保九年に至るまでに歿した人の忌日で、聴くに随つて書き続いだものと覚しく、所々明に墨色の行毎に殊なるを認める。
 一友人は筆蹟が屋代弘賢《やしろひろかた》に似てゐるが故に、或は弘賢の自筆本ではなからうかと云ふ。弘賢は天保十二年に八十四歳で歿した。若し友の言《こと》の如くならば、輪池《りんち》が歿前三年即八十一歳に至るまで点簿したこととなるであらう。
 按ずるに標題の糾繩《きうじよう》は隋書に「若不糾繩、何以粛※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]」と云つてある如く、ただす義である。此を以て此書に名づけたのは不審である。わたくしは或は糾纏《きうてん》の誤ではなからうかと疑つた。しかし詩人等は屡糺繩を用ゐること糾纏のごとくにしてゐる。わたくしは題簽を熟視してゐるうちに、ふと紙下に墨影あるに心附いた。そして日に向つて透《すか》して視た。果して茶表紙に直《ぢき》に書いた別の三字があつた。此三字は「過去帳」であるらしい。推するに初め過去帳と題し、後|忌《い》んで糾繩抄と改めたものであらう。
 此糾繩抄の文化七年庚午の下《もと》には七人の名がある。原文の儘に録すれば、下《しも》の如くである。「正月廿七日小野蘭山(八十二歳、二月発喪)細見権十郎(三月十六日、実は八月十四日、号秋月院道法日観居士)加藤定四郎(四月十九日朝)太田備後守殿(六月十七日於掛川死去、脚気腫之由)望之妻(六月十八日朝)吉川熊太郎(七月十四日病死)おのふ(八月。)」括弧内は細註の文である。
 わたくしは此「望之妻」は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻であらうと謂《おも》ふ。果して然らば、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻狩谷氏は文化七年庚午六月十八日の朝歿したこととなるであらう。
 ※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の墓誌には「育一男二女、男即懐之、(中略、)女一適高橋某、一適伊沢信重」と書してある。伊沢分家の口碑の伝ふる所に拠れば、初め狩谷保古は望之《ばうし》を養ふに当つて、其生父高橋|高敏《かうびん》に約するに、望之の子をして高橋氏を嗣《つ》がしむることを以てした。それゆゑ※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の長女たかのは高橋氏に養はるることとなつてゐた。然るにある日長女次女は相携へて浅草の観音に詣でた。家に帰つて、長女は病臥し、遂に起たなかつた。次女はたか、後の名は俊《しゆん》で、長じて後柏軒に嫁《か》した。誕生の順序は第一懐之、第二たかの、第三たかであつたと云ふのである。
 ※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻が文化七年に歿したとすれば、是は懐之七歳、たか一歳の時である。たかのは懐之より穉《をさな》く、たかより長じてゐたことを知るのみで、其生歿年を詳《つまびらか》にしない。当時※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は三十六歳であつた。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻は夫に先つこと二十五年にして既に歿してゐた。

     その二百十六

 此年乙未には蘭軒門人森枳園の家に冢子《ちようし》約之《やくし》が生れた。渋江抽斎の家では嫡子|恒善《つねよし》が既に十歳になつてゐて、此年第二子|優善《やすよし》が生れた。約之と優善とは榛軒の女《ぢよ》柏《かえ》と同庚で、若し大正丁巳までながらへてゐたら、今の曾能子《そのこ》刀自と倶に、八十三歳になつてゐる筈である。
 此年榛軒三十二、妻志保三十六、柏軒二十六、長二十二、志保の産んだ柏一歳であつた。
 天保七年には春の未だ闌《たけなは》ならぬうちに、柏軒が狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の第二女たか、後の名|俊《しゆん》を娶《めと》つたらしい。何故と云ふに、柏の初節句即丙申の三月三日には、たかが家にゐたと伝へられてゐるからである。
 柏軒たかの夫婦は同庚である。そして共に二十七歳で結婚したこととおもはれる。
 たかは善く書を読んだ。啻《たゞ》に国文を誦《じゆ》するのみではなく、支那の典籍にも通じてゐた。現に徳《めぐむ》さんの姉|良子《よしこ》刀自は、たかが子に授けむがために自ら書した蒙求《まうぎう》を蔵してゐる。拇指大《ぼしだい》の楷書である。女文字に至つては当時善書の聞《きこえ》があつた。連綿草《れんめんさう》を交へた仮名の散らし書の消息数通、細字の文稿二三巻も亦良子刀自の許にある。蘭軒の姉正宗院と云ひ、此たかと云ひ、渋江抽斎の妻五百と云ひ、仮名|文《ぶみ》の美しきことは歎賞すべきである。たかは折々父※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に代つて歌を書いた。そして人はその孰《いづ》れか※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎にして孰れかたかなるを辨ずることを得なかつた。たかは歌を詠じ、文章を書いた。
 たかは夙《はや》く今少納言と称せられ、又単に少納言と呼ばれた。それゆゑ後に山内氏五百が才名を馳せた時、人が五百を新少納言と呼んだ。たかの少納言に対《むか》へて呼んだのである。たかは五百より長ずること七歳であつた。渋江保さんは両少納言の初て相見た時の事を母に聞いてゐる。これは大勢で川崎の大師に詣でた時で、二人を紹介したのは磯野勝五郎即後の石川貞白であつた。五百は後に「思つた程美しくはなかつた」と云つた。たかは背が低かつたさうである。
 たかは諸藝に通じてゐて、唯音楽を解せなかつた。塙検校《はなはけんぎやう》の類《たぐひ》であつたと見える。
 たかは処女時代に黒田家の奥に仕ふること三年であつた。正宗院の曾て仕へた家である。君侯のお手が附いたと云ふ虚説が伝へられたために、暇《いとま》を乞うたさうである。
 たかの柏軒に嫁したのは、自ら薦めたのださうである。「磐安《ばんあん》さんがわたしを女房《にようぼ》に持つてくれぬかしら」とは、たかの屡《しば/\》口にした所であつた。推するに橋わたしは石川であつたかも知れない。当時|懐之《くわいし》の家は富裕であつた。然るにたかはみづから択んで一諸生たる柏軒に嫁《か》したのである。
 保さんは彼「失はれたるマニユスクリイ」抽斎日乗に、五六枚の記事のあつたことを記憶してゐる。それは諸友の柏軒たかの華燭を賀した詩歌であつた。中には狂歌狂句俗謡の類で、文字の稍《やゝ》褻《せつ》に亘つたものが夾雑してゐた。女のしかけた恋だと云ふ故であつたらしい。

     その二百十七

 わたくしは渋江抽斎の日乗に、柏軒と狩谷氏たかとの合※[#「丞/巳」、8巻−45−上−5]《がふきん》を祝する詩歌、俳諧、俗謡があつて、中には稍褻に亘つたものゝあつたことを語つた。そして是がたかの自ら薦めた故であつたらしいと云つた。しかしたかの此の如き揶揄を被《かうむ》つたには、猶別に原因があるら
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