》仮名違等は直に改めた。若し其原形を知らむと欲する人があるなら、屠赤瑣々録《とせきさゝろく》に就て検してもらひたい。又わたくしは事実を討《もと》むるに急なるがために、翫味するに堪へたる抒情の語をも、惜しげなく刪《けづ》り去つた。例之《たとへ》ば「猶さら此せつは主人(の)すきなすゐせんの花どもさき、一しほ/\おもひ出し候て、いく度か/\かなしみ候」の類である。水西荘の水仙花は里恵をして感愴《かんさう》せしむること甚深であつたと見えて、その小野氏に寄せた一書にも、これに似た語がある。森田思軒が「人情の極至亦詩情の極至」と評した語である。小野氏に寄せた書は「閏月十日」の日附があつて、広江夫妻に寄するものに先《さきだ》つこと十五日である。前書を裁した時|痘《とう》を病んでゐた陽が、後書を裁する時既に愈《い》えてゐる。
 広江夫妻に寄する書は事実を蔵すること極て富饒である。それゆゑにわたくしは此書に史料としての大なる価値を賦与する。それゆゑにわたくしは、諸山陽伝中山陽の終焉及其歿後の事を叙する段は、此書牘に拠つて改訂せらるべきものなることを信ずる。
 わたくしの上《かみ》に引いた文は山陽歿後の事に限られてゐる。然るに其中に見出さるる事実の多きことよ。
 山陽は九月二十三日未刻の比《ころ》に遺言をした。「水西荘の地は借地である。しかしそこに建ててある家は頼氏の所有である。里恵には費《つひえ》を節して此家に住み、専ら幼女陽の保育に任じてもらひたい。復醇の二男子は家にあつて安きに慣れしむべきでは無い。食費を給して人に託してもらひたい。里恵は老婢一人を役して、陽と与に水西荘に住み、二男児の長ずるを待ち、京都市中に移り住むが好い。」是が遺言の内容であつた。
 里恵は二子一女と倶に五十日の喪を過した。「五十日のあひ/\はか参二人つれにて、もふくにて参候。」わたくしは此辺の文を省いたが、「二人つれにて」は復醇の二子を挈《たづさ》へて往つたのである。わたくしは母子の「三人づれ」と解する。
 五十日の後、里恵は復を牧百峰に託した。そして醇をば児玉旗山の許に通学せしめた。是が十一月十四日に里恵が夫の遺言を履行した始である。旗山の家には五月以来新婦がゐた。百峰は復の寄寓した後九日にして妻《さい》小石氏を迎へた。
 閏十一月には陽が重い疱瘡を病んで僅に生きた。其直後に小野氏に寄せた書が、恐くは里恵の未亡人としての最初の筆蹟であらう。此時に至るまで頼氏の通信は渾《すべ》て関五郎が辨じてゐたのである。
 里恵の書中より見出すべき事実は未だ尽きない。わたくしは今少し下《しも》に解説を試みたい。

     その二百十一

 此年壬辰|閏《じゆん》十一月二十五日に頼山陽の未亡人里恵が広江秋水夫妻に寄せた書の中より、わたくしは尚|下《しも》の事を見出す。
 山陽の歿後中陰の果の日までは、里恵は毫も家内の事を変更せずに、夫の位牌に仕へてゐた。さて五十日を過した後、遺言の履行に著手し、先づ二人の男児を人に託した。次で自ら簡牘《かんどく》をも作つた。しかし里恵が夫の位牌に仕ふることは猶旧に依つてゐた。「せめてと存、誠に大切に百箇日迄、ちゆういん中同やうにつとめ申候。日々かうぶつのしなをそなへ申候。」語は前に省《はぶ》いた中にある。
 山陽は九月二十三日に歿した。さて中陰四十九日は十一月十二日に果て、翌十三日を以て五十日が過ぎ去つた。嗣子復が牧氏に徙《うつ》り、其弟醇が児玉氏にかよひ始めた日を、十四日とする所以《ゆゑん》である。次に若し上《かみ》に云つた如く、里恵の始て自ら裁した書が小野氏に寄する書であつたとすると、里恵は夫の死してより第七十七日に筆を把つたのである。其時幼女陽は疱瘡の回復期であつた。「はうさう後虫が出」云々《しか/″\》と云つてある。次に里恵は書を広江氏に寄せた時、醇を児玉氏へ「せつかく此節遣候(はむ)と存候」と云つてゐる。是が夫の死してより第九十二日である。此後十二月三日に至つて、百箇日が始て終つた。
 百箇日の間夫の位牌に仕へた里恵の情は、上に引いた書にいかにも切実に描き出されてゐる。「誠に/\此せつも遠方へゆかれ留守中と存候て、日々《にち/\》つとめ申候。左様なくば、むねふさがり、やるせなく、御さつし可被下候。」わたくしは事実を録するを旨としたために、此語をも省いた。わたくしの判断を以てすれば、人情の極至は水仙花|云云《うんぬん》の語に在らずして此語に在る。
 里恵は次年癸巳の春|聿庵《いつあん》の江戸より来るのを待つてゐる。聿庵は二弟の中一人を安藝へ率《ゐ》て行く筈である。此事は啻《たゞ》に上に引いた書に見えてゐるのみでなく、蚤《はや》く里恵の小野氏に寄せた書にも見えてゐる。そして小野氏に寄せた書には、事が杏坪《きやうへい》の意に出でたやうに云つてある。「此方そばに置度と広島をぢよりせつかく申参候。」又広江氏に寄せた書には、語が杏坪に及んでゐない。余一より「書状参り」の下が、「来春余一が下り候節、子ども一人は国元にて世話いたし度と申参候」と承《う》けてある。推するに聿庵よりは直接に、杏坪よりは間接に言つておこせたのであらう。
 安藝へ率て行かれる二人の中の一人は、支峰復《しほうふく》になつたらしい。わたくしは支峰の事蹟を詳《つまびらか》にせぬが、幼時一たび安藝に往つてゐたさうである。聿庵の帰郷は少し遅れて夏に入つたらしい。梁川星巌の贐《はなむけ》の詩がある。「鵑啼催得発征車。留滞江城両歳余。曾擬承歓為徳逸。豈図泣血是皋魚。愁辺新樹客衣冷。望裏白雲親舎虚。行到琵琶湖水畔。知君弔影重欷歔。」詩は夷白庵集《いはくあんしふ》一に出でてゐる。

     その二百十二

 頼山陽歿後の里恵の操持《さうぢ》は久しきを経て渝《かは》らなかつた。後藤松陰撰の墓誌に、「君既寡、子皆幼、而持操屹然、凡事皆遵奉遺命、夙夜勤苦、教育二孤、終致其成立」と云つてある。弘化三年五月二十七日に、京都町奉行伊奈遠江守|忠告《たゞのり》が里恵の「貞操奇特」を賞したことは、世の知る所である。是は里恵五十歳、復二十四歳、醇二十二歳の時であつた。
 水西荘は後に人手に落ちて、春処《しゆんしよ》と云ふ画家がこれに居り、次で医師安藤精軒の出張所となつた。支峰復《しほうふく》は安藤に譲渡《ゆづりわたし》を請うたが聴かなかつた。此時安藤が梅田|雲浜《うんぴん》の門人であつたので、梅田の未亡人が其間に周旋した。以上の事は上野南城の話として森田思軒が記してゐる。此変遷の年月は不詳である。しかしわたくしは偶然水西荘が安藤の有に帰してゐた時の事を知つてゐる[#「知つてゐる」は底本では「知つつてゐる」]。わたくしの亡弟篤次郎の外舅《ぐわいきう》に長谷文《はせぶん》さんと云ふ人がある。此長谷氏は水西荘を安藤に借りて、これに居ること三年であつた。そして篤次郎の未亡人久子は水西荘に生れたさうである。是に由つて観れば明治丁丑前後には荘が猶安藤の手にあつた。其後のなりゆきは、わたくしは聞知しない。
 此年天保三年には榛軒二十九歳、妻志保三十三歳、柏軒二十三歳、長十九歳であつた。蘭軒の姉正宗院は六十二歳になつた。
 蘭軒歿後の第四年は天保四年である。榛軒の家には事の記すべきものが無い。わたくしは柏軒の雑記中に於て、柏軒が三月十六日に正宗院を溜池に訪うて逢はなかつたことを見出した。正宗院は猶溜池の比丘尼長屋に住んでゐたものと見える。
 蘭軒の門人森枳園が妻を娶《めと》つたのは此年である。妻は名を勝と云つて、鼈甲屋の娘であつたさうである。
 頼氏では石川|藤陰《とういん》が元旦に水西荘にあつて詩を賦した。「三面遅梅未著花。春風吹動柳条斜。仙遊隔世君知否。迎歳吾猶在此家。」門田《もんでん》朴斎は江戸にあつて儲君阿部正弘の侍読をしてゐたが、遠く思を水西荘に馳せて、「遙思三面闢窓処、寂寞迎春梅影疎」と云つた。夏五月には田能村竹田《たのむらちくでん》が水西荘に来り宿した。「重叩柴門感曷勝。一声認得内人※[#「應」の「心」に代えて「言」、8巻−37−下−7]。」剥啄《はくたく》の声に応ずるものは、門生にあらず、婢僕《ひぼく》にあらず、未亡人里恵であつた。
 此年蘭軒子女の齢《よはひ》は榛軒三十、柏軒廿四、長二十であつた。推するに長は既に井戸応助に嫁《か》してゐたことであらう。榛軒の妻志保は三十四歳、正宗院は六十三歳になつた。
 天保五年は蘭軒歿後第五年である。他年榛軒の嗣となるべき棠軒淳良《たうけんじゆんりやう》が、四月十四日に因幡国《いなばのくに》鳥取の城主松平因幡守|斉訓《なりみち》の医官田中|淳昌《じゆんしやう》の子として生れた。通称は鏐造《りうざう》である。母の名は八百、杉田玄白の女《ぢよ》だと、歴世略伝に云つてある。玄白とは初代玄白|翼《よく》であらうか。玄白は初め子がなかつたので、建部《たてべ》氏|伯元勤《はくげんきん》を養つて嗣とした。其後一児を挙げたのが立卿予《りつけいよ》である。女《むすめ》の事は伝に見えない。勤《きん》と予《よ》との女《ぢよ》の事も亦同じである。杉田氏の系譜を識る人の教を乞ひたい。
 頼氏では此年五月|朔《さく》に杏坪《きやうへい》が七十九歳で広島に歿した。わたくしは其集の末巻《まつくわん》を攤《ひら》いて見た。「黄葉村南人去後。毎逢花月独推敲。」此恨は蘭軒にあつては僅に一年余であつたが、杏坪にあつては七年の久しきに至つた。「旧歓杳渺多年夢。故友凄寥残夜星。」
 此年蘭軒の子女は榛軒三十一、柏軒二十五、長二十一であつた。蘭軒の姉は六十四、榛斬の継室は三十五になつた。

     その二百十三

 蘭軒歿後の第六年は天保六年である。榛軒の家には一男子が死して一女子が生れた。
 男子は誰であるか。先霊名録に曰く。「疎桐禅童子。信厚義子。実信重子。母藤田氏。天保六年乙未閏七月十七日歿。」子は法諡《はふし》を疎桐《そとう》と云つた。恐くは未だ小字《をさなな》を命ずるに及ばずして夭したのであらう。疎桐の生父は柏軒である。柏軒は後狩谷氏|俊《しゆん》を娶《めと》つた。又一|妾《せふ》佐藤氏春を畜《やしな》つてゐた。しかし疎桐の生れたのは狩谷氏の未だ来り嫁《か》せざる前である。又佐藤氏春の齢《よはひ》を推算するに、春は文政八年の生で、此年|甫《はじめ》て十一歳であつた。わたくしは藤田氏の女《ぢよ》の何人《なにひと》なるを知らぬが、その産む所の疎桐が柏軒|未娶前《みしゆぜん》の子なることは明である。それゆゑに兄榛軒は己の子として公《おほやけ》に稟《まう》したのであらう。
 女子は誰であるか。榛軒の継室飯田氏|志保《しほ》の始て生む所で、初め名を柏《かえ》と命ぜられた。即ち大正丁巳に至つて八十三歳の寿を保つてゐる曾能子《そのこ》刀自である。若し榛軒の先妻|勇《ゆう》の出《しゆつ》なるれんよりして順位を論ずれば、刀自は第二女である。わたくしの此より下《しも》に記する所は、刀自の記憶に負ふ所のものが極て多い。
 此年|閏《じゆん》七月四日に狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が六十一歳で歿した。松崎|慊堂《かうだう》撰の墓誌に、「天保乙未、遽焉嬰病」と書してあるから、前年甲午に至るまでは尚|健《すこやか》であつたと見える。他日慊堂日暦を閲《けみ》したらば、或はその何の病なるを知ることを得るかも知れない。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の歿したのは、浅草の常関書院に隠居してより第十九年の事である。津軽家用達として世に聞えてゐた湯島の店には、当主|懐之《くわいし》が三十二歳になつてゐた筈である。懐之の妻は所謂呉服屋後藤の女《むすめ》で、名をふくと云つたさうである。
 湯島の津軽屋は大い店で、留蔵、音三郎、梅蔵三人の支配人即|通番頭《かよひばんとう》が各《おの/\》年給百五十両であつた。渋江保さんの話に、渋江氏の若党柴田清助の身元引請人利兵衛は、本町四丁目の薬店《やくてん》大坂屋の通番頭で、年給二十両であつた。大坂屋では是が最高の給額で、利兵衛一人がこれを受け、傍輩に羨まれてゐた。渋江抽
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