年である。
その二百二十九
わたくしは池田玄俊の事蹟を叙して、寛政三年に玄俊が京都車屋町に住んでゐた処へ、兄瑞仙が大坂から徙《うつ》つて来て、半年余の後油小路の裏店《うらだな》を※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]《か》りた事を言つた。翌四年には瑞仙が播磨国に遊歴した。留守は十八歳の長女千代と六歳の祐二とであつたから、玄俊が世話をしたことであらう。京水の記に、「明年(寛政四年)播州に遊び、大に弟子を得て帰る」と云つてある。
五年には瑞仙の家に哀《かなし》むべき出来事があつた。過去帖に拠るに、瑞仙の長女千代は此年七月二十一日に歿したのである。「釈智秀信女、同(瑞仙)長女、同(寛政)五癸丑七月廿一日、二十歳」と記するものが是である。瑞仙は先妻妙仙に二女があつて皆早世し、後妻《こうさい》寿慶は子を産まずして死んだ。
六年には瑞仙が家を移した。京水の記に、「間之町に僑居」すと云つてある。
七年には瑞仙が又家を移した。同じ記に、「東洞院丸太町下る処に卜居」すと云つてある。入京以来第三の居宅である。霧渓は行状にかう書してゐる。「後君厭浪華市井之囂塵。寛政壬子秋。游于京師。愛其地之佳麗雄勝。遂寓居于東洞院。」実は瑞仙の東洞院に住んだのは、四年壬子の後三年の事である。
八年は瑞仙が江戸の召命を受けた年である。痘科《とうくわ》を以て立たうと志した平生の望は此に遂げられた。時に年六十一であつた。書上《かきあげ》に拠るに、幕府の命は十二月二十六日に京都所司代に由つて伝へられたのである。初め池田氏の戴氏《たいし》に承けた痘科は、瑞仙も玄俊も共にこれを伝習してゐた。そして瑞仙が此に由つて立たうと志したがために、玄俊は痘科を棄てゝ顧みなかつたのださうである。京水の記にかう云つてある。「信郷大方科を業として、兼て痘科を修たれども、兄善郷専ら痘科を業とするに及て、自ら譲て偏に大方を修む。」
九年は瑞仙入府の年である。書上に拠るに、瑞仙は正月三日に京都を発し、十三日に江戸に著した。その寄合医師を命ぜられ、高《たか》二百俵を受けたのは三月五日である。此時瑞仙が京都に留めて置いた家族は、独り養子祐二のみではなかつた。瑞仙には妻があつたらしい。
此事は三世瑞仙の先祖書初代瑞仙の条に削り去られてゐて、京水の写し伝へた庚申書上に見えてゐる。「同年(寛政九年)五月廿一日、私儀新規被召出候に付、京都に罷在候家内之者共、此度呼下度候段奉願候処、早速願之通堀田摂津守殿被仰渡候。同八月六日当著仕候。悴杏春儀は其節病気に付、快気次第と被仰付候。同年十一月四日当著仕候。」所謂「家内之者共」とは名を斥《さ》さゞる人と杏春《きやうしゆん》とで、名を斥さゞる人は八月六日に先づ至り、杏春は十一月四日に後れて至つた。杏春は祐二である。京水は「善郷(中略)実子の届に言上するに及て杏春と称す」と自記してゐる。名を斥さゞる人は即ち佐井氏、実は菱谷氏《ひしたにうぢ》沢《さは》である。沢は瑞仙の三人目の妻である。「当著」は初めわたくしは当地著の脱文かと以為《おも》つたが、その重出するを見るに、到著の誤であらう。
その二百三十
池田瑞仙は自己が寛政九年正月十三日に江戸に著き、妻沢が八月六日に、養子杏春が十一月四日に継《つ》いで至つた。
瑞仙が三人目の妻沢を娶《めと》つたのは何時であつたか知らぬが、其二人目の妻寿慶が寛政二年に死んだ後、三年に大坂より京都に徙《うつ》つた時には、京水の記に「女於千代を従え」と云つてある如く、妻は無かつた。此より後九年に至る間に瑞仙は沢を娶つた。猶細に考へて見るに、此婚姻は油小路の家に於てせられたのでもなく、間之町《あひのまち》の家に於てせられたのでもなく、長女千代が死してより後時を経て、東洞院の家に於てせられたのではなからうか。
又養子祐二の名が杏春と改められたのも、月日を明にせぬが、京水の自記に拠るに、父瑞仙が江戸に於て実子として届け出でた時であつたらしい。即ち入府後であつたらしい。
此推定にして誤らぬならば、瑞仙の三人目の妻沢は寛政七年若くは八年に、養子祐二のゐる処へ迎へられたのである。沢は三十一歳若くは三十二歳で、祐二は十歳若くは十一歳であつた。次で瑞仙が召されて江戸に来り、沢と祐二改杏春とを迎へ取つた。是が瑞仙六十二、沢三十三、杏春十二の時である。
瑞仙が六十二歳を以て江戸に召された時、弟玄俊は六十歳を以て京都に居残り、幾《いくばく》もあらぬに死んだ。京水の記にはかう云つてある。「寛政九年善郷江戸に至るの故を以て、帯刀免許の命を蒙り、町年寄を兼ることを辞して後、東洞院の善郷が居宅に移り、同年八月二日死、宗仙寺に葬る、法名隣山粛徳信士。」
是に由て観るに、玄俊信郷は兄瑞仙善郷が寛政九年三月五日に幕府の医官となつた後、帯刀を允《ゆる》され、御池通車屋町の年寄役を辞し、東洞院なる兄の旧宅に移り、八月二日に死んだのである。
玄俊の京都に客死したのは、兄瑞仙に別れた後である。しかしわたくしの推測する所を以てすれば、実子祐二改杏春は猶未だ京都を離れなかつたであらう。仮に杏春が江戸に至るに、養父瑞仙と同じ日子を費したものとする。瑞仙は正月二日に発程して十三日に入府した。其間十一日である。今杏春の江戸に至つた十一月四日より溯ること十一日なるときは、丁巳の十月は大なるが故に、十月二十三日となる。此日は、丁巳の八月は大、九月は小なるが故に、生父玄俊の死後八十日を過した時である。想ふに杏春は生父の病を瞻《み》、其|葬《とぶらひ》を送り、故旧の援助を得て後事を営み、而る後京都を離れたことであらう。
瑞仙は其書上に、養子杏春の妻沢より遅れた原因を杏春の病に帰してゐる。「悴杏春儀は其節病気に付快気次第と被仰付候。」穉《をさな》い杏春は果して病んでゐたか。或はその病んでゐたものは杏春にあらずして、生父玄俊であつたか。
その二百三十一
寛政九年に江戸に来て、冬に至るまでに家族を京都から呼び迎へた池田瑞仙は、初め暫く市中に住んで、次で居を駿河台に卜し、翌十年二月六日には奥詰医師に陞《のぼ》せられた。瑞仙の家は此の如く栄達の途を進んで行つて、余所目《よそめ》には平穏事なきが如くに見えてゐた。
しかし其裏面には幾多の葛藤があつたものと看なくてはならない。わたくしは後《のち》よりして前を顧み、果《くわ》よりして因を推し、錦橋瑞仙の妻《さい》沢《さは》を信任することが稍過ぎてゐたのではないかと疑ふ。其家に出入《いでいり》する佐々木文仲と云ふものをして、余りに深く内事に干渉するに至らしめたのではないかと疑ふ。佐々木は恐くは洋人の所謂「家庭の友」に類した地位を占むるに至つたのであらう。そして佐々木と沢との関係は、遂に養子杏春をしてこれが犠牲たらしめたのであらう。
わたくしは嘗て杏春即京水が、霧渓撰の錦橋行状に於ても、富士川氏の写した京水墓誌の一段に於ても、虚弱者としてとりあつかはれてをり、又文中読者をしてその無学無能を想はしめむとするが如き語気あるを見て、此間に或秘密が伏蔵してゐはせぬかと疑つた。今やわたくしは京水自筆の巻物を閲《けみ》することを得て、此間の消息を明にした。駿河台の池田氏には正に一の悲壮劇があつた。そして其主人公は京水即当時の杏春であつた。
池田の家の床下に埋蔵せられてゐた火薬は終に爆発した。それは京水廃嫡一件である。
三世瑞仙直温の先祖書にはかう云つてある。「病気に而末々御奉公可相勤体無御坐候に付、総領除奉願候処、享和三亥年八月十二日願之通被仰付候。」しかし今|細《こまか》に検すれば、此一件は瑞仙が嫡子を廃したのではなく、杏春が継嗣を辞したのである。且此事のあつた年は、享和三年癸亥ではなく、享和元年辛酉である。按ずるに癸亥は事後に官裁を仰いだ年であらう。
京水自筆の巻物中参正池田家譜|善直《よしなほ》の条には、「享和元年病に依て嗣を辞するの後瑞英と改む」と書してある。嗣を辞したのと、杏春を瑞英と改めたのとは、辛酉の出来事である。当時養父錦橋六十六、養母沢三十七、杏春の瑞英十六であつた。
此一件の詳なるは、京水瑞英の家に「生祠記」一巻があつて具《つぶさ》に載せてあつたさうである。京水は「辞嗣の始末は生祠記に詳也」と云ひ、又「行状別に生祠記一巻あり、門人等録する所なり、其言頗る過誉なりと雖も、未た必しも偽なし、故に子孫其書に就て余が始終を見るへき者なり」と云つてゐる。生祠記《せいしき》は惜むらくは佚した。少くも池田全安さんの家には存してゐない。
生祠記は既に佚した。しかし京水は養父の幕府に呈した系図を写して、其後に数行の文を書した。わたくしは此書後に由つて生祠記の内容の一端を知ることを得た。京水の辞嗣は霧渓の受嗣と表裏をなしてゐて、其内情は下《しも》の如くである。
「右直郷(霧渓二世瑞仙晋)は初佐佐木文仲の弟子なり。文仲は於沢の方に愛せられて、遂に余を追て嗣とならむの志起り、種々謀計せしかど、余辞嗣の後にも養子の事(文仲自ら養子となる事)成らず、終に直郷に定りたり。其間山脇道作の男玄智、瑞貞と云、堀本一甫の男某、田中俊庵の男、瑞亮と云、皆一旦は養子となれども、何れも於沢の方と文仲に追出されたり。善直(京水瑞英)誌。」
その二百三十二
わたくしは池田京水、当時初代瑞仙の養嗣子杏春が宗家を継ぐことを辞した内情を語つた。杏春は養母沢に悪《にく》まれて家を出でた。沢は佐佐木文仲と云ふものと謀つて、杏春をして去らしめた。それは沢が文仲をして杏春に代らしめようとしたのである。佐佐木文仲の何人なるかは、わたくしは未だ考へない。しかし既に霧渓の師であつたと云へば、杏春より長じてゐたことは勿論であらう。又霧渓よりも長じてゐたであらう。霧渓は杏春より長ずること二歳であつた。
杏春の去つた後、沢は夫に文仲を養はむことを勧めたであらう。しかし夫瑞仙は聴かずに、養子を他家に求めた。先づ山脇道作の子が来り、次に堀本一|甫《ぽ》の子が来り、最後に田中俊庵の子が来つた。そして三人皆沢に斥《しりぞ》けられた。
武鑑を検するに、山脇道作は「法眼、寄合御医師、五十人扶持、京住居」と云つてある。堀本一甫は「奥御医師、御口科、二百俵十人扶持、築地中町」と云つてある。独り田中俊庵と云ふものが当時の幕府医官中に見えぬが、わたくしは前二人が官医であるより推して、田中も亦官医であらうとおもふ。わたくしは是は田中|俊川《しゆんせん》を謂つたものであらうとおもふ。田中俊川は武鑑に「表御番医師、百五十俵、芝田七丁目」と云つてある。「芝田」は芝の田町であらう。
山脇、堀、田中三氏の子が相踵《あひつ》いで逐はれた後に、当時籍を瑞仙の門人中に列してゐた上野国|上久方村《かみひさかたむら》医師村岡善左衛門|常信《つねのぶ》倅善次郎が養子にせられた。即ち霧渓二代瑞仙|直郷《なほさと》、又の名は晋《しん》である。
霧渓はいかにして池田宗家に留まることを得たかと云ふに、是は沢が夫の到底文仲を養ふに意なきを見て、文仲を家に迎ふることを断念し、霧渓を養ふことを賛成したからである。霧渓は文仲の旧弟子であつた。天明四年生の霧渓は当時十八歳になつてゐた。その公《おほやけ》に稟《まう》して養嗣子とせられたのは、此より十五年の後、文化十三年三月である。瑞仙の死に先《さきだ》つこと六箇月である。霧渓は既に三十三歳になつてゐた。
わたくしは此に杏春の生父玄俊の師の一人が京都の産科医賀川玄吾であつたことを回顧する。池田瑞仙が杏春|去後《きよご》に霧渓をして家を継がしめたのは、玄吾の生父初代玄悦が玄吾去後に岡本|玄迪《げんてき》をして家を継がしめたと、其迹が甚だ相類してゐる。玄吾と杏春との間には、実子と養子との別はあるが、その父の後妻に悪《にく》まれたことは同じである。又杏春が他年一家を樹立して宗家と相譲らざるに至つたことも、其生父の廃儲《はいちよ》であつた有斎玄吾と相似てゐる。
わたくしは此より池田宗家を去つた後の杏春|改《あらため》瑞英の事蹟
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