十四

 此年享和三年に蘭軒の父|信階《のぶしな》の仕へてゐる阿部家に代替があつた。伊勢守|正倫《まさとも》が十月六日に病に依つて致仕し子|主計頭正精《かぞへのかみまさきよ》が家を継いだのである。正倫は安永六年より天明七年に至るまで初め寺社奉行見習、後寺社奉行を勤め、天明七八年の両年間宿老に列してゐた。致仕後二年、文化二年に六十一歳で歿した。継嗣正精は学を好み詩を善くし、棕軒《そうけん》と号した。世子《せいし》たりし日より、蘭軒を遇すること友人の如くであつた。
 文化元年には蘭軒が「甲子元旦」の五律を作つた。其後半が分家伊沢の当時の生活状態を知るに宜しいから、此に全首を挙げる。「陽和新布令。懶性掃柴門。梅傍辛盤発。鳥求喬木飛。樽猶余臘酒。禄足製春衣。賀客来無迎。姓名題簿帰。」伊沢氏は俸銭|※[#「米+胥」、第4水準2−83−94]銭《しよせん》を併せたところで、手一ぱいのくらしであつただらう。所謂《いはゆる》不自由の無いせたいである。五六の一聯が善くこれを状してゐる。結二句は隆升軒父子の坦率《たんそつ》を見る。
 正月に新に封を襲いだ正精が菅茶山を江戸に召した。頼山陽の撰んだ行状に、「正月召之東」と書してある。茶山は江戸に著いて、微恙のために阿部家の小川町の上屋敷に困臥し、紙鳶《たこ》の上がるのを眺めてゐた。茶山の集に「江戸邸舎臥病」の二絶がある。「養痾邸舎未尋芳。聊買瓶花插臥床。遙想山陽春二月。手栽桃李満園香。閑窓日対薬炉烟。不那韶華病裡遷。都門楽事春多少。時見風箏泝半天。」「春二月」の三字にダアトが点出せられてゐる。蘭軒の集には又「春日郊行。途中菘菜花盛開。先是菅先生有養痾邸舎未尋芳之句、乃剪数茎奉贈、係以詩」と云ふ詩がある。「桃李雖然一様新。担頭売過市※[#「「纒のつくり+おおざと」、7巻−48−上−9]塵。贈君野菜花千朶。昨日携帰郊甸春。」菜の花に菘字《しゆうじ》を用ゐたのは、医家だけに本草綱目に拠つたのである。先生と云ひ、奉贈《ほうぞう》と云ふを見れば、茶山と蘭軒との年歯の懸隔が想はれる。茶山が神辺《かんなべ》の菅波久助の倅|百助《ひやくすけ》であつたことは、行状にも見えてゐるが、頼の頼兼《よりかね》を知つた人も、往々菅の菅波を知らない。寛延元年の生で、此年五十七歳、蘭軒は二十八歳であつた。推するに蘭軒は殆ど師として茶山を待つてゐたのであらう。
 三月になつて茶山は病が※[#「やまいだれ+差」、第4水準2−81−66]《い》えた。十九日に犬塚|印南《いんなん》、今川槐庵、蘭軒の三人と一しよに、お茶の水から舟に乗つて、墨田川に遊んだ。狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎も同行の約があつたが、用事に阻げられて果さなかつた。舟中で四人が聯句をした。蘭軒雑記に「聯句別に記す」と云つてあるが、今知ることが出来ない。
 印南、名は遜《そん》、字《あざな》は退翁、通称は唯助、一号は木王園《もくわうゑん》である。寛延三年に播磨国姫路の城主酒井|雅楽頭忠知《うたのかみたゞとも》の重臣犬塚純則の六男に生れ、同藩青木某の女婿となり、江戸に来て昌平黌の員長に推された。尋《つい》で本氏《ほんし》に復し、黌職《くわうしよく》を辞し、本郷に家塾を設けた。寛政の末だと云ふから、印南が五十前後の頃である。印南は汎交《はんかう》を避け、好んで書を読んだ。講書のために上野国高崎の城主松平右京亮輝延の屋敷と、輪王寺|公澄法親王《こうちようはふしんのう》の座所とへ伺候する外、折々酒井雅楽頭|忠道《たゞみち》の屋敷の宴席に招かれるのみであつた。印南は嘗て蘭軒に猪牙《ちよき》舟の対《たい》を求められて、直《たゞち》に蛇目傘と答へたと蘭軒雑記に見えてゐるから、必ずや詩をも善くしたことであらう。

     その二十五

 印南、茶山、蘭軒と倶に、墨田川に花見舟を泛《うか》べた今川槐庵は、名は※[#「穀」の「禾」に代えて「一/豕」、7巻−49−上−7]《こく》、字は剛侯《かうこう》である。わたくしは※[#「穀」の「禾」に代えて「一/豕」、7巻−49−上−7]は毅ではないかと疑ふが、
第《しばら》く※[#「くさかんむり/姦」、7巻−49−上−8]斎《かんさい》詩集の録する所に従つて置く。
 山陽の撰んだ茶山の行状は、「正月召之東」の句に接するに、「遂告暇遊常州」の句を以てしてある。茶山の著述目録の中に、常遊記《じやういうき》一巻とあるのが、恐くは此行を紀したものであらう。しかしわたくしは未だ其書を見ない。姑《しばら》く集中の詩に就て検するに、常遊雑詩十九首があつて、中に太田と註した一絶がある。其転結に「五月久慈川上路、女児相喚采紅藍」と云つてある。久慈川に近い太田は、久慈郡太田であらう。五月の二字から推せば、さみだれの頃の旅であつただらう。蘭軒の集には其頃|梅天断梅《ばいてんだんばい》の絶句|各《おの/\》二首がある。梅天の一に「山妻欲助梅※[#「蕩」の「昜」に代えて「且」、第4水準2−86−32]味、手摘紫蘇歩小園」の句があり、断梅の一に「也有閑中公事急、擬除軒下曝家書」の句がある。※[#「蕩」の「昜」に代えて「且」、第4水準2−86−32]《そ》は説文《せつもん》に「酢菜也」とある。梅※[#「蕩」の「昜」に代えて「且」、第4水準2−86−32]《ばいそ》も梅※[#「「韲/凵」、7巻−49−下−8]《ばいせい》も梅漬である。茶山が常陸巡をしてゐる間、蘭軒はお益《ます》さんが梅漬の料に菜圃の紫蘇を摘むのを見たり、蔵書の虫干をさせたりしてゐたと見える。頼氏の修史が山陽一代の業で無いと同じく、伊沢氏の集書も亦蘭軒一代の業では無いらしい。
 秋に入つてから七月九日に、茶山蘭軒等は又墨田川に舟を泛べて花火を観た。一行の先輩は茶山と印南との二人であつた。
 同行には源波響《げんはきやう》、木村|文河《ぶんか》、釧雲泉《くしろうんせん》、今川槐庵があつた。
 源波響は蠣崎《かきざき》氏、名は広年《くわうねん》、字は世詁《せいこ》、一に名は世※[#「示+古」、第3水準1−89−26]《せいこ》、字は維年《ゐねん》に作る。通称は将監《しやうげん》である。画を紫石応挙の二家に学んだ。明和六年生だから、此年三十五歳であつた。釧雲泉、名は就《しう》、字は仲孚《ちゆうふ》、肥前国島原の人である。竹田《ちくでん》が称して吾国の黄大癡《くわうたいち》だと云つた。宝暦九年生だから、此年四十六歳であつた。五年の後に越後国出雲崎で歿した。其墓に銘したものは亀田|鵬斎《ぼうさい》である。文河槐庵の事は上に見えてゐる。
 茶山の集には「同犬冢印南今川剛侯伊沢辞安、泛墨田川即事」として、七絶七律|各《おの/\》一首がある。律の頷聯《がんれん》「杯来好境巡須速、句対名家成転遅」は印南に対する謙語であらう。蘭軒の集には「七夕後二日、陪印南茶山二先生、泛舟墨陀河、与源波響木文河釧雲泉川槐庵同賦」として七律二首がある。初首の七八「誰識女牛相会後、徳星復此競霊輝」は印南茶山に対する辞令であらう。後首の両聯に花火が点出してある。「千舫磨舷搶作響。万燈対岸爛争光。竹枝桃葉絃歌湧。星彩天花烟火揚。」わたくしは大胆な記実を喜ぶ。茶山は詩の卑俗に陥らむことを恐れたものか、一語も花火に及ばなかつた。蘭軒の題にダアトのあつたのもわたくしのためにはうれしかつた。

     その二十六

 蘭軒が茶山を連れて不忍池《しのばずのいけ》へ往つて馳走をしたのも、此頃の事であらう。茶山の集に「都梁觴余蓮池」として一絶がある。「庭梅未落正辞家。半歳東都天一涯。此日秋風故人酒。小西湖上看荷花。」わたくしは転句に注目する。蓮は今少し早くも看られようが、秋風《しうふう》の字を下したのを見れば、七月であつただらう。又故人と云ふのを見れば、文化元年が茶山蘭軒の始て交つた年でないことが明である。
 蘭軒と※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎とは又今一人誰やらを誘《いざな》つて、不忍池へ往つて一日書を校し、画工に命じて画をかゝせ、茶山に題詩を求めた。集に「卿雲都梁及某、読書蓮池終日、命工作図、需余題詩」として一絶がある。「東山佳麗冠江都。最是芙蓉花拆初。誰信旗亭糸肉裏。三人聚首校生書。」結句は伊狩《いしう》二家の本領を道破し得て妙である。
 八月十六日に茶山は蘭軒を真砂町附近の家に訪うた。わたくしは此会合を説くに先《さきだ》つて一事の記すべきものがある。饗庭篁村《あへばくわうそん》さんは此稿の片端より公にせられるのを見て、わたくしに茶山の簡牘《かんどく》二十一通を貸してくれた。大半は蘭軒に与へたもので、中には第三者に与へて意を蘭軒に致さしめたものもある。第三者は其全文若くは截り取つた一節を蘭軒に寄示したのである。要するに簡牘は皆分家伊沢より出でたもので、彼の太華の手から思軒の手にわたつた一通も亦此コレクシヨンの片割であつただらう。今八月十六日の会合を説くには此簡牘の一通を引く必要がある。
 茶山の書は次年八月十三日に裁したもので、此に由つて此文化紀元八月中旬の四日間の連続した事実を知ることが出来る。其文はかうである。「今日は八月十三日也、去年今夜長屋へ鵜川携具来飲、明日平井黒沢来訪、十五日舟遊、十六日黄昏貴家へ参、備前人同道、夫より茗橋々下茶店にて待月、却而逢雨てかへり候」と云ふのである。鵜川名は某、字《あざな》は子醇《しじゆん》、その人となりを詳《つまびらか》にせぬが、十三日の夜酒肴を齎して茶山を小川町の阿部邸に訪うたと見える。平井は澹所《たんしよ》、黒沢は雪堂であらう。澹所は釧雲泉《くしろうんせん》と同庚《どうかう》で四十六歳、雪堂は一つ上の四十七歳、並に皆昌平黌の出身である。雪堂は猶校に留まつて番員長を勤めてゐた筈である。
 さて十六日の黄昏《たそがれ》に茶山は蘭軒の家に来た。二人が第三者を交へずに、差向で語つたことは、此より前にもあつたか知らぬが、ダアトの明白なのは是日である。初めわたくしは、六七年前に伊沢氏に来て舎《やど》つた山陽の事も、定めて此日の話頭に上つただらうと推測した。そして広島|杉木小路《すぎのきこうぢ》の父の家に謹慎させられてゐた山陽は、此|夕《ゆふべ》嚔《くさめ》を幾つかしただらうとさへ思つた。しかしわたくしは後に茶山の柬牘《かんどく》を読むこと漸く多きに至つて、その必ずしもさうでなかつたことを暁《さと》つた。後に伊沢信平さんの所蔵の書牘を見ると、茶山は神辺《かんなべ》に来り寓してゐる頼|久太郎《ひさたらう》の事を蘭軒に報ずるに、恰も蘭軒未知の人を紹介するが如くである。或は想ふに、蘭軒は当時猶山陽を視て春水不肖の子となし、歯牙にだに上《のぼ》さずに罷《や》んだのではなからうか。

     その二十七

 蘭軒の家では、文化紀元八月十六日の晩に茶山がおとづれた時、蘭軒の父|隆升軒信階《りゆうしようけんのぶしな》が猶《なほ》健《すこやか》であつたから、定て客と語を交へたことであらう。蘭軒の妻益は臨月の腹を抱へてゐたから、出でゝ客を拝したかどうだかわからない。或は座敷のなるべく暗い隅の方へゐざりでて、打側《うちそば》みて会釈したかも知れない。益は時に年二十二であつた。
 蘭軒は茶山を伴つて家を出た。そしてお茶の水に往つて月を看た。そこへ臼田才佐《うすださいさ》と云ふものが来掛かつたので、それをも誘《いざな》つて、三人で茶店《ちやてん》に入つて酒を命じた。三人が夜半《よなか》まで月を看てゐると、雨が降り出した。それから各《おの/\》別れて家に還つた。
 蘭軒はかう書いてゐる。「中秋後一夕、陪茶山先生、歩月茗渓、途値臼田才佐、遂同到礫川、賞咏至夜半」と云ふのである。
 臼田才佐は茶山|書牘《しよどく》中の備前人である。備前人で臼田氏だとすると、畏斎《ゐさい》の子孫ではなからうか。当時畏斎が歿した百十五年の後であつた。茶店の在る所を、茶山は茗橋《めいけう》々下と書し、蘭軒は礫川《れきせん》と書してゐる。今はつきりどの辺だとも考へ定め難い。
 蘭軒の集に此|夕《ゆふべ》の七律二首がある。初の作はお茶の水で
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