[#「くさかんむり/間」、7巻−42−上−12]一に※[#「くさかんむり/姦」、7巻−42−上−12]に作つてある。詩集の名の如きが即是である。又※[#「くさかんむり/姦」、7巻−42−上−13]斎の篆印《てんいん》もある。※[#「くさかんむり/閑」、7巻−42−上−14]《かん》に作つたものは、わたくしは未だ曾て見ない。
※[#「くさかんむり/間」、7巻−42−上−15]は詩の鄭風に「※[#「さんずい+秦」、第3水準1−86−93]与※[#「さんずい+有」、第4水準2−78−46]、方渙渙兮、士与女、方秉※[#「くさかんむり/間」、7巻−42−上−15]兮」とあつて、伝に「※[#「くさかんむり/間」、7巻−42−上−16]蘭也」と云つてある。※[#「くさかんむり/姦」、7巻−42−上−16]は山海経に「呉林之山、其中多※[#「くさかんむり/姦」、7巻−42−下−1]草」とあつて、又※[#「くさかんむり/姦」、7巻−42−下−1]山※[#「くさかんむり/姦」、7巻−42−下−1]水の地名が見えてゐる。一切経音義に声類を引いて「※[#「くさかんむり/姦」、7巻−42−下−3]蘭也」と云ひ、又「※[#「くさかんむり/姦」、7巻−42−下−3]、字書与※[#「くさかんむり/間」、7巻−42−下−3]同」とも云つてある。説文《せつもん》校録にも亦「鄭風秉※[#「くさかんむり/間」、7巻−42−下−4]、字当同※[#「くさかんむり/姦」、7巻−42−下−4]、左氏昭二十二年大蒐於昌間、公羊作昌姦、此※[#「くさかんむり/姦」、7巻−42−下−5]与※[#「くさかんむり/間」、7巻−42−下−5]同之証」と云つてある。説文に※[#「くさかんむり/姦」、7巻−42−下−6]を載せて※[#「くさかんむり/間」、7巻−42−下−6]を載せぬのは許慎《きよしん》が※[#「くさかんむり/姦」、7巻−42−下−7]を正字としたためであらう。※[#「くさかんむり/閑」、7巻−42−下−7]は字彙正字通並に※[#「くさかんむり/間」、7巻−42−下−8]の俗字だとしてゐる。字典は広韻を引いて「与※[#「くさかんむり/姦」、7巻−42−下−8]同」としてゐる。説文義証には「広韻、※[#「くさかんむり/姦」、7巻−42−下−9]与※[#「くさかんむり/閑」、7巻−42−下−9]同、※[#「くさかんむり/閑」、7巻−42−下−9]当作※[#「くさかんむり/間」、7巻−42−下−10]」と云つてある。※[#「くさかんむり/姦」、7巻−42−下−10]※[#「くさかんむり/間」、7巻−42−下−10]※[#「くさかんむり/閑」、7巻−42−下−10]三字の考証は池田四郎次郎さんを煩はした。都梁は荊州記に「都梁県有山、山下有水清※[#「さんずい+此」、第4水準2−78−36]、其中多蘭草、名都梁香」とある。蘭軒の蘭字の事は後に別に記することとしよう。笑僊は笑癖あるがために自ら調したものであらう。藐姑射山人は荘子から出てゐること論を待たない。
居る所を酌源堂と云ひ、三養堂と云ひ、芳桜《はうあう》書院と云ふ。
酌源は班固《はんこ》の典引《てんいん》の「斟酌道徳之淵源、肴覈仁義之林藪」から出てゐる。三養は蘇軾《そしき》の「安分以養福、寛胃以養気、省費以養財」から出てゐる。芳桜書院の芳桜の事は後に別に記することとしよう。
通称は辞安である。
名字の説は此に止まる。已に云つた如くに、わたくしの富士川游さんに借りてゐる※[#「くさかんむり/姦」、7巻−43−上−8]斎詩集に、先づ見えてゐる干支は、此年享和紀元の辛酉である。わたくしは此詩暦を得て大いに心強さを覚える。わたくしは此より此詩暦を栞《しをり》とし路傍|※[#「土へん+侯」、第4水準2−5−1]《こう》として、ゆくての道をたどらうとおもふ。
その二十二
蘭軒は此年享和元年の元日に七律を作つた。※[#「くさかんむり/姦」、7巻−43−上−14]斎詩集の「辛酉元日口号」が是である。首句に分家伊沢の当時の居所が入つてゐるのが、先づわたくしの注意を惹く。「昌平橋北本江郷」と云つてある。本江《ほんごう》の郷《きやう》と訓《よ》ませる積であつたのだらう。
次に蘭軒生涯の大厄たる脚疾が、早く此頃に萌してゐたらしい。詩集は前に云つた元日の作の後に、文化元年の作に至るまでの間、春季の詩六篇を載せてゐるのみである。わたくしは姑《しばら》く此詩中に云ふ所を此年の下《もと》に繋《か》ける。蘭軒は二月の頃に「野遊」に出た。「数試春衣二月天」の句がある。此野遊の題の下に、七絶二、七律一、五律一が録存してあつて、数試春衣《しば/\しゆんいをこゝろみる》二|月天《ぐわつのてん》は七律の起句である。然るにこれに次ぐに「頓忘病脚自盤旋」の句を以てしたのを見れば、わたくしは酸鼻に堪へない。蘭軒は今僅に二十三歳にして既に幾分か其痼疾に悩まされてゐたのである。
此年六月二十九日には蘭軒の師泉豊洲が、其師にして岳父たる細井平洲を喪つた。七十四歳を以て「外山邸舎」に歿したと云ふから、尾張中将|斉朝《なりとも》の市谷門外の上屋敷が其|易簀《えきさく》の所であらう。諸侯の国政を与《あづか》り聴いた平洲は平生「書牘来、読了多手火之」と云ふ習慣を有してゐた。「及其病革、書牘数十通、猶在篋笥、門人泉長達神保簡受遺言、尽返之各主。」長達は豊洲の名である。神保簡は恐くは続近世叢語の行簡《かうかん》、宇は子廉であらう。蘭室と号したのは此人か。蘭軒の師豊洲は時に年四十四であつた。
此年には猶多紀氏で蘭軒の友|柳※[#「さんずい+片」、第3水準1−86−57]※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《りうはんさいてい》の祖父藍渓が歿し、後に蘭軒の門人たる森|枳園《きゑん》の祖父|伏牛《ふくぎう》が歿してゐる。蘭軒の父信階は五十八歳になつた。
享和二年には二月二十九日に蘭軒が向島へ花見に往つたらしい。蘭軒雑記にかう云つてある。「吉田仲禎(名祥、号長達《ちやうたつとがうす》、東都医官)、木村駿卿、狩野卿雲、此四|人《たり》は余常汝爾之交《よつねにじよじのまじはり》を為す友也。享和之二二月廿九日仲禎君と素問|合読《がふどく》なすとてゐたりしに、卿雲おもはずも訪《とぶら》ひき。(此時仲禎卿雲初見)余が今日は美日なれば、今より駿卿へいひやりて墨田の春色賞するは如何《いかに》と問ぬ。二人そもよかるべしと、三|人《たり》して手紙|認《したゝめ》し折から、駿卿来かかりぬ。まことにめづらしき会なりと、午《ひる》の飯《いひ》たうべなどして、上野の桜を見つつ、中田圃より待乳山にのぼりてしばしながめつ。山をおりなんとせし程に、卿雲のしたしき泉屋忠兵衛といへるくるわの茶屋に遇ひぬ。其男けふは余が家居に立ちより給へと云ふ。余等いなみてわかれぬ。それより隅田の渡わたりて、隅田村、寺島、牛島の辺《あたり》、縦に横に歩みぬ。さてつゝみより梅堀をすぎ、浅草の観音に詣で、中田圃より直《すぐ》なる道をゆきて家に帰りぬ。」此文は年月日の書きざまが異様で、疑はしい所がないでもないが、わたくしは且《しばら》く「享和之二二月」と読んで置く。
秋に入つて七月十五日に、蘭軒は渡辺|東河《とうか》、清水|泊民《はくみん》、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、赤尾|魚来《ぎよらい》の四人と、墨田川で舟遊をした。蘭軒に七絶四首があつたが、集に載せない。只其題が蘭軒雑記に見えてゐるのみである。東河、名は彭《はう》、字《あざな》は文平、一号は払石《ふつせき》である。書を源《げん》東江に学んだ。泊民名は逸、碩翁と号した。亦書を善くした。魚来は未だ考へない。
享和三年には蘭軒が二月二日に吉田仲禎狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎と石浜村へ郊行した。仲禎、名は祥、通称は長達である。幕府の医官を勤めてゐた。次で十九日に又大久保五岳、島根近路、打越《うちごし》古琴と墨田川に遊んだ。五岳、名は忠宜《ちゆうぎ》、当時の菓子商|主水《もんど》である。近路古琴の二人の事は未だ考へない。此二遊は蘭軒雑記に「享和|閏《うるふ》正月」と記し、下《しも》三字を塗抹して「二月」と改めてある。享和中閏正月のあつたのは三年である。故に姑《しばら》く此に繋ける。墨田川の遊は、雑記に「甚俗興きはまれり」と註してある。
此年七月二十八日に、蘭軒の父信階の養母大久保氏伊佐が歿した。戒名は寿山院湖月貞輝大姉である。「又分家」の先霊名録には寿山院が寿山室に作つてある。年は八十四であつた。
蘭軒雑記に拠れば、所謂《いはゆる》浅草太郎稲荷の流行は此七月の頃始て盛になつたさうである。社の在る所は浅草田圃で、立花左近将監|鑑寿《あきひさ》の中屋敷であつた。大田南畝が当時奥祐筆所詰を勤めてゐた屋代輪池を、神田明神下の宅に訪うて一聯を題し、「屋代太郎非太郎社、立花左近疑左近橘」と云つたのは此時である。
その二十三
此年享和三年十月七日に、蘭軒が渡辺東河を訪うて、始て伴粲堂《ばんさんだう》に会つたことが、蘭軒雑記に見えてゐる。粲堂、通称は平蔵である。煎茶を嗜《たし》み、篆刻《てんこく》を善くした。此日十月七日は西北に鳴動を聞き、夜灰が降つたと雑記に註してある。試に武江年表を閲《けみ》するに降灰《かうくわい》の事を載せない。
蘭軒の結婚は家乗に其年月を載せぬが、遅くも此年でなくてはならない。それは翌年文化元年の八月には長男|榛軒《しんけん》が生れたからである。蘭軒には榛軒に先《さきだ》つて生れた子があつたか否か、わたくしは知らない。しかし少くも男子は無かつたらしい。分家伊沢の人々の語る所に依れば、蘭軒には嫡出六人、庶出六人、計十二人の子があつたさうである。歴世略伝にある六人は、男子が榛軒常三郎柏軒、女子が天津《てつ》長《ちやう》順《じゆん》である。常三郎は榛軒に後るゝこと一年、柏軒は六年にして生れた。名録には猶一人庶子良吉があつて、文化十五年即ち文政元年正月二日に歿してゐるが、これも榛軒の兄ではなささうである。わたくしが少くも先つて生れた男子は無かつたらしいと云ふのは、これがためである。
略伝の女子天津長順三人の中、分家の人々の言《こと》に従へば、只一人長育したと云ふ。即ち名録の井戸応助妻であらう。応助は※[#「くさかんむり/姦」、7巻−46−下−1]斎《かんさい》詩集に拠るに、翁助の誤らしい。翁助妻は名録に文化十一年に生れた第三女だとしてある。名録に又「芳桜軒第二女、生七日許終、時文化九年壬申正月八日」として、智貌童子の戒名が見えてゐる。童子は童女の誤であらう。しかし天津、長、順をいづれに配当して好いか、わからない。若し長女にして榛軒に先つて生れたとすると、蘭軒が妻を娶つた年は繰り上げられるかも知れない。
上《かみ》に記した外、名録には尚庶出の女《ぢよ》二人がある。文政六年に歿した順、十一年に歿した万知《まち》である。然らば略伝は庶子中より独り順のみを挙げてゐるのであらう。
蘭軒の娶つた妻は飯田休庵の二女である。初め蘭軒の父信階即井出門次郎の妹が休庵に嫁したが、此井出氏は早く歿して、水越氏民が継室となつた。休庵の二女は此水越氏の出《しゆつ》である。それゆゑ蘭軒の妻は小母婿《をばむこ》の子ではある。姑夫女《こふぢよ》ではある。しかし小母の女《むすめ》では無い。姑女では無い。
蘭軒の妻は名を益と云つた。天明三年の生である。即ち明和七年に小母が死んでから、十三年目に纔《わづか》に生れたのである。蘭軒より少《わか》きこと六歳で、若し推定の如くに享和三年に婚嫁したとすると、夫蘭軒は二十七歳、妻益は二十一歳であつた。
此年に蘭軒の友小島春庵|尚質《なほかた》の父春庵|根一《もとかず》が歿した。尚質は蘭軒と古書を愛する嗜好を同じうした小島宝素である。広島の頼山陽は此年十二月六日に囲から出されて、家にあつて謹慎することを命ぜられた。
その二
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