ゐる。そして山陽は能く初志を遂げ、文名身後に伝はり、天下其名を識らざるなきに至つた。これが山陽の面目である。
 少《わか》い彼蘭軒が少い此山陽をして、首《かうべ》を俯して筆耕を事とせしめたとすると、わたくしは運命のイロニイに詫異《たい》せざることを得ない。わたくしは当時の山陽の顔が見たくてならない。
 山陽は尋で伊沢氏から狩谷氏へ移つたさうである。尾藤から伊沢へ移つた月日が不明である如くに、伊沢から狩谷へ移つた月日も亦不明である。要するに伊沢にゐた間は短く、狩谷にゐた間は長かつたと伝へられてゐる。わたくしは此初遷再遷を、共に寛政九年中の事であつたかと推する。
 わたくしは伊沢の家の雰囲気を云々した。山陽は本郷の医者の家から、転じて湯島の商人の家に往つて、又同一の雰囲気中に身を※[#「宀/眞」、第3水準1−47−57]《お》いたことであらう。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は当時の称賢次郎であつた。年は二十三歳で、山陽には五つの兄であつた。そして蘭軒の長安信階に於けるが如く、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎も亦養父三右衛門|保古《はうこ》に事《つか》へてゐたことであらう。墓誌には※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が生家高橋氏を去つて、狩谷氏を嗣《つ》いだのは、二十五歳の時だとしてある。即ち山陽を舎《やど》した二年の後である。わたくしは墓誌の記する所を以て家督相続をなし、三右衛門と称した日だとするのである。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の少時|奈何《いか》に保古に遇せられたかは、わたくしの詳《つまびらか》にせざる所であるが、想ふに保古は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の学を好むのに掣肘を加へはしなかつたであらう。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は保古の下にあつて商業を見習ひつつも、早く已に校勘の業に染指《せんし》してゐたであらう。それゆゑにわたくしは、山陽が同一の雰囲気中に入つたものと見るのである。
 洋人の諺に「雨から霤《あまだれ》へ」と云ふことがある。山陽はどうしても古本の塵を蒙ることを免れなかつた。わたくしは山陽が又何かの宋槧本《そうざんぼん》を写させられはしなかつたかと猜する。そして運命の反復して人に戯るゝを可笑《をか》しくおもふ。

     その十九

 寛政十年四月に山陽は江戸を去つた。其日時は不明である。山陽が三日頃に立つことを期してゐた証拠は、父に寄せた書に見えてゐる。又其発程が二十五日より前であつたことは、二洲が姨夫《いふ》春水に与へた書に徴して知ることが出来る。わたくしは山陽が淹留期《えんりうき》の後半を狩谷氏に寓して過したかとおもひ、又彼の父に寄する書を狩谷氏の許にあつて裁したかとおもふ。
 此年九月|朔《ついたち》に吉田|篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]《くわうとん》が歿した。其年歯には諸書に異同があるがわたくしは未だ考ふるに遑《いとま》がなかつた。わたくしが篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]の死を此に註するのは、考証家として蘭軒の先駆者であるからである。井上|蘭台《らんたい》の門に井上|金峨《きんが》を出し、金峨の門に此篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]を出した。蘭軒は師承の系統を殊にしてはゐるが、其学風は帰する所を同じうしてゐる。且亀田|鵬斎《ぼうさい》の如く、篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]と偕《とも》に金峨の門に出で、蘭軒と親善に、又蘭軒の師友たる茶山と傾蓋|故《ふる》きが如くであつた人もある。わたくしの今これに言及する所以《ゆゑん》である。蘭台は幕府の医官井上通翁の子である。金峨は笠間の医官井上観斎の子である。篁※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]は父祖以来医を以て水戸に仕へ、自己も亦一たび家業を継いで吉田林庵と称した。此の如く医にして儒なるものが、多く考証家となつたのは、恐くは偶然ではあるまい。
 此年の暮れむとする十二月二十五日に、広島では春水が御園《みその》道英の女《ぢよ》淳《じゆん》を子婦《よめ》に取ることを許された。不幸なる最初の山陽が妻である。
 此年蘭軒は二十二歳、其父信階は五十五歳であつた。
 寛政十一年に狩谷氏で※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が家を嗣いだ。わたくしは既に云つたやうに、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は此より先に実家高橋氏を去つて保古《はうこ》が湯島の店津軽屋に来てをり、此時家督相続をして保古の称三右衛門を襲《つ》いだかとおもふ。
 ※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の家世には不明な事が頗る多い。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の生父高橋|高敏《かうびん》は通称|与総次《よそうじ》であつた。そして別号を麦雨《ばくう》と云つた。これは蘭軒の子で所謂《いはゆる》「又分家」の祖となつた柏軒の備忘録に見えてゐる。高敏の妻、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の生母佐藤氏は武蔵国葛飾郡小松川村の医師の女《むすめ》であつた。これも亦同じ備忘録に見えてゐる。
 高敏の家業は、曾孫三|市《いち》さんの聞いてゐる所に従へば、古著屋であつたと云ふ。しかし伊沢宗家の伝ふる所を以てすれば小さい書肆であつたと云ふ。これは両説皆|是《ぜ》であるかも知れない。古衣《ふるぎ》を売つたこともあり、書籍、事によつたら古本を売つたこともあるかも知れない。わたくしは高敏の事跡を知らむがために、曾て浅草源空寺に往つて、高橋氏の諸墓を歴訪した。手許には当時の記録があるが、姑《しばら》く書かずに置く。三市さんが今猶探窮して已まぬからである。
 ※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の保古に養はれたのは、女婿として養はれたのである。三市さんは※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻は保古の三女であつたと聞いてゐる。柏軒の備忘録に此女の法号が蓮法院と記してある。
 此年二月二十二日に御園氏|淳《じゆん》が山陽に嫁した。後一年ならずして離別せられた不幸なる妻である。十二月七日の春水の日記「久児夜帰太遅、戒禁足」の文が、家庭の頼山陽に引いてある。山陽が後|真《まこと》に屏禁《へいきん》せられる一年前の事である。
 此年蘭軒は二十三歳、父信階は五十六歳であつた。

     その二十

 寛政十二年は信階父子の家にダアトを詳《つまびらか》にすべき事の無かつた年である。此年に山陽は屏禁せられた。わたくしは蘭軒を伝ふるに当つて、時に山陽を一顧せざることを得ない。現に伊沢氏の子孫も毎《つね》に曾《かつ》て山陽を舎《やど》したことを語り出でて、古い記念を喚び覚してゐる。譬へば逆旅《げきりよ》の主人が過客中の貴人を数ふるが如くである。これは晦《かく》れたる蘭軒の裔《すゑ》が顕れたる山陽に対する当然の情であらう。
 これに似て非なるは、わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云ひ、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者である。此《かく》の如き人は蘭軒伝を見ても、只山陽茶山の側面観をのみ其中に求むるであらう。わたくしは敢て成心としてこれを斥《しりぞ》ける。わたくしの目中《もくちゆう》の抽斎や其師蘭軒は、必ずしも山陽茶山の下《しも》には居らぬのである。
 山陽が広島杉木小路の家を奔《はし》つたのは九月五日である。豊田郡竹原で山陽の祖父又十郎|惟清《これきよ》の弟伝五郎|惟宣《これのぶ》が歿したので、梅※[#「風にょう+思」、第4水準2−92−36]《ばいし》は山陽をくやみに遣つた。山陽は従祖祖父《じゆうそそふ》の家へ往かずに途中から逃げたのである。竹原は山陽の高祖父総兵衛正茂の始て来り住した地である。素《もと》正茂は小早川隆景に仕へて備後国に居つた。そして隆景の歿後、御調郡《みつきごほり》三原の西なる頼兼村から隣郡安藝国豊田郡竹原に遷《うつ》つた。当時の正茂が職業を、春水は「造海舶、販運為業」と書してゐる。しかし長井金風さんの獲た春水の「万松院雅集贈梧屋道人」七絶の箋に裏書がある。文中「頼弥太郎、抑紺屋之産也」と云つてある。此語は金風さんが嘗て広島にあつて江木鰐水の門人河野某に聞いた所と符合する。河野は面《まのあた》り未亡人としての梅※[#「風にょう+思」、第4水準2−92−36]をも見た人であつたさうである。これも亦彼の※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が生家の職業と同じく或は二説皆|是《ぜ》であるかも知れない。
 山陽は京都の福井新九郎が家から引き戻されて、十一月三日に広島の家に著き、屏禁せられた。時に年二十一であつた。
 此年蘭軒は二十四歳、父信階は五十七歳になつた。
 次の年は享和元年である。記して此に至れば、一事のわたくしのために喜ぶべきものがある。それは蘭軒の遺した所の※[#「くさかんむり/姦」、7巻−40−下−15]斎《かんさい》詩集が、年次を逐つて輯録せられてゐて、此年の干支|辛酉《しんいう》が最初に書中に註せられてゐる事である。蘭軒の事蹟は、彼の文化七年後の勤向覚書を除く外、絶て編年の記載に上《のぼ》つてをらぬのに、此詩集が偶《たま/\》存してゐて、わたくしに暗中|燈《ともしび》を得た念をなさしむるのである。
 詩集は蘭軒の自筆本で、半紙百零三|頁《けつ》の一巻をなしてゐる。蠧蝕《としよく》は極て少い。蔵※[#「去/廾」、7巻−41−上−6]者《ざうきよしや》は富士川游さんである。
 巻首第一行に※[#「くさかんむり/姦」、7巻−41−上−8]斎詩集、伊沢信恬」と題してあつて、「伊沢氏酌源堂図書記」「森氏」の二朱印がある。森氏は枳園《きゑん》である。毎半葉十行、行二十二字である。
 集に批圏と欄外評とがある。欄外評は初|頁《けつ》より二十七頁に至るまで、享和元年より後二年にして家を嗣いだ阿部侯|椶軒正精《そうけんまさきよ》の朱書である。間《まゝ》菅茶山の評のあるものは、茶字を署して別つてある。二十八頁以下の欄外には往々「伊沢信重書」、「渋江全善書」、「森立夫書」等補写者の名が墨書してある。評語には「茶山曰」と書してある。

     その二十一

 わたくしは此に少しく蘭軒の名字《めいじ》に就いて插記することとする。それは引く所の詩集に※[#「くさかんむり/姦」、7巻−41−下−4]《かん》の僻字《へきじ》が題してあるために、わたくしは既に剞※[#「厥+りっとう」、第4水準2−3−30]氏《きけつし》を煩し、又読者を驚したからである。
 蘭軒は初め名は力信《りよくしん》字《あざな》は君悌《くんてい》、後名は信恬《しんてん》字は憺甫《たんほ》と云つた。信恬は「のぶさだ」と訓《よ》ませたのである。後の名字は素問上古天真論の「恬憺虚無、真気従之、精神内守、病従安来」より出でてゐる。椶軒《そうけん》阿部侯正精の此十六字を書した幅が分家伊沢に伝はつてゐる。
 憺甫の憺は心に従ふ。しかし又澹父にも作つたらしい。森田思軒の引いた菅茶山の柬牘《かんどく》には水《すゐ》に従ふ澹が書してあつたさうである。現にわたくしの饗庭篁村《あへばくわうそん》さんに借りてゐる茶山の柬牘にも、同じく澹に作つてある。啻《たゞ》に柬牘のみでは無い。わたくしの検した所を以てすれば、黄葉夕陽村舎詩に蘭軒に言及した処が凡そ十箇所あつて、其中澹父と書したものが四箇所、憺父と書したものが一箇所、蘭軒と書したものが二箇所、都梁と書したものが二箇所、辞安と書したものが一箇所ある。要するに澹父と書したものが最多い。坂本|箕山《きざん》さんが其藝備偉人伝の下巻《かくわん》に引いてゐる「尾道贈伊沢澹父」の詩題は其一である。此書の下巻は未刊行のものださうで、頃日《このごろ》箕山さんは蘭軒の伝を稿本中より抄出してわたくしに寄示《きし》してくれたのである。
 別号は蘭軒を除く外、※[#「くさかんむり/間」、7巻−42−上−11]斎《かんさい》と云ひ、都梁と云ひ、笑僊《せうせん》と云ひ、又|藐姑射《はこや》山人と云つた。※
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