講の順は星順にて、長短に拘らず一条づつ各講ず。書余後便万々。不具。副啓。去《さんぬ》る十七日万笈堂主人頓死。」英《はなぶさ》平吉の死んだ日と、其死が頓死であつたこととが、此短文に由つて知られる。
此合作柬牘は荏薇問答中最も興味ある文であるから、わたくしは下《しも》に続抄しようとおもふ。
その百九十六
榛軒の留守に会して傷寒論を講じた人々の合作柬牘には、渋江抽斎の次に岡西玄亭が書いてゐる。「玄亭謹啓。御道中御壮栄|欣抃《きんべん》、吟哦《ぎんが》可想《おもふべし》。」
次に森|枳園《きゑん》が書いてゐる。「養竹啓。今日は駿河路と奉※[#「てへん+婁」、8巻−8−上−14]指候。定而《さだめて》不二は大きからうと奉存候。御上《おんかみ》益御きげん能奉恐悦候。大木斎兵衛歿す。木挽町|先《まづ》は居なりの由、路考半分すけ也。吹屋《ふきや》は名代七枚に而《て》、秀桂秀調関三常世片市半四郎紫若也。中村屋は今迄之所へ久米三はひり候由、先評判也。いづれ其中正説可申上候。道中なんぞ冬枯ながら薬草は見当らずや、御心がけ奉願候。以上。立之再拝。」
わたくしは始て抽斎枳園の柬牘を見た。抽斎は端人《たんじん》の語をなし、枳園は才子の語をなす。とり/″\に面白い。「定而不二は大きからうと奉存候。」一句枳園の面目を見る。忽にして好劇家、忽にして本草家、端倪すべからざるものがある。抽斎は英平吉の死を報じ、枳園は大木某の死を報じた。大木とは何人《なんぴと》であらうか。
次は山田|椿庭《ちんてい》である。「昌栄啓上。御道中無滞今に御着可相成奉拝賀候。明年御帰之節御迎楽居申候。並に大勢の踊の拝見仕度候。先は晩方、是迄に御坐候。」当時祝賀の宴には、例として客が踊り、客が茶番をしたらしい。
次は小野|富穀《ふこく》である。「道秀敬白。御道中弥無滞被遊御坐恐悦奉存候。扨御出立後火事沙汰等も無御坐第一之大悦に御坐候。乍憚御如才は御坐候間敷候得共、御道中切角御自愛専一奉存候。今日は駿河路の由不二の絶景奉遠察候。晩景は尚さらと奉存候。鳥渡《ちと》うかみ申候。いちめんに不二の裾野の小春哉。御一笑可被下候。頓首。」父|令図《れいと》と倶に白水真人《はくすゐしんじん》を尊崇してゐた富穀が、「火事沙汰等も無御坐、第一之大悦に御坐候」と云つたのは妙である。
次は塩田楊庵、当時の称小林玄瑞である。「先生御道中無御替奉大慶候。下拙儀番頭留守いたし候間、御案じ被成まじく候。」
此次に有馬|宗緩《そうくわん》、田村|元長《げんちやう》、海津|安純《あんじゆん》がある。次の景※[#「王+民」、第3水準1−87−89]《けいみん》全庵は其氏を詳《つまびらか》にしない。後の榛軒の書にも、「景※[#「王+民」、第3水準1−87−89]、善庵は勉学するや」と云つてある。
次に石川|良琢《りやうたく》が書いた。「良琢。御道中御きげんよく。朝夕さむく候。」柏軒の親友で、坦率な人であつたと見える。
次に村片古※[#「山+壽」、第4水準2−8−71]《むらかたこたう》が書いた。「相覧《あうみ》敬白。御道中御賢勝に御乗輿被成、珍重奉存候。扨御宿元日々早朝不相変御見舞申上候処、御番頭様朝起感心仕候。一昨日雑司谷へ参申候。」此|下《しも》は冊子の綴目に隠れて読むことが出来なかつた。
「番頭」玄瑞は寄寓して留守をしたものと見える。雑司谷は何の謂《いひ》なるを知らない。「賢勝」は「健勝」であらう。按ずるに画師村片は日ごとに見舞に来たので、偶《たま/\》輪講の時に来合せてゐて書いたのであらう。村片は傷寒論を講ずべき人ではない。
その百九十七
此年天保元年十月二十一日は、福山へ立つた榛軒が始て留守に寄する書を作つた日である。宇津の山|輿中《よちゆう》にあつて筆を把ると云つてある。
榛軒は最も妻《さい》勇《ゆう》のために心を労してゐたらしく、柏軒に嘱して「勇の挙止に気を附けよ」と云つてゐる。又「勇をして叔母をいたはらしめよ」とも云つてゐる。「叔母」は蘭軒の妻《つま》益《ます》の姉で、飯田休庵の女《ぢよ》、杏庵の妻である。此人は榛軒の家に寄寓してゐたらしい。蘭軒の姉|正宗院《しやうそうゐん》の事は、只「溜池に宜く伝へよ」と云つてある。
二十二日より二十三日に至る間に作つた榛軒の書には、「お長の不快いかが」と問うてある。妹長が病んでゐたと見える。
二十四日の榛軒の書は鳴海駅丁字屋吉蔵の家に投じた夜に作つたものである。江戸より伴ひ来つた僕弥助に暇《いとま》を遣つて帰省せしめたことが書いてある。又「※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の風邪いかが」と云つてある。妹長と云ひ、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎と云ひ、皆榛軒が江戸を発する前に病んでゐたのであらう。
柏軒の書は多く存じてゐない。其一通は此月二十六日に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎を訪うた事を報じたものである。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は病が新に※[#「やまいだれ+差」、第4水準2−81−66]《い》えてゐた。柏軒は隋書を講ぜむことを※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に請うた。
二十九日には榛軒が既に大坂蔵屋敷に著いて書を発してゐる。再び妹長の病を問ふ語がある。
此月に柏軒の兄に贈つた一紙の文がある。尋常の柬牘《かんどく》ではない。柏軒の人となりを知るに便なるものがあるから、此に全文を写す。「俗情険渉千層波。時事危登百尺竿。頼有西窓書一架。暖風晴日閉門看。右于革寄陳時応。前句は大兄の身、後句は小人の身に有之候。大兄の心配は身を安んずるに地なき程の事、察して言ふこと能はず候。其に引きかへ、小人暖衣飽食は勿論、外にあれば朋友親信し、内にあれば姉妹安和し、又願の通病人もなく、十分の清間を得、十分に読書し、又其暇に書房にて雪堂と小音《せうおん》にて浅間を語り、放言し、脚炉足を※[#「火+共」、第3水準1−87−42]《あぶ》り、床褥《しやうじよく》の上に在て茶菓を健啖し、誠に無上の歓楽、宇宙の内何の事か之に如《し》かむ、実に恐ろしき程の事、罰にても当らむかと、其のみ苦にし候。右に付小弟次第に譫語《せんご》す、宜しく妄聴し給はる可く候。先づ大兄は先大人《せんたいじん》の子と云所から、弱冠にして登庸せられ候。正大《せいだい》の直言をし、罪を被り帰されても宜しく候。しかし是は侍の事にて、帰されても外にも忠臣ある故、格別に事を闕かず、立派の忠臣也。私愚案の真の忠臣は、大兄の角力のやうに致したきものなり、何分にも打つてもはたいても、地震があらうが雷が落ちようが、粘り附き絡み附き放さず、縦令《たとひ》親父の名を汚す役に立ずと云はれても、なんでも詬《はぢ》を忍んで主君の玉体を見届けるが理《り》長《ちやう》ずるかと存じ候。即ち腹でする忠臣なり。かやうな事は千百年以前に御存知ゆゑ、言うても言はいでもの事を、はれ、やくたいもない。」大要謂ふ。士は員数多きが故に、偶《たま/\》自ら潔《いさぎよ》くするものあるを妨げない。医は替人《ていじん》なきが故に、必ず隠忍して其任を全うしなくてはならないと云ふのである。兄を諷して此|言《こと》を作《な》すを見ても、柏軒の機智のあることが知られる。雪堂の誰なるかは未だ考へない。黒沢雪堂は六年前文政七年に六十八歳で歿してゐるから、その別人なること勿論である。或は清水|浜臣《はまおみ》門の堀内雪堂ではなからうか。柏軒は国学者に交つて歌を詠んだ人である。
その百九十八
荏薇《じんび》問答は此年天保元年十一月に入つて、先づ六日の榛軒の書を載せてゐる。阿部|正寧《まさやす》の福山城に入る前日の書である。書中人の目を惹くものは唯二件あるのみである。其一は榛軒の妹長の病で、榛軒は「治療を清川に託せよ」と云つてゐる。長が荏苒《じんぜん》として愈《い》えなかつたことと、榛軒が清川玄道の技倆に信頼してゐたこととが知られる。其二は七世市川団十郎の評判で、榛軒は「三升の評判好きことを養竹に伝へよ」と云つてゐる。按ずるに所謂評判は団十郎去後の評判でなくてはならない。何故と云ふに庚寅の歳には、団十郎は早く大坂を立つて、京都、古市を経て、八月中に江戸に還つてゐたからである。しかし劇の沿革も亦わたくしの詳《つまびらか》にせざる所であるから、若し誤があつたら、其道に精《くは》しい人の教を乞ひたい。
七日には正寧が福山城に入つた。此日の榛軒の書は親戚故旧の名を列記して、柏軒に「致声《ちせい》」を嘱したに過ぎない。
十四日の榛軒の書には、書を作るに臨んで眼前の景を叙したと云ふ詩がある。「山城寂々五更初。愁緒千条不展舒。月苦風寒狐叫処。青燈火下写家書。」柏軒をして問安せしめた二十余人の中に、「小島|学古《がくこ》」がある。
十九日には江戸で柏軒が劇を看て、これを兄に報じた。「木挽町の芝居見物、三升の暫なり」と云つてある。同行者は「渋江夫婦、小野親子、多多羅、有馬、てる、なべ町娘《ちやうむすめ》」と記してある。渋江抽斎の挈《たづさ》へて往つた妻は比良野氏|威能《ゐの》で、前年己丑に帰《とつ》いで、次年辛卯には死ぬる女である。小野親子は令図《れいと》富穀《ふこく》であらう。多多羅は辨夫《べんふ》、有馬は宗緩《そうくわん》であらう。二人の女の誰なるを知らない。
二十四日には柏軒が兄に狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の女《ぢよ》俊《しゆん》の病を、「容態宜からず」と報じてゐる。
二十六日に榛軒が弟に与ふる書は、未だ俊の病を知らざるものゝ如く、却つて其兄の病を問うてゐる。「少卿不快如何。」榛軒と同庚なる懐之少卿《くわいしせうけい》が二十七歳、俊が二十一歳の時である。
二十八日の柏軒の書は俊の「快方に赴」いたことを報じてゐる。
十二月十日の榛軒の書には福山の人物評がある。中に学殖あるものは「鈴木|宜山《ぎざん》、三箇角兵衛《さんがかくべゑ》を推す」と云つてある。宜山と並称せられた角兵衛とはいかなる人か。浜野氏に請うて看ることを得た由緒書に拠れば、角兵衛、初め津之助と称す、名は知雄《ともを》、頼雄《よりを》の孫、時朗《ときあきら》の子で、印西《いんせい》流弓術を以て阿部家に仕へ、此年六十九歳になつてゐた。只異とすべきは、角兵衛に文事があつたことが毫も聞えてゐぬのである。榛軒の書には又「周迪《しうてき》は学を以て勝れるものにあらず」と云つてある。周迪は馬屋原成美《まいばらせいび》である。当時宜山は儒者奥詰、角兵衛は使番格、周迪は奥医師であつた。書中に又「尾道に順迪《じゆんてき》の墓を※[#「酉+將のつくり」、第4水準2−90−37]《らい》す」と云ふことがある。順迪とは誰であらうか。
以上書し畢つた時、浜野氏の報に接した。福田氏所蔵の「福山風雅集稿本」の詩人姓名の部に、「三箇知雄、字子光、号箕洲、俗称角兵衛」と云つてある。此稿本は江木鰐水《えぎがくすゐ》の手より出でたものだと云ふ。
二十三日の榛軒の書には「狩谷おたか大病の由いかが」と云つてある。前月二十八日の柏軒の書が未だ達せなかつたと見える。書中問安が門田《もんでん》朴斎に及んでゐる。
頼氏では此春|杏坪《きやうへい》が邑宰《いふさい》を辞して三次《みよし》を去つた。年は七十五である。「何同老萼黏枝死。好趁乳鳩呼子帰。」杏坪の子は采真舜※[#「壽/れっか」、第3水準1−87−65]《さいしんしゆんたう》である。
此年榛軒二十七歳、柏軒二十一歳、長十七歳であつた。蘭軒の姉正宗院は六十歳になつた。榛軒の妻勇の齢《よはひ》は不詳である。
その百九十九
天保二年は蘭軒歿後第二年である。榛軒は猶福山にあつて歳を迎へた。荏薇《じんび》問答に元旦に弟柏軒に与へた書がある。「狩谷お高快方之由大慶」の語がある。前年十一月二十八日の弟の書を得て、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の女《ぢよ》の病の※[#「やまいだれ+差」、第4水準2−81−66]《い》えたことを知つたので
前へ
次へ
全114ページ中63ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング