漫向小園開。嬌媚休相近。毒根刮骨来。右玉簪花。」
 最後に口碑の伝ふる所の敗醤花《はいしやうくわ》の一笑話を挙げる。蘭軒は婢を上原全八郎の家に遣つて敗醤花を乞うた。口上は「お約束のをみなめしを頂きに参りました」と云ふのであつた。婢は新に田舎より来て、「めし」を「御膳」と呼ぶことを教へられてゐた。それゆゑ「をみなごぜん」と云つた。上原の妻は偶|山梔子《くちなし》の飯を炊《かし》いでゐたので、それを重箱に盛つて持たせて帰した。

     その百九十三

 伊沢分家の口碑に蘭軒の平生を伝ふるものは、概ね上《かみ》に記するが如くである。わたくしは此に一二附記して置きたい。其一は蘭軒の筆蹟の事である。富士川氏所蔵の自筆本数種を見るに、細楷と行狎《ぎやうかふ》と皆|遒美《いうび》である。塩田|真《まさし》さんの談に、蘭軒は人に勧めて雲麾碑《うんきのひ》を臨せしめたと云ふ。平生書に心を用ゐたものとおもはれる。真さんは小字良三《せうじりやうさん》、楊庵の子である。
 わたくしは金石文の事を知らない。若し此に云ふ所に誤があつたら、人の教を得て正すであらう。雲麾将軍は李氏、名は秀、字は元秀、范陽の人で、唐の玄宗の開元四年に歿した。其碑は李※[#「巛/邑」、第3水準1−92−59]《りよう》が文を撰み自ら書した。然るに李※[#「巛/邑」、第3水準1−92−59]に両《ふたつ》の雲麾の碑がある。一は李思訓《りしくん》の碑にして一は此碑である。思訓と秀とは同姓同官である。此碑は良郷《りやうきやう》より宛平県に、宛平県より順天府に入つて、信国祠《しんこくし》の壁に甃《しう》せられてゐるさうである。其拓本の種類等はこれを審《つまびらか》にしない。
 其二は蘭軒が医の職を重んずるがために、病弱の弟子《ていし》を斥《しりぞ》けた事である。某《それがし》は蘭軒に請ふに、其子に医を教へむことを以てした。そして云つた。「生れつき虚弱な子でございます。武藝などははかばかしく出来さうもござりませぬ。お医者様になつて薬の事を心得てゐたら、自身のためにも便利だらうと存じます。」
 蘭軒はこれを聞いて眉を蹙《しか》めた。「それは悪いお思附だ。医は司命の職と云つて、人の死生の繋る所だから、其任は重い。医の学ぶべき事は極て広大で、これを窮むるには人に超えた力量がなくてはならない。御子息が御病身なら、何か医者でない、外の職業をおしこみなさるが好い。」
 某は慙謝《ざんしや》して退いたさうである。蘭軒の病弱は其形骸にあつて、其精神にはなかつた。蘭軒は身を終ふるまで学問のために努力して、毫も退転しなかつたのである。
 わたくしは此に蘭軒の事蹟を叙し畢《をは》つて、其歿後の記録に入らうとする。わたくしは境に臨んで※[#「くさかんむり/姦」、7巻−377−上−9]斎《かんさい》詩集の一書を回顧する。詩集はわたくしが富士川氏に借り得て、今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》るまで座右に置き、其編年の体例に拠つて、我文の骨格を構へ成した所のものである。
 わたくしは今詩集を富士川氏に返さうとする。そして今一たび其|巻《まき》を繙閲する。巻は百|零《れい》三|頁《けつ》の半紙本で、頁数《けつすう》は森|枳園《きゑん》の朱書する所である。首に「※[#「くさかんむり/姦」、7巻−377−上−15]斎詩集、伊沢信恬」と題してある。印が二つある。上《かみ》のものは「森氏」で枳園の印、下のものは「伊沢氏酌源堂図書記」で蘭軒の印、並に朱文篆字《しゆぶんてんじ》である。載《の》する所の詩は、五古一、七古一、五律六十七、七律百零三、五絶十九、七絶三百九十七、通計五百八十八首である。
 わたくしは此に「蘭軒文集」の事を附記する。此書は蘭軒の文稿を綴輯《てつしふ》したもので、完書の体を成さない。命題の如きも、巻首及|小口書《こぐちがき》、題簽、巻尾、各《おの/\》相異つてゐる。「蘭軒文集」と云ひ、「蘭軒文草」と云ひ、「蘭軒遺稿」と云ふ、皆後人の命ずる所である。九十七|頁《けつ》の半紙本で、首に「森氏」、「伊沢家書」の二印がある。並に篆字朱文である。載する所は序十四、跋二十九、書二、記二、考一、墓誌三、雑二で、その重出するものを除けば、序六、跋十八、書一、記一、考一、墓誌一、雑二となる。通計文三十篇である。わたくしは此書を伊沢信平さんに借りて、参照の用に供した。今詩集を富士川氏に返すに当つて、文集をも伊沢宗家に返し、二家に嘱するに此副本なき二書を愛護せむことを以てする。

     その百九十四

 蘭軒が歿した後、嫡子|榛軒信厚《しんけんのぶあつ》が伊沢分家を継いだ。榛軒は二十六歳を以て主人となつたのである。その家督を命ぜられた月日の如きは、記載の徴すべきものが無い。榛軒は其時に至るまで棠助《たうすけ》と称し、今祖父|信階《のぶしな》の称を襲《つ》いで長安となつたのであらう。
 蘭軒の室《しつ》飯田氏|益《ます》は夫に先《さきだ》つて歿したので、蘭軒歿後には只側室佐藤氏さよが残つただけである。榛軒は幾《いくばく》もあらぬに、これに貲《し》を与へて人に嫁せしめた。
 是に於て榛軒の新家庭には妻|勇《ゆう》、弟柏軒、妹|長《ちやう》の三人があつて、主人を併せて四人をなしてゐた筈である。勇の生んだ女《むすめ》れんは前年戊子十二月四日に死に、今年己丑に入つてより、二月二日に榛軒と柏軒との間の同胞常三郎、五日に此三子の母飯田氏益、三月十七日に父蘭軒が死んだのである。
 蘭軒の門人は多くは留まつて榛軒の教を受くることゝなつた。門人等は復《また》「若先生」と呼ばずして「先生」と呼ぶこととなつたのである。
 蘭軒の遺弟子《ゐていし》は所謂又分家の良子《よしこ》刀自所蔵の門人録に八十一人、所謂分家の徳《めぐむ》さん所著《しよちよ》の歴世略伝に二十一人が載せてあつて、二書には互に出入があり、氏名の疑似のために人物の同異を辨ずるに苦むものもある。今重複を除いて算するに、約八十二三人となる。しかし蘭軒自筆の勤向覚書に僅に門人七人の氏名が見えてゐて、その門人録及歴世略伝に載するもの四人、門人録に載せて、歴世略伝に載せざるもの二人、二書並に載せざるもの一人である。是に由つて観れば、門人録も歴世略伝も、猶脱漏あることを免れぬものと見える。今三書を湊合して、新に一の門人録を作ることは容易であるが、読者の厭悪《えんを》を奈何《いかん》ともし難い。
 わたくしは此に第《しばら》く当時の所謂「蘭門の五哲」を挙げる。即ち渋江抽斎、森枳園、岡西玄亭、清川玄道、山田|椿庭《ちんてい》である。蘭軒の歿後に、榛軒は抽斎、玄亭、椿庭の詩箋、枳園の便面《べんめん》、玄道の短冊を一幅に装《よそほ》ひ成したことがある。此幅は近年に至るまで徳さんの所にあつたが、今其所在を知らない。
 それはとにかく、榛軒の世となつた後も、医を学ぶものが伊沢分家の門に輻湊したことは、当時の俗謡に徴して知ることが出来る。わたくしは此に其|辞《ことば》の卑俚《ひり》を嫌はずして、榛軒の女《ぢよ》曾能子《そのこ》刀自の記憶する所のとつちりとん一|※[#「門<癸」、第3水準1−93−53]《き》を録する。「医者になるならどこよりも、流行る伊沢へ五六年、読書三年匙三月、薬|※[#「坐+りっとう」、第3水準1−14−62]《きざ》みや丸薬や、頼まうどうれの取次や、それから諸家へ代脈に、往つて鍛ふが医者の腕、それを為遂《しと》げりや四|枚肩《まいがた》。」榛軒が父の世の家声を墜さなかつたことは明である。
 此年文政十二年に、頼氏では山陽が五十になり、其母|梅※[#「風にょう+思」、第4水準2−92−36]《ばいし》が七十になつた。「五十児有七十母、此福人間得応難。」
 伊沢氏では此年榛軒が既に云つた如く二十六、弟柏軒が二十、妹長が十六になつてゐた。榛軒の妻勇は其|歯《よはひ》を詳《つまびらか》にしない。蘭軒の姉正宗院|幾勢《きせ》は五十九であつた。

     その百九十五

 文政十三年は天保と改元せられた年で、蘭軒歿後第一年である。榛軒詩存に「天保庚寅元日」の詩がある。「妍々旭日上疎櫺。影入屠蘇盃裏馨。梅自暖烟生処白。草追残雪※[#「さんずい+絆のつくり」、第3水準1−86−63]辺青。読方択薬宜精思。射利求名豈役形。唯宝儂家伝国璽。明堂鍼灸宋雕経。」註に曰く。「余家旧蔵北宋槧本明堂鍼灸経。是架中第一珍書。故及之。」
 蘭軒|手沢《しゆたく》の書には古いものが頗《すこぶる》多かつたが、大抵鈔本であつた。それゆゑ当時最古の刊本として明堂鍼灸経《めいだうしんきうきやう》を推したのであらう。明堂鍼灸経とはいかなる書か。
 北宋太宗の太平興国七年に、尚薬奉御《しやうやくほうぎよ》王懐隠《わうくわいいん》等に詔《みことのり》して、太平聖恵方《たいへいせいけいはう》一百巻を撰ばしめた。其書は淳化三年に成つた。太宗は自らこれに叙して、「朕尊居億兆之上、常以百姓為心、念五気之或乖、恐一物之失所、不尽生理、朕甚憫焉、所以親閲方書、俾令撰集、溥天之下、各保遐年、同我生民、躋於寿域、今編勒成一百巻、命曰太平聖恵方、仍令彫刻印版、※[#「彳+扁」、第3水準1−84−34]施華弟、凡爾生霊、宜知朕意」と云つてゐる。即ち十世紀の書である。
 太平聖恵方の完本は、躋寿館《せいじゆくわん》に永正中の鈔本の覆写本があつた。其刊本は同館に七十三、七十四、七十九、八十、八十一の五巻を儲《たくは》へてゐたのみである。
 然るに此聖恵方の第一百巻に黄帝明堂鍼灸経が収めてあつた。是は素《もと》唐以前の書で、王等が採り用ゐたのである。既にして人あつて古版|首行《しゆぎやう》の「太平聖恵方」の五字を削り去り、単行本として市《いち》に上《のぼ》せた。故に首行の上《かみ》に空白を存じてゐる。此の変改せられた北宋|槧本《ざんほん》が躋寿館に一部、伊沢氏の酌源堂に一部あつた。彼は「長門光永寺」の墨印があり、此は「吉氏家蔵」の印があつた。経籍訪古志に「酌源堂亦蔵此本、紙墨頗精」と云つてあるのが即後者で、榛軒の詩中に斥《さ》す所である。今其所在を知らない。
 詩存には此春の詩が猶十八首あつて、就中《なかんづく》五首は阿部侯|正寧《まさやす》に次韻したもの、五首は賜題の作である。榛軒が正寧に侍して詩を賦したのは、蘭軒が正精《まさきよ》に侍して詩を賦したと相似てゐる。
 此年十月に榛軒は正寧に扈随して福山に往くこととなつた。前年来江戸に来て、丸山邸に住んでゐる門田《もんでん》朴斎は「白蛇峰歌」を作つてこれを送つた。「白蛇峰上白雲多。峰前是我曾棲処。黍山最高只此峰。勧君吟屐穿雲去。北望雲州与伯州。独有角盤相対※[#「にんべん+牟」、第3水準1−14−22]。臨風絶叫称絶勝。未輸五岳名山遊。吾兄在彼諳山蹊。恰好前導攀丹梯。別後思君復思兄。白雲満山夢不迷。」朴斎は兄|富卿《ふけい》を前導者として榛軒に推薦したのである。
 福山へ立つた兄榛軒と、江戸に留まつた弟柏軒との間に取り替された書牘は、集めて一巻となし、「荏薇問答」と題してある。荏土《えど》と黄薇《きび》との間に取り替されたからであらう。わたくしは此書を徳《めぐむ》さんに借りて、多少の価値ありと認むべき数条を抄出する。
 榛軒は十月十六日の暁に江戸を発した。同行した僚友は雨富良碩《あまとみりやうせき》、津山|宗伯《そうはく》であつた。留守は柏軒で、塩田|楊庵《やうあん》、当時の称小林|玄瑞《げんずゐ》が嘱を受けて其相談相手になつた。
 榛軒が去つた直後に、留守宅に傷寒論輪講の発会があつた。来会者は各《おの/\》数行の文を書して榛軒に寄せた。合作の柬牘《かんどく》である。会日は十月二十日であつた。
 首《はじめ》に柏軒が書した。「磐安《はんあん》曰。集まりし人より伝言左の如し。尤《もつとも》各自筆なり。」
 次に渋江抽斎が書した。「道純敬啓。御出立の砌は参上、得拝眉、大慶不過之候。御清寧、御道中種々珍事可有之、奉恭羨候。廿日より傷寒論講釈相始候処、諸君奇講甚面白し。輪
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