入つた。その甲申の歳に神辺《かんなべ》にゐた子彦なることは復《また》疑を容れない。藤某は恐くは佐藤一斎であらう。「嘗居菅子家。詞藻摘花粋。近入藤翁門。道機披帳秘。」士彦が郷に帰るのは、父の病めるが故である。そして其|発※[#「車+刄」、第4水準2−89−59]《はつじん》は七月中であつた。「節惟当孟秋。忽爾説帰思。非是想※[#「くさかんむり/純」、7巻−363−上−13]鱸。昨逢郷信寄。家翁報抱痾。胸臆真憂悸。」蘭軒は士彦の父の病の※[#「やまいだれ+差」、第4水準2−81−66]《い》ゆべきを説いてこれを慰め、その再び江戸に来て業を畢《を》へむことを勧めてゐる。「椿堂元健強。微恙愈容易。重作東来謀。偏期夙望遂。(中略。)登躋斯崑岡。幸増君腹笥。」
後に浜野福田両氏に聞けば、山室子彦、名は俊《しゆん》、通称は武左衛門、汲古《きふこ》と号した。其父名は恭、箕陽《きやう》と号した。
阿部正寧に次韻した詩は七絶である。正寧の帰藩の月日は、伯爵家の記録を検して知ることが容易であらう。「干旄孑孑上途程。千騎従行秋粛清。遙想仁風吹遍処。満疆草樹報歓声。」
その百八十六
此年文政十一年八月には、蘭軒に「中秋無月」の七絶がある。次に秋季の詩が五首ある。「秋日偶成、次茶山菅先生韻」三首、「園楓殊紅、和多田玄順所贈、云是立田種」一首、並に七絶である。茶山の集に就いて原唱を求むるに、文化丙子の「秋月雑詠十二首」が即是で、蘭軒は其第二、第三、第六、第八に次韻したのである。此に二家の最初の作を挙げる。茶山。「鳳仙頗美冶容多。鶏髻雖妍色帯奢。此意吾将問蝴蝶。不知尤愛在何花。」蘭軒。「我圃秋芳誇許多。更無一種渉驕奢。最堪愛処知何是。高格清香楚※[#「田+宛」、第3水準1−88−43]花。」後者の詠ずる所は例の蘭草《らんさう》の藤袴《ふぢばかま》である。園楓《ゑんふう》は和多田玄順《わただげんじゆん》の貽《おく》る所の種《たね》だと云つてある。和多田の名は門人録に見えて、下に「岡崎」と註してある。
十月に蘭軒は小旅行をしたらしい。集に「初冬山居」の七絶二、「冬日田園雑興」の七絶一があつて、就中《なかんづく》山居の一は題を設けて作つたものとは看做《みな》し難い。「近日山村奢作流。小春時節襲軽裘。約期争設開炉宴。菟道茶商来滞留。」当時茶の湯の盛に行はれた山村は何処であらうか。
十一月十日に蘭軒の幼女|万知《まち》が歿した。母は側室佐藤氏である。先霊名録に覚心禅童女の法諡《はふし》が載せてある。恐くは生後|幾《いくばく》ならずして夭したのであらう。
按ずるに蘭軒の女《ぢよ》は文化乙丑に長女|天津《てつ》が夭し、壬申に二女智貌童女が夭し、文政癸未に四女順が夭し、今又五女万知が夭した。その僅に存するものは文化甲戊生の三女|長《ちやう》一人である。
蘭軒は平素身辺に大小種々の篋《はこ》を置いた。恐くは小什具《せうじふぐ》を貯へ、又書紙を蔵《をさ》むる用に供したのであらう。起居不自由なる蘭軒が篋※[#「竹かんむり/匪」、第4水準2−83−65]《けふひ》の便を藉ることの多かつたのは、固より異《あやし》むに足らない。世の口さがなきものは、その数《しば/\》女児を喪ふを見て、一の狂句を作つた。「箱好が過ぎて娘を箱に入れ。」
十二月四日に榛軒の長女れんが夭した。法諡幻光禅童女である。
此年戊子の除日は蘭軒がためには最終の除日であつた。「歳晩偶作。臘節都城閙。間窓足欠伸。堅晴梅蕋馥。奇暖鳥声春。老応居人後。楽何関屋貧。近来頻哭友。徒寿笑吾身。」蘭軒は二年前に棕軒侯を哭し、前年に茶山を哭した。落莫の感なきことを得なかつたであらう。「近来頻哭友。徒寿笑吾身。」
集中此年の詩は大半柏軒の浄書する所である。六月後には蘭軒は一首をだに自書してゐない。
此年市野氏では迷庵の子光寿が四十一歳になつてゐた。狩谷氏では隠居※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が五十四歳、戸主|懐之《くわいし》が二十五歳であつた。多紀氏では矢の倉の※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》が三十四歳、向柳原《むかうやなぎはら》の宗家は前年|柳※[#「さんずい+片」、第3水準1−86−57]《りうはん》が歿して、暁湖《げうこ》の世になつてゐた。蘭軒の門人中渋江抽斎は二十四、森枳園は二十二であつた。
頼氏では山陽が此春水西荘に山紫水明処を造つた。「却向東南贅一室。要将三面看梅花。」
是年蘭軒五十二、妻益四十六、榛軒二十五、常三郎二十四、柏軒十九、長十五であつた。榛軒の妻|勇《ゆう》は年紀不詳である。
その百八十七
文政十二年は蘭軒終焉の年である。「己丑元旦」の詩は榛軒《しんけん》が浄書してゐる。「三冬無雪梅花早。一夜生春人意寛。卜得酔郷今歳富。尊余臘酒緑漫々。」語に毫も衰残の気象を認めない。蘭軒は、脚疾を除く外、年初に猶身体の康寧《かうねい》を保つてゐたかとおもはれる。
二月二日に蘭軒の次男常三郎が歿した。幼《いとけな》くして明《めい》を失し、心身共に虚弱であつたさうである。常三郎は父に先《さきだ》つこと四十五日にして歿したのである。文化乙丑に生れて、二十五歳になつてゐた。
五日に蘭軒の妻|益《ます》が歿した。其|病《やまひ》を知らない。曾て除夜に琴を奏して慰めたと云ふ盲児《まうじ》常三郎に遅るること僅に三日、夫に先つこと四十二日にして歿したのである。益は天明三年に飯田休庵の女《ぢよ》として生れ、年を享くること四十七歳であつた。法諡《はふし》を和楽院潤壌貞温《わらくゐんじゆんじやうていをん》大姉と云ふ。
十五日に蘭軒は友を会して詩を賦した。推するに未だ致死の病に襲はれてゐなかつたやうである。集に存ずる所の三絶句の一は、亡妻を悼《いた》んで作つたものらしい。「二月十五日夜呼韻。風恬淡靄籠春園。遠巷誰家笑語喧。零尽梅花枝上月。把杯漫欲復芳魂。」
三月十七日に蘭軒は歿した。足疾は少壮の時よりあつて、蹇《あしなへ》となつてからも既に十七年を経てゐる。しかし此人の性命を奪つたのは何の病であらうか。口碑の伝ふる所のものもなく、記載の徴すべきものもない。三十二日前に夜友を会して詩を賦したことを思へば、死の転帰を見るべき病は、当時猶未だ其徴候を呈せなかつたであらう。推するに蘭軒の病は急劇の証であつたと見える。以上書き畢《をは》つた後、徳《めぐむ》さんの言《こと》を聞けば、蘭軒夫妻と常三郎とは同一の熱病に罹つたらしく、柏軒も亦これに侵されて頭髪が皆脱したさうである。此に由つて観れば、此病を免れたものは榛軒夫婦のみであつた。
蘭軒は安永六年十一月十一日に生れたから、年を享くること五十三である。法諡を芳桜軒自安信恬《はうあうけんじあんしんてん》居士と云ふ。
蘭軒の墓は麻布の長谷寺《ちやうこくじ》にある。笄坂上《かうがいざかうへ》を巡査派出所の傍《かたはら》より東に入つて、左折して衝き当れば、寺門がある。門内の右方《いうはう》には橋本|箕山《きざん》の碑がある。東京の最大碑の一である。本堂前より左すれば、高く土を封じた松平正直の墓がある。其前の小径の一辺に、蘭軒夫妻の墓は、後に葬られた嗣子榛軒の墓と並んで立つてゐる。
伊沢分家の口碑は蘭軒歿時の話柄《わへい》二三を伝へてゐる。蘭軒の姉|正宗院《しやうそうゐん》は溜池より来て、弟の病牀に侍してゐた。尋《つい》で弟の絶息した後、来弔の客を引見した。蘭軒の門人某の父が来て痛惜の情を※[#「てへん+慮」、第4水準2−13−58]《の》べた。正宗院は云つた。
「わたくしも惜しい事だと存じてをります。わたくしが代つて死なれるものなら死にたいと存じましたが、どうも致し方がございませんでした。」
「さやうでございます。それはあなたが先生の代にお死なさつたら、大勢の諸生がどの位喜んだか知れません。」これが門人の父の答であつた。
正宗院は瞠目《だうもく》して言ふ所を知らなかつた。しかし客の去つた後、其淳樸を賞した。
その百八十八
蘭軒が此年文政十二年三月十七日に歿した時、今一つの話柄があつて、伊沢分家の口碑に遺つてゐる。それは歿後|幾《いくばく》もなく初夏の季に入つて、誰やらが「大声の耳に残るや初鰹」の句を作つたと云ふことである。
蘭軒は平生大声で談《はな》し、大声で笑つた。俗客の門《かど》に来るときは、諸生をして不在と道《い》はしめた。諸生が或は躊躇すると、蘭軒は奥より「留守だと道へ」と叫んだ。其声は往々客の耳にも入つたさうである。
嘗て自ら笑仙《せうせん》と号したのも、交遊間に「蘭軒の高笑《たかわらひ》」の語が行はれてゐたからである。
菅茶山は毎《つね》に「大声高笑《おほごゑたかわらひ》」の語を以て蘭軒に戯れた。此に茶山の書牘一通があつて、文中に此語が見えてゐる。書牘は文化丙寅六月十九日に茶山が蘭軒の父|信階《のぶしな》に与へたもので、文淵堂の花天月地《くわてんげつち》中に収められてゐる。
丙寅は蘭軒の長崎に往つた年である。茶山はこれを七日市《なぬかいち》へ迎へ、神辺に伴ひ帰つて饗応し、又尾道まで見送つた。書牘は此会見の状況を江戸にある蘭軒の父に報じたものである。わたくしは前《さき》に蘭軒の長崎行を叙した時、未だ花天月地を見なかつたので、此文を引くことが出来なかつた。文は下《しも》の如くである。
「時下大暑の候御坐候。弥御揃御安祥被成御坐候覧、奉恭賀候。」
「扨めづらしく辞安様御西遊、おもひかけなくゆる/\御めにかかり、大によろこび申候。大坂より御状下され、此たびのこと御申しこしなされ、おどろき申候。御とまりは七日市と申所、わたくし家神のべと申より東三里ばかり也。さつそく参候而《まゐりそろて》、一夕御はなしども承候、第一ことのほか御すくやかなる御様子、大ごゑたかわらひもへいぜいのとほり、すこしもたびの御つかれなく、めづらしき山川ここかしこ御なぐさみおほく候よし。御奉行様御おぼえもめでたく、あまりにしたしくなし下され、同行《どうぎやう》のてまへすこしきのどくなるくらゐに御坐候よし。さて六月十七日あさ、わたくし方へ御いでなされ候。御たびかけのこと、しな/″\御みやげ等下され、いたみ入かたじけなく奉存候。妻《さい》姪《てつ》どももまかり出、御めにかかり候。九つ時分御立なされ、御いとまごひ申候へども、とかく御名ごりをしく、尾道と申まで、西南六里、御あとより追かけ候|而《て》、また一夜御はなし申候。御しよくじなどもよくなされ候。これは少々御ひかへなされと申候ほどのことに候。」
「右御様子申上度、且又御状一通御届申候ため、一筆啓上仕候。暑甚御坐候。御保護専一奉祈候。恐惶謹言。六月十九日、菅太中。伊沢長安様。」
「十七日一夜をのみちにて御はなし承、早朝御立にて御坐候。わたくしは其日すこし休息いたし帰宅仕候。十八日夜也。」
「尚々|御次《おんついで》御内上《おんうちうへ》様、辞安様|御内政《ごないせい》様へ宜奉願上候。」
「尚々千蔵こと辞安様大に御せわ被下、可也にとりつづきゐ申候よし、忝奉存候。さだめて時々参上、御せわになり可申候。宜奉願上候。」
此書牘は茶山が蘭軒の旅況を蘭軒の父信階に報じたもので、此主なる三人を除く外、尚六個の人物が文中に見えてゐる。話題に上つてゐるものは通計九人である。わたくしは下《しも》に少しくこれを註して置かうとおもふ。
その百八十九
わたくしは蘭軒の大声高笑の事を言つて、菅茶山の書牘を引いた。蘭軒は文化丙寅に長崎に往く途次、神辺《かんなべ》を過《よぎ》つた。茶山がこれを江戸にある蘭軒の父|信階《のぶしな》に報じた書は即是である。書を裁した茶山は五十九歳、書を得た信階は六十三歳、文中に見えてゐる蘭軒は平頭《へいとう》三十であつた。わたくしは是に由つて「伊沢長安様」と呼ばれた信階が、倅蘭軒ほど茶山に親しくはないまでも、折々は書信の往復をもしたと云ふことを知る。茶山の仮名文字を用ゐること常よりも稍《やゝ》
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