課題は「涼歩」であつた。蘭軒は五律各一を作つた。
閏《じゆん》六月十三日同亭会の宿題は「蓮池避暑」で、蘭軒に五律一がある。
十四日には蘭軒は家にあつて月を賞した。「閏六十四夜即事」の七絶一がある。題の下《しも》に「此立秋前一夕」と註してある。
二十三日には暑を丸山長泉寺に避けた。「賦得夏日一何長」の五律がある。「夏日一何長」は小原鶯谷《こはらあうこく》の句である。鶯谷は曾て吉原に於て蘭軒と相識になり、後不忍池清宜亭の詩会に参した。「傾蓋楊巷曲。闘毫蓮※[#「さんずい+卯」、第4水準2−78−35]磯。」さて前年六月に歿したので、蘭軒は前《さき》に一たび此寺の遊を同うしたことを憶ひ起し、其詩句を以て題となした。此日別に「長泉寺避暑」の七絶一があつた。
集に猶夏の詩にして未だ挙げざるもの一がある。それは「山中避暑図」の七絶である。
七月十二日には集に「初秋十二夜偶成」の詩がある。「山海君恩不棄吾。身間休歎※[#「士/冖/石/木」、第4水準2−15−30]無余。方是清風明月夕。漫対二児論古書。」作者の情懐に大に喜ぶべきものがある。これに次いで「題驟雨孤雀図」の五絶一、「偶作」の七律二、「夜坐」の五絶一がある。「偶作」中にも亦「樗材居世不如愁」、「伝家宝只有書蔵」等の句があつてわたくしの目を惹いた。
八月十三日は仙駕亭例会の日であつた。宿題は「園中秋草花盛開」で、蘭軒は五絶の体を以て、紫苑、秋海棠、※[#「くさかんむり/紅」、第4水準2−86−42]児《こうじ》、鴨跖草《あふせきさう》、玉簪花《ぎよくさんくわ》、地楡《ちゆ》、沙参《さじん》、野菊《やきく》、秋葵《しうき》の諸花を詠じた。席上課題は「柬友人約中秋飲」で、蘭軒に七絶一があつた。安《いづく》んぞ知らむ、此日菅茶山は神辺《かんなべ》にあつて易簀《えきさく》したのであつた。「病※[#「口+鬲」、第4水準2−4−23]噎、自春及秋漸篤、終不起、実八月十三日也」と、行状に書してある。
茶山は死に先つて「読旧詩巻」の五古を賦した。「老来歓娯少。長日消得難。偶憶強壮日。時把旧詩看。」さて生涯の記念を数へてかう云つた。「酔花墨川※[#「こざとへん+是」、第3水準1−93−60]。吟月椋湖船。叉手温生捷。露頂張旭顛。」其自註を検すれば、第一は犬塚|印南《いんなん》、伊沢蘭軒、第二は蠣崎波響《かきざきはきやう》[#ルビの「かきざき」は底本では「かきさき」]、僧六|如《によ》、第三は橋本|※[#「木/(虫+虫)」、7巻−352−下−5]庵《とあん》、第四は倉成竜渚《くらなりりゆうしよ》である。「此等常在胸。其状更宛然。瑣事委遺忘。忽亦現目前。」
蘭軒との交《まじはり》が茶山のために主要なる記念の一であつたことは、此に由つて知られる。
その百八十
わたくしは蘭軒の一生を叙して編日の記事をなさむことを努め、此年文政十年八月十三日に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》つて、その師友として待つた所の菅茶山の死に撞著した。茶山集の最尾に「臨終訣妹姪」の詩がある。「身殲固信百無知。那有浮生一念遺。目下除非存妹姪。奈何歓笑永参差。」わたくしは始て読んで瞿然《くぜん》とした。前半は哲学者の口吻と謂はむよりは、寧《むしろ》万有学者の口吻と謂ふべきである。想ふに平生筆を行《や》ることの極めて自在なるより、期せずして道《い》ひ得たのであらう。妹姪《まいてつ》は未だその誰々たるかを知らない。しかし井上氏|敬《きやう》が其中にあつたことは明である。
頼山陽は茶山の病|革《すみやか》なるを聞いて、京都より馳せ至つた。しかし葬儀にだに会ふことを得なかつた。「聞病趨千里。中途得訃音。不能同執※[#「糸+弗」、7巻−353−上−9]。顧悔晩揚鞭。」
茶山の後は姪孫《てつそん》菅《くわん》三|惟繩《ゐじよう》が継いだ。関藤々陰《せきとう/\いん》の「菅自牧斎先生墓碣銘」に「茶山先生以儒顕、本藩賜爵禄優待之、比歿、樗平君子孫独先生(自牧斎惟繩)在焉、以姪孫承其後、主郷校、藩給廩米五口、事在文政丁亥」と云つてある。
九月十三日には上野仙駕亭の詩会が催された。「秋水網舫」、「秋蝶」は其宿題、「秋帆晴景」は其席上課題であつた。網舫《まうばう》の詩は七絶、蝶と晴景《せいけい》とは七律である。別に秋の詩の間に「詠史」七絶二がある。一は仁徳帝、一は漢の張良である。
冬に入つて十一月に榛軒が女子を挙げたことは、次年戊子元日の詩の註に見えてゐる。歴世略伝を検するに榛軒の子は柏《かえ》、久利《くり》の二女を載するのみである。柏の生れたのは八年の後である。久利の生年は記載して無い。丁亥に生れた女子はその何人《なにひと》なるを詳《つまびらか》にしない。
わたくしは特にこれを徳《めぐむ》さんに質《たゞ》した。そして久利の生れたのが十年の後なることを知つた。丁亥に生れた女子は名をれんと云つたさうである。然らば榛軒の女は長をれんと云ひ、次を柏と云ひ、季を久利と云つて、独り柏が人と成つたのである。
十二月には元槧《げんざん》千|金翼方《きんよくはう》の影写が功を竣《をは》つた。是も亦次年元日の詩の註に見えてゐる。原本は多紀氏|聿脩堂《いつしうだう》の蔵する所である。蘭軒が其抄本に跋したのは十二月三日である。末に「文政十年※[#「虫+昔」、第4水準2−87−55]月三日、呵筆記於三養堂、時大雪始晴」と書してある。
千金翼方は千金方と同じく孫思※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]《そんしばく》の撰と称せられてゐる。千金方には傷寒の治法を詳にしなかつたので、翼方を作つたと云ふのである。「孫氏撰千金方。其中風瘡※[#「癰−隹」、7巻−354−上−8]。可謂精至。而傷寒一門。(中略。)疑未得其詳矣。又著千金翼方。辨論方法。(中略。)為十六篇。分上下両巻。亦一時之新意。此於千金為輔翼之深者也。」
此書の元槧本は所謂梅渓書院本である。「大徳丁未、梅渓書院梓行」と云つてある。丁未は元の世宗の大徳十一年である。初に孫奇《そんき》、林億《りんおく》等の校正表を載せ、末に後序を載せてある。皆後の刊本の刪除《さんぢよ》する所である。
蘭軒がこれを影抄し畢《をは》つた時、躋寿館《せいじゆくわん》に又これを影刻する議が起つた。「近頃医官諸君。有醵金影刻此本之挙。正学之余恵被後代。可謂其徳浹渥。抑崇文盛化之所致。豈不欽仰邪。其如此則爾後善本之有刻。日多一日。余蔵多抄本。恐子孫以刻本易得。軽視家蔵。因仔細記之。」
蘭軒は既に元槧千金方を有してゐたので、其影抄翼方に同一装釘を施して愛蔵した。「余蔵元板前方。今装釘一依其式様。以充聯璧。」
当時世間に行はれてゐた千金翼方は、乾隆癸未|重梓本《ちようしぼん》、王宇泰本《わううたいぼん》等である。
その百八十一
蘭軒は此年文政十年十二月三日に影抄元板千金翼方に跋して、偶《たま/\》書の銓択《せんたく》に論及した。其|言《こと》頗《すこぶる》傾聴するに堪へたるものがある。
蘭軒の曰く。「蔵書宜務銓択。始為有識見也。而銓択有二派。好逸書。愛奇文。世所絶少者。雖兎園稗史。必捜得之。是好事蔵家所銓択也。其所蔵不過緊要必読之書。然皆古刻旧鈔。審定真本而蔵之。是正学蔵家所銓択也。要之雖有醇※[#「酉+璃のつくり」、第4水準2−90−40]之別。非有識見。則不能為銓択矣。」
蘭軒は八十九年前に於て此|言《こと》をなした。然るに今の蔵家を観るに二派は猶劃然として分れてゐる。
方今校刻の業盛に興つて、某会某社と称するもの指|※[#「てへん+婁」、7巻−355−上−8]《かゞな》ふるに遑《いとま》あらざる程である。若し貲《し》を投じ盟に加はつてゐたら、立どころに希覯《きこう》の書万巻を致さむことも、或は難きことを必《ひつ》とせぬであらう。
独り奈何《いかん》せむ、彼諸会社は皆正学と好事との二派を一網打尽せむと欲してゐる。世間好事者の多いことは、到底正学者の比ではない。それ故に会社が校刻書目を銓択するときに、好事者の好に投ずるものが十の八九に居る。その甚しきに至つては初め正学者の用をなすもの一二部を出して、後全く継刊せざるにさへ至る。洵《まこと》に惜むべきことの甚だしきである。
わたくしの如きは戯曲小説の善本を相応に尊重するものである。多少の好事趣味をも解するものである。しかし書を求むるには自ら緩急がある。限ある財を以て限なき書を買ふことは出来ない。矧《いはむ》や月ごとに数十金を捐《す》てて無用の淫書を買ふは、わたくしの能く耐ふる所でない。
且|啻《たゞ》に兎園稗史《とゑんはいし》を排すべしとなすのみでは無い。史伝を集刊すると称して、絵入軍記を収め、地誌を彙刻すると称して名所図絵を収むるが如きも、わたくしは其意の在る所を解するに苦む。書を買つて研鑽の用に供せむと欲する少数者は、遂に書を買つて娯楽の具となさむと欲する多数者の凌虐《りようぎやく》に遭ふことを免れぬのであらうか。
設《も》し此に一会社の興るあつて、正学一派のために校刻の業に従事し、毫も好事派を目中に置かなかつたら、崇文盛化《そうぶんせいくわ》の余沢《よたく》は方《まさ》に纔《わづか》に社会に被及《ひきふ》するであらう。
仄に聞けば、頃日《このごろ》暴富の人があつて、一博士の書を刊せむがために数万金を捐《す》てたさうである。わたくしは其書の善悪を知らぬが、要するに一家言である。これに反して経史子集の当《まさ》に刻すべくして未だ刻せられざるものは、その幾何《いくばく》なるを知らない。世に伝ふる所の松崎|慊堂《かうだう》天保十三年の上書《じやうしよ》がある。安井息軒のこれに跋するを見れば、当時徳川家斉の美挙は俗吏|賈豎《こじゆ》の誤る所となつたらしい。「潜聴於四方、所刻率誤本俗籍。所謂盛典。半為賈豎射利之挙。」そして慊堂の刻せむと欲した五経、三史、李善註文選《りぜんちゆうもんぜん》、杜氏通典《としつうてん》だに、今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》つて未だ善本の刻せらるるを見ぬのである。「今此十余種者。半蔵於秘府。固非人間所得窺。而其存於侯国及人家僧院者。地有遠近。人有繁間。苟不梓而広之。其目覩之者能幾人。則雖存猶亡爾。」世|遷《うつ》り時|易《かは》つて、楓山《もみぢやま》文庫は内閣文庫となり、政府と自治体と競つて図書館を起しても、市に善本なきことは今猶古のごとくである。
その百八十二
※[#「くさかんむり/姦」、7巻−356−下−4]斎詩集には此年文政十年の冬唯七絶二首があるのみである。一は「篠池冬晴」、一は「観猟」で、恐くは皆課題の作であらう。
此年蘭軒五十一歳、妻益四十五、榛軒二十四、常三郎二十三、柏軒十八、長十四であつた。榛軒の妻勇は其|齢《よはひ》を詳にしない。勇の所生《しよせい》の幼女れんは当歳である。
文政十一年の蘭軒歳首の詩は、前年丁亥の事を叙せむがために、上《かみ》に其註を引いたが、今此に全篇を録する。「戊子元日作。満城晴雪映朝暾。恰是豊祥属正元。笑語熈々春自返。風烟軟々意先暄。家貧猶愛新増帙。身老尤忻初挙孫。別有間遊宜早計。梅花香発遍林園。第五註、客歳十二月元彫千金翼方影鈔卒業、第六註、十一月児厚挙女子、第七八註、臘前梅花半開、信頗異於常年。」
正月九日の草堂集は例の如くであつた。「山荘春色雪初融。軽暖軽寒梅下風。何識佳賓来満坐。新年勝事属衰翁。」
わたくしは蘭軒の三男柏軒立志の事を松田道夫さんに聞いた。道夫さんは曾て医を柏軒に学んだ人である。そしてわたくしは聞く所の事の是正月の下《もと》に繋《か》くべきものなるを謂《おも》ふ。此に先づ聞く所を叙することとする。
某《それ》の歳|多紀※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》の発会の日に、蘭軒の嫡子榛軒は酒を被《かうむ》つて人と争つた。柏軒はこれを聞いて、霊枢《れいすう》一巻を手
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