告げた。茶山が「風流御境界之由羨敷奉存候」と云ふ所以である。
 次の「六右衛門」は市野三右衛門の迷庵と狩谷三右衛門の※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎とである。茶山は蘭軒が、時に此第二第三の人物と相見るや否やを問ひ、又特に迷庵の消息の絶えたことを言つてゐる。茶山のこれを書したのは、実に迷庵の死に先《さきだ》つこと半年である。松崎|慊堂《かうだう》の碣銘《けつめい》に曰く。「又数年得風疾。漸不能言。最後余与狩谷卿雲往候之。君但黙坐。聴所談論。唖唖声涙倶下。未幾而没。」わたくしは今「慊堂日暦」を閲して、纔《わづか》に甲申の歳に至つてゐる。知る所の最後の訪問は甲申二月五日である。想ふに慊堂はその迷庵との最後の会見を録することを忘れぬであらう。茶山と迷庵との音信の絶えたのは、迷庵中風の後ではなからうか。
 書中第四の「古庵」は余語《よご》氏、第五の「石田」は梧堂、第六の「服部」は栗陰《りついん》であらう。第七第八の「玄間兄弟」は屈平《くつへい》を学んだ人の二子であらうか。伊沢|徳《めぐむ》さんの語る所に拠るに、三沢氏は玄間の称を世襲したもので、徳の父棠軒の同僚にも一の洋医三沢玄間があつたさうである。
 わたくしは此正月に蘭軒の嫡男榛軒が新婦を迎へたものと推定する。これを直書《ちよくしよ》した文書は今一も存してゐない。わたくしの推定の本づく所は、此年四月頃の茶山の尺牘の断片と、次年戊子元旦の蘭軒の詩の註とである。
 前者尺牘断片は下《しも》に其全文を写し出して、その何故に此年四月の所作ならざるべからざるかを明にするであらう。蘭軒は此年三月二十二日に書を茶山に寄せ、茶山はこれに答へた。わたくしは其答書が偶《たま/\》断片を世間に留めたものと看るのである。文中「嫁御御祝儀に有合候宮島楊枝進申候、薄物《はくぶつ》に候、これは乗韋《じようゐ》と可被思召候」と云つてある。此語は先断片の三月二十二日江戸発の書に答へたものなることを承認した上で、其前に伊沢氏に婦を迎へたことがあると云ふ証に充《み》つべきものたるに過ぎない。断片は饗庭篁村《あへばくわうそん》さんの蔵する所である。
 後者「戊子元日作」の自註には「客歳十二月元彫千金翼方影鈔卒業」と云ひ、次に「十一月児厚挙女子」と云つてある。十一月の上《かみ》には前註の「客歳」を連ねて読むべきである。客歳は此年丁亥で、其十一月に榛軒信厚は長女をまうけた。榛軒の婚姻は少くも十一月の前十月に於てせられたものとしなくてはならない。
 わたくしは此の如くにして、榛軒の婦を迎へた時の、此年丁亥正月なるべきことを推定した。

     その百七十七

 わたくしは蘭軒の嫡子榛軒が此年文政十年正月中に婦を迎へたことを推定した。是は菅茶山の蘭軒に与へた手柬の断片と、※[#「くさかんむり/姦」、7巻−347−上−4]斎詩集の自註とに拠つたものである。
 榛軒の妻《さい》とは誰ぞ。伊沢分家の口碑に拠るに、榛軒は初め横田氏を娶《めと》り、後飯田氏を娶つた。彼は名を勇《ゆう》と云ひ、此は名を志保《しほ》と云つた。是に由つて観れば丁亥に来り嫁した新婦は横田氏勇であらう。
 此年二月二日は菅茶山の八十の誕辰であつた。寿筵は恐くは此日に開かれたことであらう。集に「八十諸友来寿」の三絶句がある。しかし日を記さない。行状には「賜章服及魚寿之」と云つてある。饗庭篁村さんの所蔵の月日を闕いた書牘の断片に下の文がある。「八十之賀には御垢附御羽折《おんあかつきおんはをり》雑魚《ざこ》数品拝領、其外|近比《ちかごろ》八丈島二反御肴とも被下置候。殊遇特恩身にあまり難有奉存候。桑楡《さうゆ》之景もはや可然御奉公も出来かね、只々恐入奉存候。せめて時々御伺にも相出候へば宜候に、衰耄それも出来かね候而《そろて》、不可奈何《いかにもすべからず》候。扨々恐入候御事に御坐候。我兄迄感泣之万一を申上候。御憐察可被下候。晋帥。」此文は上《かみ》に引いた「君公御入国に而」云々の文の後半で、末に宛名が無い。しかし所謂「我兄」の蘭軒たることは疑を容れない。行状の書する所は阿部|正寧《まさやす》の初度の賜《たまもの》で、「章服」は「御垢附御羽折」である。此賜は二月二日の生日に於てせられたこととおもふ。
 寿詞を贈つたものには讚岐の後藤|漆谷《しつこく》、美作《みまさか》の茂誥大輔《もかうたいほ》、徳島の僧玉澗等があつたことが集に見えてゐる。
 二月十三日には蘭軒が不忍池の仙駕亭に会した。宿題「林鶯」の七絶、席上分韻「湖亭春望」の七律がある。
 三月十三日には再び仙駕亭に会した。宿題「花時遍遊諸村」の七絶がある。
 十五日には向島に月を観た。「三月既望墨水堤花下歩月」の七絶は後に考拠に資すべきものがあるから、此に採録する。「万頃春波漫夜烟。花薫々処月妍々。古人品得何廉価。今夕将増金一千。」
 わたくしは此月二十二日に蘭軒が書を茶山に寄せたことを知つてゐる。しかし其書は今存してゐない。存してゐるものは茶山のこれに答へた書の断片である。茶山のこれに答へたのは四月中の事であらう。此断片も亦饗庭氏の蔵儲に係る。「梅児冢《ばいじちよう》あたりへ之散行、さて/\羨しく候。ことに弱冠前後の俊髦《しゆんばう》を携たるをや。私は児なし。養子もとかく相応せず。才子過て傲慢、こまり申候。狂詩のごとしと被仰下候へども、中々おもしろく候。花月何論価高下、只※[#「貝+(やね/示)」、7巻−348−上−15]美酒斗十千と次かけ候へ共、上《かみ》の方出来かね候。かくうちには出来可申か。高滝子《たかたきし》と金輪《こんりん》へ参候由、総介とは誰か。唯介にてはなきか。梧堂と一つになり候半《さふらはむ》と存候。桜花※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]《あうくわせき》は性を存《そんじ》、色もあしからず候。わたくしがすれば花はかれて色あしくなり候。伝授心法はなきか。あらば御伝可被下候。嫁御御祝儀に有合候宮島楊枝進申候。薄物に候。これは乗韋と可被思召候。右は空海上人忌日|※[#「月+彡」、第4水準2−85−17]日《ゆうじつ》之書之御返事也。前二句は花堤夜色淡生烟。政是江波月弄妍などか。」
 僧空海は承和二年三月二十一日に寂した。其忌日は三月二十一日である。※[#「月+彡」、第4水準2−85−17]日の「※[#「月+彡」、第4水準2−85−17]」字の草体は頗読み難かつた。偶《たま/\》今関|天彭《てんはう》さんが来て商書の「高宗※[#「月+彡」、第4水準2−85−17]日」であらうと云つた。茶山は祭の明日を謂つたものであらう。そこでわたくしは二十二日と推定した。茶山は※[#「月+彡」、第4水準2−85−17]日の旁《かたはら》に線を加へて「八島戦之後四日也」と註してゐる。しかし屋島の戦は二月であつた。然らば壇浦の戦は奈何《いかに》と云ふに、これは又三月二十二日より遅れてゐるやうである。恐くは茶山の違算であらう。蘭軒の書が丁亥の三月二十二日のものであつたことは、丁亥三月既望の詩を寄示したるに由つて知ることが出来る。

     その百七十八

「空海上人忌日※[#「月+彡」、第4水準2−85−17]日」の蘭軒の書牘が、此年文政十年の三月二十二日に作られたことは、その菅茶山に寄示した「万頃春波漫夜烟」の詩に由つて知られる。そして既に此書が丁亥の書なるを知れば、榛軒の星期が丁亥の初にあつたことも亦自ら明になるのである。若し更に蘭軒の次年戊子元旦の詩註を取つて合せ看るときは、榛軒の妻|勇《ゆう》が来嫁《らいか》の後未だ幾《いくばく》ならずして懐胎したことが知られるであらう。
 右の蘭軒の書に答ふる茶山の書の断片には、「花堤夜色淡生烟」云々の次韻の詩がある。茶山は蘭軒の此遊に二児の提挈《ていけつ》あるを羨んで云つた。「私は子なし。養子もとかく相応せず、才子過て傲慢、こまり申候。」此養子とは誰か。公《おほやけ》に養子と称せられたものには、初め万年があつた。万年の歿後には菅三がある。しかし此語は菅三を斥《さ》して言つたものではなささうである。然らば所謂中継か。今や北条霞亭は既に逝《ゆ》いた後である。或は門田朴斎《もんでんぼくさい》ではなからうか。わたくしの思ふには、縦令《たとひ》茶山が朴斎を傲慢なりとなしたとしても、此|言《こと》は必ずしも朴斎を傷くるものでは無い。前に茶山と山陽との間に融和を欠いた如くに、後又茶山と朴斎との間に輯睦《しふぼく》を欠いたかも知れない。そして此恨事は偶《たま/\》以て朴斎の豪邁の資を証するに足るかも知れない。
 書中には猶|高滝子《たかたきし》、総介二人の名が見えてゐる。そして茶山は総介の黙庵|牧唯介《まきたゞすけ》にあらざるなきかを疑ひ、又総介が金輪寺へ往くと聞いて、「梧堂と一つになり候半」と推想してゐる。高滝氏は屡《しば/″\》朴斎集中に見えてゐて、名は常明《つねあき》であつたらしい。総介はわたくしは未だ考へない。
 三月二十三日には※[#「くさかんむり/姦」、7巻−350−上−2]斎詩集に「廿三日暁起」の七絶がある。蘭軒は残月の桜花の上に懸れるを賞したのである。
 二十九日に蘭軒は天野|樵※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]《せうとん》、子柏軒の二人と共に郊外を歩し、僧|混外《こんげ》を金輪寺に訪ひて逢はず、茶店《ちやてん》に憩うて鈴木玄仙に邂逅し、遂に鹿浜《しかはま》に到つて帰つた。
 集に「春尽前一日与天野樵※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]、児信重同遊近郊、遂到鹿浜而帰」の七絶七首がある。丁亥の三月は大なるが故に、「春尽前一日」が二十九日となる。二十八日の夜は雨がふつたのに、此朝は晴れてゐた。「宵半雨声※[#「口+曹」、第3水準1−15−16]撲扉。方恐拾翠約空違。今朝天気開晴朗。促伴命輿神欲飛。」是が七首中の第一である。
 王子の金輪寺《こんりんじ》を敲けば、寺僧混外は出でて未だ還らなかつた。「将訪高僧掃世塵。出行何処現清身。」是が七首中の第七の前半である。去つて茶店に憩へば、偶《たま/\》鈴木玄仙の来るに会した。「籃輿渓畔空帰去。忽漫相逢旧社人。」是が第七の後半である。
 樵※[#「土へん+敦」、第3水準1−15−63]は蘭軒門人録に「天野道周、横須賀」がある。恐くは其人であらう。玄仙は詩に「旧社人」と称してある。或は曾て門下にあつた人か。門人録中鈴木氏のものは、唯一の「鈴木杉渓」あるのみである。
 四月十三日には蘭軒が又上野仙駕亭の詩会を催した。その作る所には宿題「朝起掃園」五律一、「擬破戎凱歌」の七絶一、席上題「池亭雨望」の七律一がある。想ふに十三日は雨の日であつただらう。「十里池塘雨色濃。笠蓑探興滌心胸。」
 此月蘭軒に柳絮《りうじよ》の七絶五首がある。丸山の家には啻《たゞ》に桜を栽ゑたのみではなく、又柳を栽ゑた。柳は文政五年に栽ゑたのである。「小園栽柳六年過。未有飛綿今歳多。」又。「四月園林雪驟飄。驀然見※[#「日+見」、第4水準2−14−1]未曾消。」見※[#「日+見」、第4水準2−14−1]《けんてん》は詩の小雅より取つた語である。

     その百七十九

 蘭軒は此年文政十年四月に又岡田華陽のために「脈式」の序を作つた。華陽は典薬頭《てんやくのかみ》半井景雲《なからゐけいうん》の門人で、蕨駅《わらびえき》に住んでゐた。蘭軒は「為人沈退実著、愛間好学、不敢入城都」と云つて、著す所の書を列挙してゐる。書名中に「薬方分量考」がある。日本医学史の医書目録に「続薬方分量考、岡田静宅撰、一巻、文化十年」がある。未だ人と書との同異を詳にしない。脈式の序は末に「文政丁亥清和月伊沢信恬記」と署してある。
 五月十三日には詩会が上野仙駕亭に催された。蘭軒に宿題「送人遊玉函山」、「牧牛図」の七絶各一、席上課題「山荘茶宴」の七律一がある。「春尽前一日」の遊より此に至るまでの詩は、柏軒が浄書してゐる。狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の箋註《せんちゆう》和名鈔は此月五日に脱稿した。
 六月十七日仙駕亭会の宿題は「望岳」、席上
前へ 次へ
全114ページ中57ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング