時盛に行はれたと見える。
 桜花の時節になつてから、蘭軒は七古の「芳桜歌」を作つた。前年斎藤某に乞ひ得た木が花を著けたのである。「二十四番花次第。今年待信異常年。時惟三月一旬来。暁雨初晴無点埃。早起南軒斟茗坐。樹梢先見花新開。」歌行《かかう》は進んで吉野桜の特色を称へてゐる。「此桜疎瓣且短鬚。仙姿潔素自高標。是為短鬚無雨宿。更因疎瓣免風撩。盛時之永勝凡品。応識英名冠国朝。」蘭軒は此より居る所を芳桜《はうあう》書院と曰つた。後其法諡を芳桜軒と曰つたのも、生前此花を愛好したためである。
 蘭軒は此花のために題詠を諸家に求めた。茶山の詩幅は今猶|徳《めぐむ》さんの許にある。「伊沢仁友移芳野桜栽索詩。一遊芳野足誇人。況得移栽作席珍。半径幽香千嶺雪。一枝清影万株春。菅晋帥。」集には「移栽」を「花栽」に作つてある。起句に花木等の字面が無いので改めたのであらう。

     その百七十三

 これも亦此年文政九年三月の初であつただらう。蘭軒は井戸翁助の家に招かれて桜を看た。井戸は後蘭軒の女婿となるべき人である。
 井戸の家は寛永以来の幕臣であつた。「井戸翁助宅看桜。其先寛永中始仕大府。賜宅於此地。至君已六世。」詩は七絶二首である。其後者の後半に、「経年二百凌霜雪、春色異他妖艶叢」と云つてある。
 蘭軒が詩会を草堂より余所へ持ち出すことは前年に一たび歇《や》んでゐて、此三月に又旧に復した。「三月十三日篠池清香亭席上」の詩がある。題は「春陰」で、体は五律である。
 次で十六日に蘭軒は向島に遊んだ。「三月十六日与狩谷少卿、渋江子長、森立夫及児重、同遊墨水。途中遇雨。」少卿は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の子|懐之《くわいし》である。子長《しちやう》は抽斎|全善《かねよし》、立夫《りつふ》は枳園立之《きゑんりつし》、並に年少の門人である。重《ちよう》は三男柏軒である。五律の五六に「投老心雖懶、逢春興自繁」と云つてある。
 十七日に蘭軒は夏時|韈《べつ》を着くることを乞うて、十日の後に允《ゆる》された。勤向覚書の文に曰く。「同年三月十七日左之願書付差出置候処、同月廿七日願之通勝手次第と平助殿被仰渡候。口上之覚。私儀足痛所御座候に付、不出来之節は夏中足袋相用申度奉願上候。右之趣宜敷被仰達可被下候以上。三月。伊沢辞安。但粘入半切上包半紙折懸上に名計。」是が覚書の最後の記載である。
 覚書の載《の》する所にして、此に至るまでわたくしの全く取らずに置いたのは、門人に関する事である。所謂内弟子の出入《でいり》は皆藩主の認可を経たものである。覚書には凡七人の名が見えてゐる。曰|安西了益《あんざいれうえき》。父を外記《げき》と云ふ。豊前の人である。曰中野|貞純《ていじゆん》。父養庵は井上筑後守|正滝《まさたき》の医官である。井上は下総国高岡の城主である。門人録に純を「順」に作つてあるが、蘭軒は純と書してゐる。曰河村|元監《げんかん》。父を意作《いさく》と云ふ。門人録に「藩」と註してあるから、阿部家の臣であらう。曰酒井|安清《あんせい》。小川吉右衛門の甥である。小川は常陸国府中の城主松平播磨守|頼説《よりのぶ》の臣である。曰小林玄端。出羽山形の人である。門人録に「後塩田楊庵、対州」と註してある。又端が「瑞」に作つてある。塩田氏の云ふを聞くに、父が玄端、子が玄瑞ださうである。然らば蘭軒の誤記であらう。曰多々良|敬徳《けいとく》。父を玄達と云ふ。四谷の住人である。門人録に「後文達、江戸」と註してある。字《あざな》を辨夫《べんふ》と云つたのが此人であらう。曰天野|道周《だうしう》。遠江国横須賀の城主西尾隠岐守|忠善《たゞよし》の臣である。
 夏に入つて四月十三日の詩会が入谷村旭升亭に催された。宿題は「山中首夏」で、蘭軒は五絶五首を作つた。席上の詩は「夏日田園雑興」の七絶二首であつた。
 此月蘭軒は「呉刻中蔵経跋」を作つた。清舶《しんぱく》載せ来る所の中蔵経に、周錫※[#「王+贊」、第3水準1−88−37]本《しうせきさんぼん》と孫星衍本《そんせいえんぼん》との二種がある。並に元人抄本に拠るもので僅に一巻を成してゐる。然るに宋代には別に扁鵲《へんじやく》中蔵経と云ふものがあつて、後人がこれを上《かみ》に云ふ所の中蔵経に併せ、分《わかつ》て八巻となした。呉勉学《ごべんがく》の刻する所の中蔵経が即是である。その宋時の古文を包容してゐることは、丁香散《ちやうかうさん》を載するを以て知られる。丁香散は朱肱《しゆこう》が活人書《くわつじんしよ》に、扁鵲中蔵経を引いて載せ、周孫等はこれを載せない。蘭軒が呉氏の八巻本に取ることある所以である。

     その百七十四

 蘭軒は此年丙戌の五月十三日に重て入谷村の旭升亭に会した。宿題は「夏菊」で、※[#「くさかんむり/姦」、7巻−341−下−9]斎詩集には七絶一首が載せてある。
 秋には集中僅に五律一首があるのみである。「九月二日集長泉寺」の作が是である。
 九月に蘭軒は「活人指掌方跋」を作つた。按ずるに活人指掌方《くわつじんししやうはう》とは熊宗立《ゆうそうりつ》の「活人書括指掌図論」である。此書は宋の李知先《りちせん》の「歌括証論」と元の呉恕《ごじよ》の「指掌図式」とを合併したもので、其著者を熊宗立と曰ふ。蘭軒は熊の為す所を喜ばなかつた。「李為宋乾道中人、呉為元至元中人、熊氏妄混体裁、恣換書名、遂使後学不能見其原、復何無忌憚」と云つてゐる。此書に別に「大乗居士校本」と云ふものがある。蘭軒はこれを悪《にく》むこと最甚だしく、此跋の末にかう云つてゐる。「世又有一種大乗居士校本。据熊氏本。間加以陶節菴論説。去旧弥遠。而乱糅極矣。不存而可。」
 冬の詩は集に二首ある。其一は蘭軒の祖父信政の妻《さい》の里方、菓子商大久保|主水《もんど》が寿筵の詩である。「大久保五岳忠宜。今歳華甲。仲冬七日。開宴会客。諸彦祝以亀寿鶴齢之章。其詞金玉満堂。如余瓦礫之言。固不可混其間。然不能無言。聊賦一絶。述翁有松柏後彫之質云。」此詩引は諷刺の意が寓してあるのではないかと疑ふ。詩は略する。其二は「篠池千賀亭宿題」の詩で、「冬日朝起」を題として居る。千賀亭集は其日を詳《つまびらか》にしない。
 此年阿部家に代替《だいがはり》があつた。棕軒正精《そうけんまさきよ》は六月二十日に卒して、子|正寧《まさやす》が家を継いだ。菅茶山の「除日」の詩に、「頑仙堪恥亦堪喜、及見今公行部時」と云つてある。是より先茶山は十二月二十二日に正寧に謁して物を賜はつた。次年に蘭軒に与へた書に、「君公御入国に而《て》一度めされ候時病気に而御断申上候、其のち又めされ御居間にて御酒頂戴、かへりには御盃、筆墨箋、たばこ入をいただき候、十二月廿二日也」と云つてある。詩集にも亦一絶が見えてゐる。「十二月廿二日始謁公、賜酒食及菓子諸文具等。熊車行部市朝歓。政見江山瑞気攅。敢謂荒村樵父伴。近攀綺席侍杯盤。」
 茶山の再び妻を喪《うしな》つたのも亦此年である。行状に「配内海氏早亡、継室門田氏有内助之方、先歿、年七十、無子」と云つてある。集に悼亡の詩三首があつて、中に「久托衰躬只一妻、奈何老鶴乍孤棲」の句がある。
 頼氏では山陽の妹十が此年に歿した。「忽得凶音読復疑。秋前猶有寄兄詞。」田能村竹田《たのむらちくでん》が杏坪《きやうへい》の老いて益|壮《さかん》なる状を記したのは此年である。「先生今年年七十二、神明不衰、声容ますます壮なり。藝藩にて四郡の郡奉行となり、所管凡八万石許なり。其旁に藝州志の纂述を命ぜられ、毎暁寅の時に盥漱して端坐し、辰時迄に其日の公私の事務を計画し、其後に飯して、夫より終日出勤し、役務を取さばき、少しも倦事なし。且其ひまにも詩を作り歌を咏じ、亦一日十数首に下らずと云ふ。」
 此年三月に亀田鵬斎が七十五歳にして歿し、八月に市野迷庵が六十二歳にして歿した。二人皆中風である。
 蘭軒一家の此年の齢は主人五十、妻益四十四、榛軒二十三、常三郎二十二、柏軒十七、長十三であつた。

     その百七十五

 文政十年の元旦には、※[#「くさかんむり/姦」、7巻−343−下−1]斎詩集に七絶一首がある。「丁亥元日、客歳冬暖、園中梅柳、頗有春色、故詩中及之。梅已含香柳帯烟。杪冬猶是属蕭然。春風先自融人意。方道今朝草樹妍。」江戸は冬以来|暖《あたゝか》であつたと見える。菅茶山は備後にあつて、此歳首に多く自己の身上に就いて語を著けてゐる。「馬歯今朝八十盈、回首志業一無成」と云ひ、又「臥痾恨欠拝新正、無奈衰躬負我情」と云つてゐる。皆人をして其衰況を想はしむる語である。
 九日の草堂集には蘭軒が七律一首を得た。題の下に「示社中諸子及二児」と註してある。
 後に引くべき生日後の尺牘断片に、茶山はかう云つてゐる。「正月十一日(阿部侯|正寧《まさやす》の館《たち》に)罷出候。御手のし頂戴は相すみ、又御目通に出よとのこと、さむさはさむし、腹はつかへる、御断申帰候。」亦「無奈衰躬負我情」の句の註脚とすべきものである。
 二十五日に茶山は蘭軒に書を寄せた。書は文淵堂の花天月地《くわてんげつち》中にある。本文は代筆で、首尾両端と行間とに自筆の書入がある。本文。「新年の御慶重畳申収候。尊家愈御安祥御迎被成候覧奉恭賀候。私無事越年仕候乍憚御安意可被成下候。右年甫御祝辞申上度如此に御座候。恐惶謹言。正月廿五日。菅太仲晋帥。伊沢辞安様侍史。」此中「晋帥」の二字だけが茶山の自署である。此より自筆の書入を写し出すことゝする。「尚々私も追々と老耄、手もすこし宛《づゝ》かなはぬやうになり候故、本文代筆に候。真平御免可被下候。吾兄も年よればかくなり候を思召、とかく御|保重《ほぢゆう》専一に候。必々耳をとめて御きき可被下候。令郎がた次第に御成立推量仕候。凡《すべて》令内様令郎二位へ宜奉願上候。直卿《ちよくけい》はなしにて聞けば、詩会連月打つづき、風流御境界之由羨敷奉存候。六右衛門古庵様折ふし見え候半《さふらはむ》と推察仕候。御次《おんついで》に宜奉願上候。市川はいかが、折ふし参られ候哉、近比杳然に候。宜奉願上候。年内つくり候一首、歳首二章|汚電候《をでんしそろ》。御一笑可被下候。これは直卿参り候はば御見せ可被下候。見せよと申参候。石田町の内へ移居のよし、隠者もさびしきものと見え候。書状御届奉願上候。玄間兄弟へ宜奉願上候。一々書状遣候ても、多用の人を攪撩《かくれう》いたし候半と存さしひかへ申候。いはぬはいふにいやまさると申こと御つたへ可被下候。服部兄いかが、今は劇職のよし、たび/\見え申まじく候。参られ候はば宜奉願上候。かへす/″\も令郎様へ宜御申可被下候。月事《げつじ》の姫へも。」
 紙上自筆の文字を見るに、茶山は未だ必ずしも尺牘を作るに人を倩《やと》はなくてはならぬ程衰へてはゐなかつた。只新年を賀する書を作らうとおもひ立つアンピユルシイウな力に乏しかつたものと見える。さて人に書かせて見れば、それに満足することは出来なかつた。茶山は本文に数倍する細註を加へた。
 此書に添へた前年丙戌の詩はいづれの詩なることを知らない。歳首の二篇は集に「元日二首、丁亥」と題する作で、上《かみ》にわたくしの句を摘んだものと同じである。

     その百七十六

 菅茶山の丁亥歳首の書には、蘭軒の家族四人を除く外八人の名が見えてゐる。茶山は蘭軒の妻益、其子榛軒柏軒を筆に上《のぼ》せて、単に「宜奉顧上候」と云ふに過ぎぬが、其中榛柏二子の名をば三たびまで書して慇懃を極めてゐる。且其成長の状を想ふとも云つてゐる。最奇とすべきは書中に所謂「月事の姫」である。按ずるに是は蘭軒の女《ぢよ》長《ちやう》を斥《さ》して言つたものである。父蘭軒は前に書を茶山に寄せた時、何かの次《ついで》に長が身上に説き及んで、天癸《てんき》の新に至つたことを告げたのであらう。長は是年十四であつた。
 他の八人中先出でてゐるものは第一、牧黙庵《まきもくあん》の「直卿」である。黙庵は当時江戸にゐた。そして書を茶山に寄せて丙戌以後蘭軒が頻に詩会を催して少年子弟を誘掖することを
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