花柳春如錦。子欲行遊何得為。割愛自今付与子。灌培莫懈期花時。」
 わたくしは苗木を吉野より齎し帰つた風流の旧主人の其氏をだに伝へず、又已に長じた木を蘭軒に贈つた「清淡且仁慈」なる斎藤氏の其名字を留めざるを憾《うら》む。浜野氏の故老に聞く所に拠れば、蘭軒の家の東隣は斎藤貞兵衛と云ふ士の住ひであつたと云ふ。或は其人ではなからうか。按ずるに伊沢氏の園内には初より桜が多かつた。此吉野桜は其中に植ゑ添へられたのである。「園樹従前桜最多」の句が歌中にある。
 冬に入つて十月十三日に蘭軒は詩会を家に催した。此より静宜亭集に代ふるに草堂集を以てしたらしい。推するに病める蘭軒は数《しば/\》駕を命ずることの煩はしきに堪へなかつたのであらう。十月の詩は「蘆花、十月十三日草堂宿題」一、「侠客行、同上」一、「池亭冬晴、同日席上」一である。
 十一月の草堂集は十六日に催された。「賦得人跡板橋霜、次犬冢印南先生遺稿之韻、十一月十六日草堂宿題」の七絶があつて、次に「書懐、印南先生卒後十三年於此矣、十一月十六日草堂小集、因賦此詩」の七律がある。印南は文化十年十一月十二日に歿したのである。わたくしは此に其伝記を補ふべき後の一首を録する。
「木王園裏老先生。一去英魂托両楹。享保変音詩始密。昌平督学誌新成。嘗従蓮社観秋水。更附仙舟尋晩桜。十載休為離索歎。旧游聊此不寒盟。」第一の下《しも》に「先生園有梓、因名」と註してある。木王園《もくわうゑん》の木王は梓《あづさ》であつた。※[#「土へん+卑」、第3水準1−15−49]雅《ひが》に所謂「梓為百木長、故呼梓為木王」であつた。第三の下に「近来詩風盛宗宋人、先生実為嚆矢」と註し、第四の下に「先生壮年在昌平学、為都講、因撰昌平志廿巻献之、幕府大有恩賜云」と註し、第五の下に「一日信恬従先生避暑於墨水東江寺」と註し、第六の下に「又首夏陪先生及菅茶山、墨水泛舟」と註してある。東江寺の遊は、蘭軒に詩が無かつたので、その何《いづ》れの時なるを知ることが出来ない。

     その百七十

 此年文政八年十二月十一日に菅茶山が書を蘭軒に与へた。此書の初の数行は、巻紙の継目より糊離がしてゐる。巻紙は黄と赤との紙を交互に継ぎ合せたものと覚しく、茶山が此頃此の如き紙を用ゐたことは、他の簡牘に徴しても知られる。此一通は伊沢信平さんの蔵する所である。
 書牘の最初の三行は所謂|尚々書《なほ/\がき》である。第四行は即ち本文の第一行で、上半は後の黄紙《くわうし》に、下半は前の赤紙《せきし》に書かれてゐる。今接合して読んで見る。
「近報御状高作とも被下、御近状も審承《しんしよう》大慶仕候。近比は御酒よほどいけ候よし奉賀候。私は限をたて、一滴も過し不申候。とかく老耄にこまり申候て、詩歌等も出来不申、咄かけし事を中途にわすれ申候程の事に候。」
「今年は十一月迄は暖に候処、小寒入より祁寒《きかん》、雪もなくて只々さむく候。御地いかが。皆様御あたりも無之候哉。尊内、令郎様方、おさよどのへも宜奉願上候。」
「私宅老妻は無事、お敬《きやう》とかく煩《わずらひ》申候。夏も秋もさむく候。此比《このころ》楊皮《やうひ》(蕃名《ばんめい》キヤキヤとか申候)柴胡《さいこ》鼈甲等入候和解之剤たべゐ申候。堯佐妻《げうささい》もと無病人《むびやうじん》、寒邪に而《て》壮熱、其のち腹痛等にて打臥候。右之仕合、書状も不詳悉《しやうしつせず》候。御免可被下候。」
「令郎様方風気同上、足下之吉祥善事|莫過之《これにすぐるはなく》候。」
「津軽翁いかが。西遊ももはや四五年になり候へば、長崎の行被思召立候様御すすめ可被下候。去年今年はよき唐人来泊、朱柳橋《しゆりうけう》はよほどの学者、沈綺泉《ちんきせん》は和語にも通じ候。其余十人|許《ばかり》もよき人来候。江芸閣陸品《こううんかくりくひん》三などは底へ沈み候よし。しかし時により集り候こともあり、又一人も識字のものゐぬ時も候よし。都下へ通事一人めされ在番いたし候よし、訳司中之学者と承候。私方へも片時立より申候。いかなる処に居候哉。御逢も被成候哉。」
「種々可申上こと多候。凍筆病腕《とうひつびやうわん》これきりにやめ候。扨余りみじかく候。御保重御迎春可被成候。恐惶謹言。嘉平月十一日。菅太中晋帥。伊沢辞安様。」
「苦寒二首。」(これは書生の詩会の題にてふとつくりたる也。)「東嶺日方升。不聞凍雀声。門前過汲婦。屐歯響※[#「石+徑のつくり」、7巻−335−下−2]※[#「石+徑のつくり」、7巻−335−下−2]。」「無風雲尚行。窓紙明還晦。童子欲烹茶。渓冰敲不砕。」「御一笑可被下候。」
「古庵様はじめ奉り市野津軽へ宜御致声可被下候。」
「服部折ふし御見え候哉。これへも宜奉願上候。」
「尚々松崎は作家也。吐舌《したをはき》申候。私も一面識也。御会合の序《ついで》宜奉願上候。山名文よく出来候。これへも宜御致声可被下候。」
 此書牘中最も読み難い文字は五絶二首中前の詩の「雀」字の上の一字である。「手」に从ふ字の如くである。「凍」字はわたくしが姑《しばら》く填《うづ》めたに過ぎない。二首共に遺稿乙酉の詩中には見えない。
「風気」は往々文選中に見えてゐる語である。「同上」の「上」は上声《じやうしやう》に読むべきであらうか。字を識る人の教を乞ふ。

     その百七十一

 上《かみ》に引いた菅茶山の十二月十一日の書牘が、此年文政八年のものだと云ふことは、主に狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の「西遊ももはや四五年」になつてゐると云ふより推定した。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の西遊は辛巳であつた。辛巳より算すれば此年乙酉は第五年、西遊の次年壬午より算すれば第四年である。
 書中には七十八歳の茶山が自ら衰況を語つてゐる。「咄かけし事を中途にわすれ申候程の事に候。」菅氏は此頃多事であつたので、手紙を書くことも怠り勝であつた。先づ茶山をして心を労せしむるのは姪女《てつぢよ》敬《きやう》の病であつた。敬は二年前に江戸に於て夫北条霞亭を喪ひ、幼女とらを率《ゐ》て神辺《かんなべ》に帰り、前年の秋に又其幼女をさへ喪つた。「とかく煩申候。夏も秋もさむく候。」敬の服する方剤の中に楊皮と云ふものがある。「蕃名キヤキヤとか申候」と註してある。是は今謂ふ規那皮《キナひ》であらう。本米国の土語キナキナは樹皮中の樹皮の義で、西班牙《スパニア》人が欧洲に伝へ、和蘭《オランダ》人が我国に伝へた。キヤキヤは当時の蘭名キンキナの転訛《てんくわ》であらう。敬の病は医家の規那煎《キナせん》を用ゐさうな病であつた。敬は書中に見えた人物の第一である。
 第二に「堯佐妻」が書中に見えてゐる。此女も病に臥してゐた。わたくしは門田《もんでん》氏の事を詳《つまびらか》にしない。浜野知三郎、福田禄太郎二家の言《こと》に拠るに、茶山の継室門田|伝内政峰《でんないせいほう》の長女に妹があつて、備後国|安那郡《やすなごほり》百谷《ももたに》村の山手《やまて》八右衛門重武に嫁した。此女は八右衛門の歿後に里方|法成寺《ほじやうじ》村の門田氏に帰り、男子《なんし》一人は孤《みなしご》となつて門田|政周《せいしう》に養はれ、其子儀右衛門|政賚《せいらい》の弟にせられた。此男子が名は重隣《しげちか》、字《あざな》は堯佐《げうすけ》、号は朴斎、小字《せうじ》は小三郎又正三郎である。長ずるに及んで字を以て行はれた。朴斎は幼にして茶山の門に入り、既にして其養子にせられた。浜野氏所蔵の「朴斎詩鈔初編」に拠るに、朴斎は文政庚辰より丁亥に至る八年間、菅氏の養子になつてゐた。茶山は恐らくは朴斎をして菅三が長ずるまでの中継たらしめむとしたのであらう。これをして頼山陽、北条霞亭の後を襲《つ》がしめむとしたのであらう。朴斎は寛政九年二月十八日生だから、此年二十九歳になつてゐた筈である。わたくしは朴斎が妻と倶に茶山の許にゐたものと解する。妻は備中国|成羽《なりは》の医岡伯庵の女《ぢよ》で、名を静と云つたと、田辺|晋子《しんし》さんが語つた。
 第三の書中の人物は「津軽翁」即狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎である。茶山は蘭軒をして又※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に長崎の遊を勧めしめようとした。茶山の言《こと》は長崎にある新旧の清客に及び、又|舌人《ぜつじん》に及んだ。清客には第四江、第五陸、第六朱、第七沈の四人の名が出でてゐる。其名字等は津田繁二さんを煩はして、後に補入しようとおもふ。当時江戸にめされてゐた訳司中の学者はその何人《なんひと》なるを知らない。「長崎年表」にも此事は載せてない。
 書中の他の人物は、茶山が蘭軒に「致声」を托したに過ぎない。第八市野迷庵、第九余語古庵は斥《さ》す所が明白である。第十服都某は※[#「くさかんむり/姦」、7巻−337−下−5]斎集の栗陰《りついん》か。第十一松崎某は茶山が其詩を賞してゐる。恐くは慊堂《かうだう》であらう。第十二山名某は茶山がその文を善くすることを言つてゐる。此人は未詳である。
 十二月二十三日には蘭軒が医術申合会頭たる故を以て賞を受けた。勤向覚書の文は例に依つて省《はぶ》く。
 此年冬の蘭軒の詩は、既に十月十三日詩会の宿題二、席上一、十一月十六日の宿題一、同日作の懐印南一、以上五首あることを言つた。剰《あま》す所は「冬日過北堤」、「歳晩即事」の二首のみである。
 歳晩即事は蘭軒の履歴に略すべからざる詩である。それは阿部|正精《まさきよ》が蘭軒にゴロフクレンの服を与へた事を紀するものだからである。「今歳寒威殊栗烈。病夫況復及衰躬、抃忻恩賜防冬服。奇暖賽春鎖幅絨。」註に「鎖幅絨西洋所齎、称我魯扶古連者」と云つてある。蘭語グロフ、グレンは粗駝毛絨《そだまうじゆう》の義ださうである。

     その百七十二

 備後では此年文政八年の暮に、菅茶山が「歳杪雑詩」の五律三首を作り、又除夜に始て雪がふつたので「除夜雪」の五律を作つた。「今年未逢雪、此日始模糊。」
 菅氏には此年特に記すべき事が無い。強て求むれば十月既望頼山陽の訪問である。即ち事は頼氏に連《つらな》つてゐる。頼氏では三月に山陽の次男辰蔵が六歳にして夭した。「幻華一現暫娯目、造物戯人何獪哉。」しかし五月に至つて四男|三木《みき》八が生れた。後の三樹三郎醇《みきさぶらうじゆん》である。山陽は母|梅※[#「風にょう+思」、第4水準2−92−36]《ばいし》に「辰のかはり」が出来たと報じた。山陽の子は三男|復《ふく》と此醇とが人と成つた。九月には竹原にある叔父春風が歿した。辰の痘を病んで死する時、京都に来合せてゐたのが、叔姪《しゆくてつ》の別であつた。山陽は展墓のために竹原に往つて、帰途に廉塾を過《よぎ》つたのである。茶山は「南阮有喪雖可悼、北堂無恙亦堪歌」と云ひ、山陽は「吾曹更誰望、父執有君存」と云つてゐる。
 此年蘭軒は四十九歳であつた。家族は妻益四十三、子女榛軒二十二、柏軒十六、長十二であつた。
 文政九年の元日は江戸が雪の日であつた。蘭軒の詩に「丙戌元日作、此日雪」と題してある。「臘酒醺然猶未除。陽春白雪愛吾廬。銀鈴竹裏鏘鏘響。玉杖柳辺耀耀舒。風字硯奇貧亦買。羊毫筆美拙能書。正元尤喜逢豊兆。吟種今年定有余。」頷聯に「此日雪景頗奇、銀鈴玉杖並実際所見、非倣銀海玉楼之顰」の註、頸聯に「二物客歳所得、此日始試」の註がある。神辺は此日|晴暄《せいけん》で雪が融《と》けかかつてゐた。「檐角有声晴已滴。池心不凍午成漣。」是が茶山の詩の三四である。其五六は「十千美酒酬三朔、八秩衰骸少一年」である。
 茶山が元日の詩に年歯を点出した如くに、九日の蘭軒の作に「日々只宜開口笑、生年五十未知非」の句がある。例の「豆日草堂集」の七絶の転結である。
 二月十三日に蘭軒は岸本|由豆流《ゆづる》の向島の別荘に招かれた。其日は薄曇の日であつた。三絶句の其一に「不妨鳩語頻呼雨、恰是軽陰宜看梅」の句がある。蘭軒は途中百花園に立ち寄つて梅を看た。「白玉有瑕真可惜、俗人題句繋枝頭。」紙片を枝に繋ぐ習が当
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