余語古庵、寄合御医師、五百石、本郷御弓町」の一人が見えてゐるのみである。此より後の武鑑には同名、同禄、同住所の人が奥詰医師となり、奥医師となつてゐる。わたくしは此家の系譜伝記を見ぬので、天錫《てんせき》の誰の字《あざな》なるを詳《つまびらか》にしない。
弟潤三郎はこれを読んで、駒込竜光寺に余語氏の塋域のあることを報じてくれた。弟は第一「法眼古庵余語先生墓、元禄八乙亥年三月十九日卒、孝子元善建、」第二「現寿堂法眼瑞善先生余語君墓、享保二十年七月十五日卒、年七十二歳、」第三「天寧斎余語古庵先生墓、安永七年八月二十二日卒、七十歳、」第四「拙存斎、文化十一年四月四日卒去、六十二歳、」第五「蔵修斎前侍医瑞典法眼余語君墓、嘉永元戊申四月十日」の五墓を見た。そして天錫は或は瑞典かと云つてゐる。弟の書には竜光寺境内の図があつて、余語の塋域は群墓の中央にある。わたくしの曾て訪うた安井息軒の冢子《ちようし》朝隆《てうりう》と其妻との墓の辺である。程近い寺だから、直に往つて観た。余語氏の諸墓は果して安井夫妻の墓の隣にあつた。しかし今存してゐるものは第四第五の二石のみで、第四には「拙存斎余吾良仙瑞成先生墓」と題してある。第一第二第三の三石は既に除き去られたのであらう。天錫の事は姑《しばら》く弟の説に従つて置く。
高橋静覧も亦不詳である。門人録に「高橋宗朔、宗春門人、岩城平」と「高橋玄貞、弘前」との二人がある。宗春は同書に「横田宗禎、宗春子」とあるより推すに、或は横田宗春であらうか。按ずるに静覧は宗朔若くは玄貞の字《あざな》ではなからうか。
「横田万年叔宗橘」の文は句読に疑がある。「万年之叔宗橘」一人か、又「万年及其叔宗橘」か決し難い。門人録には「横田宗橘、高通健、通渓早死に付跡目」とあり、又通渓は「高通渓、横田宗禎弟、亀山」とある。わたくしは此に門人録の原文を引くに止めて置く。此簡約の語に由つて一の断案を下さむことは、余に危険だからである。
酒井|安清《あんせい》は全く他書には見えない。門人録は一の酒井氏をも載せない。
多良辨夫《たらべんふ》は或は敬徳の字《あざな》であらう。門人録に「多多良敬徳、後文達、江戸」と記してある。
夏に入つて、四月十三日に蘭軒が再び静宜亭に詩会を催したらしい。「山斎牡丹、四月十三日静宜亭宿題」の七絶一首がある。其次に「夏意、席上分韻」の七律一首がある。席上とは四月十三日の席上であらう。
五月十三日には三たび静宜亭に会したらしい。「栽竹、五月十三日静宜亭宿題」の五律二首、「関帝図、同上」の七絶一首、「晨起、席上分韻」の七絶二首がある。
六月十三日には四たび静宜亭に会したらしい。「老婦歎鏡、六月十三日静宜亭宿題」「打魚、同上」「観蓮、同上」の七絶各一首がある。山斎牡丹《さんさいのぼたん》以下十首の詩は省《はぶ》く。
十四日には程近き長泉寺に遊んだ。「六月十四日、長泉寺避暑、寺在丸山、往昔元禄中、隠士戸田茂睡、老居此地、園植梨数十株、今有梨坂。梨花坂北有松門。涼籟吹衣到祇園。清浄心他山翠色。安禅坐是石苔痕。幽禽境静猶親客。炎日樹喬不入軒。方識昔時高尚士。卜隣此地避塵喧。」
晦《つごもり》には墨田川に遊んだ。「六月晦日墨水即事」の七絶がある。詩は省く。以上夏の詩十七首中、わたくしは二首を取つた。別に「即事」一、「題画」二の七絶があつて、並に製作の日を載せない。
秋に入つて、蘭軒は七月七日に友を家に会した。「七夕小集」の七絶に「茅亭亦有諸彦会」の句がある。
八月十三日に蘭軒は五たび静宜亭に会したらしい。「友人園中巌桂頗多、因乞一株、八月十三日静宜亭宿題、」「観濤、同上、」「村醸新熟、静宜亭席上」の七絶、七律、五律各一がある。詩は省く。
その百六十七
此年文政八年八月十五日に蘭軒は「中秋新晴」の詩を作つた。「連日関心風雨声。今宵忽漫報新晴。満園露気秋蕭灑。月自桂叢香裏生。」按ずるに桂とは巌桂《がんけい》を謂ふのであらう。二日前の静宜亭の会に、友人が多く巌桂を栽ゑてゐるので、其一株を乞うたと云ふ宿題が出でてゐた。わたくしは此詩を見て、彼題の蘭軒の出したものなるを知り、又彼会の蘭軒の主催に係ることを知る。来会者に蘭軒の門人多き所以である。巌桂は木犀である。蘭軒は此中秋に新に移植した木犀の木間《このま》の月を賞したのである。
此中秋は備後も亦|新晴《しんせい》であつた。菅茶山の五古の引はかうである。「乙酉中秋。霖後月殊佳。数日前湯正平至自江戸。説蠣崎公子在病蓐。因賦寄問。且告近況。兼呈花亭月堂二君。」湯正平《たうせいへい》は何人《なにひと》なるを知らぬが、新に神辺《かんなべ》に来て、蠣崎波響《かきざきはきやう》の江戸に病んでゐることを告げた。波響五十五歳の時である。茶山は波響と岡本花亭、田内月堂の二人とに寄示せむがために詩を作つたのである。
八月の初に備後は淫雨であつた。「比来頻苦雨、不望半秋晴。」十四日にも雨が劇《はげ》しかつたが、午後に至つて忽ち晴れた。「昨朝勢逾猛。半日屋建※[#「令+瓦」、7巻−329−下−1]。秋鳩忽数語。返照射前楹。」其夜は北風が雲を駆つて奔《はし》らしめ、明月が雲の絶間に見えた。「昨夜風自北。月泝走雲行。時当雲断処。光彩一倍生。」かくて十五夜に至ると、天は全く晴れて、些《ちと》の翳《くもり》の月の面輪を掠むるものだに無かつたので、茶山は夜もすがら池を繞《めぐ》つて月を翫《もてあそ》んだ。「今夜無繊翳。不覩星漢横。興来繞池歩。月在水心停。」
茶山は花亭月堂等が江戸にあつて同じ月を賞する状《さま》を思ひ遣つた。「不知東関外。得否此晶瑩。携酒誰家楼。泊舟何処汀。如見歓笑態。宛聞諷詠声。」そして病後の波響を憫んだ。「近伝張公子。臥病坐環屏。新起雖怯冷。或能倚窓櫺。憶昔椋湖泛。緇素会同盟。如今独君在。余子尽墳塋。孤尊斟砕璧。能不動旧情。」
椋湖《りやうこ》は巨椋《おほくら》の池であらう。茶山が波響と小倉附近に遊んだのは、恐くは二人が始て京都に於て交《まじはり》を訂した寛政初年の秋であつただらう。同じく舟を椋湖に泛べた緇素《しそ》とは誰々か。わたくしは茶山集の初編を披《ひら》いて検した。寛政六年甲寅の中秋に、七絶三首があつて、引に「中秋与六如上人、蠣崎公子、伴蒿蹊、橘恵風、大原雲卿、同泛舟椋湖」と云つてある。前《さき》にわたくしは壬午「憶昔三章」の詩中「十一年後忽此歓」の句より推して、波響茶山の交を寛政五年に始まるとなしたが、実は六年であつた。甲子の再会は十一年後ではなくて、実は十年後であつた。
同遊六人の僧俗中先づ死んだのは六如《りくによ》である。享和元年三月十日に寂したから、二十四年前である。次は所謂|橘恵風《きつけいふう》である。宮川|春暉《しゆんき》、字《あざな》は恵風、橘姓、南谿と号した。歿日文化二年四月十日は二十年前である。次は文化三年七月二十六日に歿した伴蒿蹊《ばんかうけい》で、十九年前である。次は同七年五月十八日に歿した大原|呑響《どんきやう》で、十五年前である。「如今独君在、余子尽墳塋。」
以上記し畢つた後、寛政甲寅の遊には猶二人の同行者があつたことを知り得た。即ち米子虎《べいしこ》、松孟執《しようまうしふ》である。事は文政戊寅の詩引及己卯の詩註に見えてゐる。是は上田芳一郎さんの示教に由つて覆検した。
その百六十八
此年乙酉の八月十三日上野不忍池の上《ほとり》なる静宜亭に催された例会の席上の作と、中秋の作との中間に、※[#「くさかんむり/姦」、7巻−330−下−7]斎《かんさい》詩集は「送森島敦卿還福山」の七絶一首を載せてゐる。敦卿《とんけい》の下《しも》に樸忠《ぼくちゆう》と註してある。森島樸忠、字は敦卿である。
わたくしは浜野知三郎さんに質《たゞ》して、略《ほゞ》此人の事を詳《つまびらか》にすることを得た。森島氏は樸忠五世の祖|忠上《ちゆうしやう》の時阿部正次に仕へた。忠上は延宝八年に歿した。高祖を忠久と曰ふ。元禄十七年に歿した。曾祖を忠好と曰ふ。享保八年に歿した。祖父を忠州と曰ふ。明和五年に致仕した。父を忠寛と曰ふ。寛政七年に致仕した。樸忠は忠寛の二子にして立嫡《りつてき》の命を受けた。時に寛政三年十一月二十七日であつた。以上は由緒書に拠る。
樸忠の年齢には疑がある。樸忠の孫鶴岡耕雨さんの記する所を検するに、歿日を「弘化二午歳七月十日」と云つてある。弘化二年乙巳とすべきか、弘化三年丙午とすべきかに惑ふ。姑《しばら》く丙午を正しいとする。さて歿する時樸忠は年七十一であつたと云ふ。
此前提より由緒書を看るときは、下《しも》の樸忠の履歴が成り立つ。樸忠、字は敦卿、通称は金十郎である。安永五年に生れ、寛政三年十六歳にして父忠寛の嫡子にせられ、七年に二十歳にして「跡式二百三十石広間番」を拝した。此より後樸忠は下の諸職を命ぜられた。「享保元年使番。三年兼火事場目附。文化二年大目附箱掛。五年仕置定式掛。普請掛、除銀納方掛。七年韓使来聘時公儀役人通行用掛。八年者頭席。九年宮造営掛。十年郡奉行、兼寺社奉行、兼大目附、兼収納方吟味掛、兼宮用掛、兼箱掛。十一年郡中大割吟味掛、兼町奉行。十三年免大目附。文政元年番頭。五年用人格、用人。」
樸忠は用人として文政七年七月二十七日に「江戸在番」を仰附けられ、十月五日に「当暮若殿様御叙爵に付御用掛」にせられた。若殿は寛三郎|正寧《まさやす》である。十二月廿二日「右御用掛無滞相勤候に付銀二枚御酒御吸物被下置、」同日「若殿様へ干鯛一折奉指上、」東役の任務が畢《をは》つた。そこで八年乙酉中秋前後に、蘭軒は将《まさ》に福山に還らむとする樸忠がために詩を賦したのである。
蘭軒の詩に云く。「金言為贈非吾事。彩筆壮行別有人。偏想君経榛海路。荻花楓葉月明新。」此時樸忠は正に四十歳であつた。
八月二十七日の由緒書の文に、「帰郷之御目見御意拝領物」と云つてある。樸忠は秋のうちに福山に帰つたことであらう。
福山に帰つた後、樸忠は「城番席」を勤めてゐて、天保八年十月十三日に六十二歳にして致仕し、新五郎忠同が家を継いだ。しかし忠同は十年三月廿九日に父に先《さきだ》つて歿した。鶴岡氏の記する所に従へば、樸忠は我郷《わがきやう》の大国隆正、福羽|美静《よししづ》と相識つてゐたと云ふ。
※[#「くさかんむり/姦」、7巻−332−上−8]斎詩集の此秋の詩は凡《すべ》て十一首ある。七夕一、八月十三日静宜亭集宿題巌桂、観濤二、同席上|村醸新熟《そんぢやうしんじゆく》一、中秋一、送敦卿一、以上六首の末に、「遊仙曲」一首、九月二十三日静宜亭集の詩四首がある。此四首は宿題「塞下曲」一、「貴人郊荘菊叢盛開、就偸一賞」二、席上「鳴鹿」一である。静宜亭の詩会は此年四月に始まつて九月に終つた。
その百六十九
此年文政八年の秋には、蘭軒の家に猶一|事《じ》の記念すべきものがあつた。それは吉野山の桜を園内に移し植ゑたことである。蘭軒の識る人に斎藤某と云ふものがあつた。桜は本此斎藤氏の園中の木であつた。蘭軒はそれを乞ひ得て移し植ゑたのである。事は次年に作つた長古「芳桜歌」と其小引とに載せてある。惜むらくは其移植の月日が記してない。
初め小さい桜の木の苗を吉野山から齎し帰つて、これを江戸の邸宅の園内に植ゑたのは、斎藤氏の家の旧主人である。丙戌より五十年前だと云へば、安永中の事でなくてはならない。「斎藤氏園。有一桜樹。云旧主人得寸株於芳野而所栽。五十年於茲。殆已合抱。去秋余懇切乞之。遂移園中。」是が引の云ふ所である。
五十年の星霜を閲した「合抱」の木であつたから、これを移すのは容易な事ではなかつただらう。蘭軒の懇望のいかに切なりしかは、歌に「蜀望荊州方可想、秦求趙璧亦斯情」と云ふを以て知られる。蘭軒は初め言ふことを憚つたが、遂に意を決して乞うた。「言偏思巧未開口。策已将運猶畜胸。忽把破瓶迸水勢。断然切乞意方剛。」斎藤某は蘭軒の脚疾あるを憐んでこれを許した。「主人清淡且仁慈。莞笑頷之不敢辞。徐説愛花吾似子。但吾健歩子其痿。満城
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