所が猶三首ある。
「売冰図。堅冰六月浄※[#「王+隣のつくり」、第3水準1−88−25]々。叫売歩過入軟塵。応是仙霊投砕玉。活来熱閙幾場人。」売冰は何《いづれ》の国の風俗であらうか。当時の江戸に冰《こほり》を売るものがあつたか、どうかは不詳である。明治年間幾多の詩人は識らずして此詩を踏襲した。
「松琴楼題長谷川雪旦画松魚。」松琴楼《しようきんろう》は料理店|松金《まつきん》で、湯島天満宮境内、今の岩崎氏|控邸《ひかへやしき》の辺にあつた。此楼に上つて雪旦の松魚《かつを》の画に詩を題したのであらう。詩は略する。
夏の詩の最後の一首は松平|露姫《つゆひめ》の事に繋《かゝ》る。露姫は松平|縫殿頭定常《ぬひのかみさだつね》の女《むすめ》である。幼にして書画歌俳を善くした。二年前疱瘡に罹《かゝ》り、六歳にして夭した。蘭軒は其遺墨拓本を得て、これに詩を題したのである。
その百五十六
蘭軒の松平露姫の遺墨に題した詩には小引がある。「冠山老侯賜其令愛遺墨搨本。令愛齢僅六歳。吟意間雅。筆蹟婉美。頗驚人目。以文政壬午十一月廿七日夭。所謂梅花早発。不覩歳寒者哉。乃賦書中乾蝴蝶詩。謹書其末云。」書中|乾蝴蝶《かんこてふ》の詩はかうである。
「※[#「虫+夾」、第3水準1−91−54]蝶風前舞不休。粉金飜翅縦春遊。芳魂忽入芸牋裏。尚帯花香傍架頭。」
露姫の父|冠山定常《くわんざんさだつね》は佐藤一斎の門人である。一斎の「愛日楼文」は冠山が稿本を借鈔し、小泉侯遜斎片桐貞信の抄する所の詩と与《とも》に合刊《がふかん》したものである。書中に「跋阿露君哀詞巻」の一篇がある。わたくしは此にその叙実の段を抄出する。「冠山老侯之季女阿露君。生而聡慧。四五歳時。既如成人。届文政壬午十一月。以痘殤。齢六歳也。検篋笥。得遺蹟。上父君諫飲書一通。訣生母蔵頭和歌一首。訣傅女乳人和歌一首。題自画俳詞三首。又得一小冊子。手記遺戒数十百言。及和歌若干首。理致精詣。似有所得者。至於遺戒。往々語及家国事。亦誠可驚矣。既而事稍々伝播。聞之者無不驚異。而弔詞哀章。陸続駢至。老侯追悼之余。※[#「「衣」の「なべぶた」の下に「臼」を入れる」、第4水準2−88−19]而軸之。徴坦為跋。」一斎は此段に接するに議論を以てしてゐる。そしてかう云ふ断案を下した。「或者宇宙間至霊鬼神。姑憑是躯以洩気機者。究之。与夫木石而能言者之不可思議奚以異。而尚可待以人而詰以理乎哉。」
わたくしはこれを読んで、広瀬淡窓が神童を以て早熟の瓜《うり》となしたことを憶ひ出した。若し同一の論理を以て臨んだなら、露姫は温室の花であらう。これは常識の判断である。
一斎はこれに反して露姫の夙慧《しゆくけい》を「有物憑焉」となした。わたくしはペダンチツクに一斎の迷信を責めようとはしない。しかし心にその可憐の女児《ぢよじ》を木石視したるを憾《うらみ》とする。若し文章に活殺の権があるとするなら、一斎の此文は箇《こ》の好題目を殺了したと云はざることを得ない。
今わたくしの手許に「淡窓小品」が無いので、広瀬の文を引くことが出来ぬが、広瀬は禅家の口吻を以て常識を語つてゐた。然るに佐藤は道学者の語を以て怪を志《しる》してゐる。わたくしは此対照の奇に驚く。わたくしは早熟の瓜をも取らず、能言の木石をも取らない。わたくしは姑《しばら》く蘭軒の乾蝴蝶《かんこてふ》に与《くみ》して置かう。「芳魂忽入芸牋裏。尚帯花香傍架頭。」
秋は※[#「くさかんむり/姦」、7巻−309−下−9]斎《かんさい》集に詩四首がある。「秋夕書事三首」と閏《じゆん》八月十五日に月を観た詩一首とである。後詩の引を見るに、江戸の中秋は無月であつた。菅茶山の集を閲《けみ》すれば、先づ十三夜には雨中に月が出た。「更深月出雨仍灑。照見銀糸垂半天。」十四夜は陰《くも》つてゐた。「秋郊醸雨気※[#「火+高」、第3水準1−87−60]蒸。来夜佳期雲幾層。」然るに幸に十五夜に至つて晴れた。「客逐秋期可共娯。況逢新霽片陰無。奈何天上団円影。不照牀頭一小珠。」末《すゑ》に「半月前喪姪孫女」と註してある。
所謂「姪孫女」とは誰であらうか。わたくしの手許には福田禄太郎さんが黒瀬格一さんに請うて写し得た菅波高橋両家の系図がある。又此年甲申八月十七日後に茶山が蘭軒に寄せた尺牘がある。わたくしは此系図と尺牘とに就いて、姪孫女《てつそんぢよ》の誰なるかを究めて見ようとおもふ。原来姪孫女の称呼には誤解し易い処がある。しかし茶山の斥《さ》して言ふ所は「姪孫之女」ではなく、「姪之孫女」であるらしい。
その百五十七
わたくしは蘭軒の事蹟を叙して此年文政七年の秋に至り、八月十五日の夜、蘭軒が江戸に於て無月に遭ひ、菅茶山が神辺に於て良夜に会したことを言つた。茶山は良夜には会したけれども、歓《よろこび》を成すことを得なかつた。それは半月前に姪孫女を失つたからである。わたくしは系図と茶山の書牘とに由つて、此女児の誰なるかを検せようとした。
わたくしは便宜上先づ茶山の書牘を挙げたい。しかし此書牘は月日《げつじつ》を闕いてゐて、只其内容より推して八月十七日後、少くも十数日を経て書いたものなることが知られるのである。それゆゑわたくしは此に先づ八月十七日前の事を略記して置いて、然る後に茶山の書牘に及ぶことゝする。
八月十六日は蘭軒が何事をも記してゐない。茶山は二客と倶に酒を飲んだ。宵闇の後、明《あけ》近くなつて月を得た。「向暁門前笑語攅。喧言明月現雲端。」
十七日は北条霞亭の一週年忌である。江戸では蘭軒が柴山某等と共に墓に詣でた。事はわたくしの将《まさ》に引かむとしてゐる茶山の書牘中にある。神辺では茶山が明月の下に詩を賦して哀《あい》を鳴らした。「十七夜当子譲忌日。去歳今宵正哭君。遠愁空望海東雲。備西城上仍円月。応照江都宿草墳。」
さて月日不詳の茶山の柬牘は下《しも》の如くである。是も亦饗庭篁村さんの蔵する所に係る。
「御返事。」
「公作《こうのさく》御次韻《ごじゐん》御前へ出候由、大慶仕候。元来|局束《きよくそく》にこまり候故、次韻は別而出来兼候。御覧にも入候而、御称《おんしよう》しも被下候由、難有仕合に奉存候。」
「拙集はよほど前に大坂飛脚に出し候。とく参候半《まゐりさふらはん》と被存候処、今以不参候よし、いよ/\不参候はば又之便に御申こし可被下候。吟味可仕候。」
「度々御前へ御出被成候よし委曲被仰下、於私《わたくしにおいて》も拍悦の御事に候。」
「妙々奇談珍敷奉存候。一覧直に宜山《ぎざん》へ遣し候。」
「御三男様御作|吐舌《したをはき》申候。被仰候事を被仰下、辞気藹然《じきあいぜん》感じ申候。私方《わたくしかた》菅《くわん》三も十五になり候。詩少しつくらせ候へ共きこえ不申候。」
「鵬斎ながき事有之まじく候由気之毒に候。焚塩《やきしほ》すきと承《うけたまはり》、よき便あらばと存候へ共、さ候へば却而《かへつて》邪魔ものなるべし。」
「木駿卿《もくしゆんけい》前遊に逢不申、今以て残念に候。宜被仰可被下候。」
「此比霞亭一週忌|柴山《しばやま》など墓参被成下候由、宜御礼御申可被下候。」
「中秋光景被仰下忝奉存候。備後の中秋有拙詩、うつさせ指上候。悪作御一笑可被下候。」
「扨おとらへよき物被下忝奉存候。然所流行|痢疾《りしつ》にて八月三日相果候。(廿八日よりわづらひ付候は夜四つ時、死候は朝五つ時、其間三日|計《ばかり》也。)お敬はじめ哀傷御憐察可被下候。」
「玄間学屈原候こといかなるわけに候哉。国に居候時も阿堵《あと》に不埒多きをのこ、定而《さだめて》其事なるべし。しかし何処へ行ても一あてはあてるをのこ、仙台か金沢へゆくもよかるべきに、可惜ことに候。」
「梧堂金輪時々おもひ出候。和尚に御逢被成候はば、宜御申可被下候、草々。晋帥拝白。」
その百五十八
わたくしの引いた所の菅茶山の書牘が、此年文政七年八月十七日の後少くも十数日を経て作られたと云ふことは、蘭軒等が北条霞亭の忌辰に当つて、其墓に詣でたのが、既に茶山に知られてゐるを以て証することが出来る。蘭軒と同じく墓を訪うた柴山《しばやま》は、嘗て蘭軒の集に見え、又狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の元応音義《げんおうおんぎ》の跋に見えてゐる柴担人《さいたんじん》ではなからうか。蘭軒は又柴山謙斎と云ふものの家に往つて詩を賦したことがある。謙斎と担人とは同人か異人か。此には暫く疑を存して置く。
わたくしは書牘の月日を推定せむがために、既に「霞亭一周忌」云々の段を挙げて、今|直《たゞち》にこれに接するに新に亡くなつた女児の事を以てする。是は甲申中秋の月が照すに及ばなかつた黄葉村舎牀頭の小珠《せうじゆ》の何物なるかを究めむがためである。
女児は名を「おとら」と云つたらしい。文中此仮名の三字は頗る読み難い。わたくしは字画をたどつて「おとら」と読んだ。しかし「おとう」とも「おこう」とも読まれぬことは無い。
蘭軒はおとらに物を贈つた。然るに物の到つた時、おとらは既に死んでゐた。七月二十八日亥の刻に流行性痢疾の徴を見、八月三日辰の刻に死んだのである。甲申の七月は小であつたから、発病より死に至るまでは陰暦の五十一時間である。茶山は約して「其間三日許に候」と云つてゐる。
おとらが死んでから第十三日が八月|既望《きばう》である。「十五夜」の詩の註には「半月前喪姪孫女」と云つてある。牀頭の小珠が此おとらであることは固より疑を容れない。
然らばおとらは誰の子か。姪孫女《てつそんぢよ》とは茶山の同胞の子の娘か、将《はた》茶山の同胞の孫の女《むすめ》か。わたくしは菅波高橋両家の系図を披《ひら》いて見た。茶山の弟|汝※[#「木+便」、第4水準2−15−14]《じよへん》、晋宝《しんはう》、妹ちよ、まつには皆子があり、其子に女があり、中に夭折した女がある。わたくしは其中に就いて捜すこととした。何故と云ふに更に下ること一代となると、年月が合はなくなるからである。例之《たとへ》ば弟汝※[#「木+便」、第4水準2−15−14]の子|万年《まんねん》の女類は夭折の年月或は契合すべく、更に下つて万年の子|菅《くわん》三の女|通《つう》となると、明に未生《みしやう》の人物となる。
わたくしの捜索の範囲は茶山の書牘の一句に由つて頗る狭められた。それは「お敬はじめ哀傷御憐察可被下候」の語である。敬は亡くなつた女の母らしい。
男系より見れば敬は茶山の弟汝※[#「木+便」、第4水準2−15−14]の子万年に嫁した婦《よめ》である。女系より見れば敬は茶山の妹ちよの井上正信に嫁して生んだ女である。
しかし万年と敬との間には女子が無い。系図は敬の女《むすめ》を載せない。
是に於てわたくしは、彼牀頭の小珠が北条霞亭の敬に生ませた女だらうと云ふことに想ひ到つた。おとらは山陽の「生二女、皆夭」と書した二女の一であるらしい。若しさうだとすると、未亡人敬の帰郷の旅は幼女を伴つた旅であつたこととなる。又蘭軒は前年見送つて江戸を立たせた孤《みなしご》に物を贈つたこととなる。
その百五十九
わたくしの上《かみ》に引いた菅茶山の此年文政七年旺秋後の書牘には、直接間接に十三人の事が見えてゐる。其中わたくしは既に第一故北条霞亭、第二霞亭の未亡人敬、第三其幼女とら、第四霞亭の墓に詣でた柴山某の四人に関する書中の二節を挙げて、これが解釈を試みた。
第五は書の首《はじめ》に見えてゐる棕軒侯である。侯は茶山の次韻の詩を見て称讚した。「中歳抽簪為病痾」の七律とこれに附した八絶とである。茶山は「御覧にも入候而御称しも被下候由、難有仕合に奉存候」と云つてゐる。茶山は又蘭軒が侯に親近するを聞いて、友人のために喜んでゐる。「度々御前へ御出被成候よし、委曲被仰下、於私も拍悦之御事に候。」
第六は侯の儒臣鈴木|宜山《ぎざん》である。蘭軒は江戸に於て妙妙奇談の発刊せらるるに会ひ、一部を茶山に送致した。茶山は読み畢《をは》つて、これを宜山の許《もと》に遣つた。宜山は
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