《ばう》との名を殊にしてゐるのは、一は是にして一は非であらう。
只|憾《うら》むらくは、書を蔵することの少いわたくしは、説郛以下の叢書を見るに由なく、又性疎懶にして図書館の恩蔭を被ることが出来ない。そこで姑《しばら》く捜索の念を断つこととした。想ふに謝氏の演し成す所の話《わ》が僅に十数行であるから、蒙斎筆談の文は二三行に過ぎぬであらう。
以上書き畢《をは》つた時、弟潤三郎が説郛を抄して寄示した。「頃有嘲好古者謬云。以市古物不計直破家。無以食。遂為丐。猶持所有顔子陋巷瓢。号於人曰。孰有太公九府銭。乞一文。吾得無似之耶。」吾とは著者自ら謂ふのである。説郛本は鄭景壁と署してあつて、「土」に从《したが》ふ「壁」に作つてある。
蘭軒は此年文政六年に阿部|正精《まさきよ》に代つて「刻弘安本孝経跋」を草した。原来伊沢の家では、父|信階《のぶしな》の時より、毎旦《まいたん》孝経を誦《しよう》する例になつてゐたので、蘭軒は命を承けて大いに喜んだ。「今也公(正精)跋此書。儒臣不乏於其人。而命信恬草之。寵遇之渥。豈可不恐惶乎。」
阿部侯の蔵する所の此孝経は弘安二年九月十三日の鈔写に係る巻子本で、「紙質精堅、筆蹟沈遒」である。侯はこれが刊行を企てて、蘭軒に跋文を草することを命じた。
然らば此所謂弘安本とはいかなる本か。わたくしはこれを説明するには、孝経のワリアンテスの問題に足を踏み入れなくてはならない。そのわたくしのために難問題たることは、前《さき》に経音義を説明するに臨んで言つた如くである。その過誤は好意ある人の教を待つて訂正する外無い。
孝経は著者不詳の書である。通途《つうづ》には孔子の門人の筆する所だとなつてゐる。此書の一本に「古文孝経孔氏伝」がある。孔氏《くし》とは孔安国《くあんごく》で、孔子十一世の孫である。此孔伝が果して孔安国の手に成つたか否かは、亦復《またまた》不詳である。孔伝は梁末に一たび亡びて、隋に至つて顕れたので、当時早く偽撰とせられたことがある。
しかし隋唐の世には、此の如き異議あるにも拘らず、孔伝が鄭注《ちやうちゆう》と並び行はれた。鄭は鄭玄《ちやうげん》である。それゆゑ大宝元年の学令に、「凡教授正業、周易鄭玄王弼注、尚書孔安国鄭玄注、三礼毛詩鄭玄注、左伝服虔注、孝経孔安国鄭玄注、論語鄭玄何晏注」と云つてある。
その百五十三
わたくしは蘭軒が此年文政六年に阿部|正精《まさきよ》に代つて弘安本孝経に跋した事を言つた。そして所謂弘安本の古文孝経孔伝であることに及んだ。
孔伝《くでん》の我国に存してゐたものには数本がある。年代順に列記すれば、建保七年、弘安二年、正安四年(乾元元年)、元亨元年、元徳二年、文明五年、慶長五年の諸鈔本である。享保年間に此種の一本が清商の手にわたつて、鮑廷博《はうていはく》の有に帰し、彼土《かのど》に於て飜刻せられた。次で林述斎は弘安本を活字に附して、逸存《いつぞん》叢書の中に収めた。
以上が阿部侯校刻前の孔伝の沿革である。然らば述斎の既に一たび刻したものを、棕軒侯は何故に再び刻したか。「林祭酒述斎先生。悲其正本遂堙滅。以弘安本活字刷印。収之於其所輯逸存叢書中。字画悉依旧。学者以※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]飫也。余閲其本。自有叢書辺格。故不得不換旧裁。亦不無遺憾焉。」阿部本は林本の旧裁を換へたのに慊《あきたら》ぬがために出でたのである。
孔伝は安国《あんごく》に出でたと否とを問はず、兎も角も隋代の古本である。蘭軒はこれを尊重して、喜んで阿部侯に代つて序文を草した。しかし蘭軒は孝経を読むに孔伝を取らずして玄宗注を取つた。
わたくしは上《かみ》に伊沢の家で毎旦孝経を誦《じゆ》するを例としてゐたことを言つた。此例は蘭軒の父信階より始つた。そして信階は古文孝経を用ゐてゐた。その玄宗注を用ゐるに至つたのは、蘭軒が敢て改めたのである。「先大人隆升翁生存之日。毎旦読此経。終身不廃。或鈔数十本。遺贈俚人令蔵。以為鎮家之符。其言曰。人読此経。苟存於心。雖身不能行。不至陥悪道矣。其厭殃迎祥。何術加之。梁皇侃性至孝。日限誦此経廿遍。以擬観音経。抑有以哉。吾輩豈不遵奉耶。翁所読本。即用古文本。信恬自有私見。而従玄宗注。」
然らば此玄宗注とはいかなるものか。唐代の学者は古文孝経の偽撰たるを論じて、拠るべからざるものとしてゐたので、玄宗は自らこれを註するに至つたのである。事は開元十年六月にある。即ち我国大宝の学令に遅るること二十年余である。
次で天宝二年五月に至つて、玄宗は重て孝経を注し、四年九月に石に大学に刻せしめた。所謂|石台本《せきたいぼん》である。此|重注石刻《ちようちゆうせきこく》は初の開元注に遅るること更に二十年余である。
是に於て彼土に於ては初の開元注亡びて、後の石台本が行はれた。
我国には猶開元注が存してゐた。逍遙院|実隆《さねたか》の享禄辛卯(八年)の抄本が即是である。後寛政年間に屋代輪池《やしろりんち》の校刻した本は是を底本としてゐる。
そこで狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎はかう云つた。既に玄宗注を取るからは、玄宗の重定《ちようてい》に従ふを当然とすべきであらう。「天宝四載九月。以重注本刻石於大学。則今日授業。理宜用天宝重定本。而世猶未有刻本。蒙窃憾焉。」幸に北宋天聖明道間の刊本があつて石刻の旧を伝へてゐる。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎はこれを取つて校刻した。是が文政九年に成つた「狩谷望之審定宋本」の「御注孝経」である。阿部家の弘安本覆刻に後るること三年にして刊行せられたのである。
その百五十四
わたくしは以上記する所を以て、孝経のワリアンテスの問題に就いて、少くも其輪廓を画き得たものと信ずる。そして下《しも》の如くに思量する。蘭軒は主君に代つて、喜んで弘安本孔伝に跋した。それは隋代の古書の世に顕るることを喜んだためである。しかし蘭軒は孝経当体に就いては、玄宗注の所謂孔伝に優ることを思つた。「自有私見、而従玄宗注」と云つてゐる。按ずるに蘭軒と※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎とは見る所を同じうしてゐたのであらう。
菅氏では此年文政六年に、茶山が大目附にせられ、俸禄も亦二十人扶持より三十人扶持に進められた。歳杪《さいせう》の五律は「喜吾垂八十、仍作楽郊民」を以て結んである。梁川星巌夫妻の黄葉夕陽村舎を訪うたのも亦此年である。
頼氏では此年三子又二郎が生れた。復《ふく》、字《あざな》は士剛《しかう》、号は支峰である。里恵《りゑ》の生んだ所の男子で、始て人と成ることを得たのは此人である。
其他森枳園が此年蘭軒の門に入つた。年は十七歳である。
大田南畝は此年四月六日に歿した。茶山が書を蘭軒に与へて、老衰は同病だと云ひ、失礼ながら相憐むと云つてより、未だ幾《いくばく》ならずして歿したのである。茶山は南畝より長ずること僅に一歳で、此年七十六であつた。南畝は七十五歳にして終つた。
此年蘭軒は四十七歳、妻益四十一歳、子女は榛軒二十、常三郎十九、柏軒十四、長十、順四つであつた。
文政七年の元日は、棕軒正精が老中の劇職を辞して、前年春杪以来の病が痊《い》えたので、丸山の阿部邸には一種|便安舒暢《べんあんじよちやう》の気象が満ちてゐたかとおもはれる。
蘭軒には自家の「甲申元旦作」よりして外、別に「恭奉※[#「庚/貝」、第3水準1−92−25]元日即事瑤韻」の作があつた。初の一首に云く。「霞光旭影満東軒。臘酒初醒復椒尊。春意※[#「冫+熈」、第3水準1−14−55]々忘老至。懶身碌々任人論。烟軽山色青猶淡。節早梅花香已繁。尤喜吾公無疾病。聞鶯珠履渉林園。註云、客歳春夏之際、吾公嬰疾辞職、而至冬大痊、幕府下特恩之命、賜邸於小川街、而邸未竣重修之功、公来居丸山荘、荘園鉅大深邃、渓山之趣、為不乏矣、公日行渉為娯、故結末及之。」此詩には阿部侯の次韻があつて、福山の田中徳松さんが其書幅を蔵してゐる。「和伊沢信恬甲申元日韻。芙蓉積雪映西軒。恰是正元対椒尊。荏苒年光歓病瘉。尋常薬物任医論。一声青鳥啼方媚。幾点白梅花已繁。自値太平和楽日。間身依杖歩林園。」是は梅田覚太郎さんが写して贈つたのである。蘭軒原作の註は前《さき》に正精の請罷《せいひ》の事を言ふに当つて、已に一たび節録したが、今此に全文を挙げた。後の一首に云く。「標格高如千丈松。儼然相対玉芙蓉。歌兼白雪添堂潔。毫引瑞烟映桷※[#「丹+彡」、第3水準1−84−29]。竹色経寒猶勁直。梅花得雨自温恭。昇平方是宜游予。満囿春風供散※[#「竹かんむり/(エ+おおざと)」、第3水準1−89−61]。」憾《うら》むらくはわたくしは未だ阿部侯の原唱を見ない。
菅茶山の歳首の詩は、一家の私事の外に出でなかつた。「元日得頼千祺書、二日得漆谷老人詩。鳥語嚶々柳挂糸。春来両日已堪嬉。更忻此歳多佳事。昨得韓書今白詩。」千|祺《き》が杏坪《きやうへい》の字なるは註することを須《もち》ゐぬであらう。漆谷《しつこく》は市河三陽、小野節二家の説を聞くに、後藤氏、名は苟簡《こうかん》、字は子易《しえき》、一|字《じ》は田夫《でんふ》、又木斎と号した。北条霞亭の尺牘に拠るに、通称は弥之助である。讚岐の商家に生れ、屋号を油屋と云ふ。前年備後に来て、茶山と親善であつたことは、後者の癸未以後の詩に徴して知られる。
茶山は此正月二日の詩に於て、単に家事のみを語つてゐるが、別に新年の五律があつて、「藩政俗差遷」と云ひ、又「救荒人忘旱」とも云つてゐる。前年は備後が凶歉《きようけん》であつた。
その百五十五
蘭軒は此年文政七年に春の詩四首を得た。前に載せた元日の二首の次には「早春偶成」と例の「豆日草堂集」とがある。わたくしは唯此に由つて蘭軒が甲申の正月元日にも又友を会して詩を賦したことを知るのみである。
神辺《かんなべ》では菅茶山が人日《じんじつ》に藩士数人を集《つど》へて詩を賦した。「客迎英俊是人日、暦入春韶徒馬齢」の一聯がある。茶山の春初の詩は頗多い。前に出した阿部正精の辞職の詩に次韻した九首も其中にある。
正月十九日に正精は丸山より小川町の本邸に徙《うつ》つた。蘭軒は旧に依つて丸山に留まつた。
三月十六日には、勤向覚書に下《しも》の記事がある。「若殿様御額直御袖留為御祝儀、両殿様え組合目録を以て御肴一種づつ奉差上候。」若殿様は寛三郎|正寧《まさやす》である。
四月には「首夏近巷買宅、以代小墅」の詩がある。「巷東小築別開園。樹接隣叢緑影繁。半日清間纔領得。紅塵場裏亦桃源。」家計に些《ちと》の余裕があつたものか。宅を買ふと云ふより見れば、阿部邸の外の町家《まちや》であらう。
蘭軒は此夏|啻《たゞ》に別宅を設けたばかりでなく、避暑の旅をもしたらしい。その何《いづ》れの地に往つたかは、今考ふることが出来ぬが、「山館避暑」、「門外追涼」の二詩は蘭軒の某山中にあつたことを証する。「山館避暑。行追碧澗入山逕。垂柳門前有小橋。素練一条懸瀑水。緑天十畝植芭蕉。竹窓安硯池常沢。苔石煮茶鼎忽潮。即是羲皇人不遠。松風無復点塵飄。門外追涼。烟暮山光遠。月升樹影長。新涼身自快。迂路歩相忘。虫語莎叢寂。鷺驚荷沼香。時逢村女子。数隊踏歌行。」門外の山館門外なることは疑を容れない。わたくしの二詩を併せ録する所以《ゆゑん》である。
わたくしは此より月日不詳の夏の詩の遺れるを拾はうとおもふ。しかし勤向覚書に、これに先《さきだ》つて書すべき一条がある。それは嫡子榛軒が父に賜はつた服を著ることを許された事である。「五月三日左之願書付、相触流玄順を以、大御目付稲生伝右衛門殿え差出候処、今日角右衛門殿差出され候処、御受取被置、同七日願之通勝手次第と被仰付候。口上之覚。私拝領仕候御紋付類、悴良安え著用為仕度奉願上候以上。五月三日。伊沢辞安。但糊入半切認、上包半紙折懸、上に名。」
集中には夏の詩が凡《おほよそ》六首ある。其中別宅の事を言ふ一首と避暑の事を言ふ二首とは既に上《かみ》に見えてゐる。剰《あま》す
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