聞けば、霞亭の書牘数百通も其処に現存してゐるさうである。此仮定に幾許《いくばく》の差誤《さご》があるか、これを検することを得る時も、他日或は到るかも知れない。

     その百四十九

 北条霞亭は文化九年三十三歳の春初の比、父適斎の命に因つて、京都の市中に移つた。此市中の家が歳寒堂である。
 歳寒堂は京都の何町にあつたか。わたくしは今これを知らない。しかし浜野氏のわたくしに借した書の中に、韓凹巷《かんあふこう》の「芳野游藁」がある。游藁の詩に、「知君昨自洛城西」の句がある。これは霞亭が、市に入つた次年の二月下旬に、関宿《せきじゆく》に往つて凹巷を待ち合せたことを言つたのである。霞亭が市中生活の末期には、歳寒堂は京都市街の西部にあつた。
 霞亭は九年壬申の歳をいかに暮したか。わたくしは特に記すべき事をも有せない。只嵯峨|樵歌《せうか》の一巻は此年刊行せられた。菅茶山の序は「壬申孟夏」に成り、僧月江の跋は「壬申秋七月」に成つた。
 そして月江の跋がわたくしに、おぼろげながら市中生活の内容を教へる。適斎は何故に其子をして市中に移らしめたか。跋の云ふ所に従へば、霞亭は徒を聚《あつ》めて教授した。それが適斎の命であつた。適斎は嵯峨生活の徒食に慊《あきたら》なかつたらしい。其文に云く。「賢父母在堂。君(霞亭)因其命。今教授於京師。」
 跋が又わたくしに霞亭の母の事をも教へる。父適斎は四年の後七十の賀筵を開く人で、此年六十六歳であつた。しかし母の猶堂にあつたことは、此文に由つて知ることが出来た。
 此年十二月に霞亭は凹巷の書を得て、明年共に吉野に遊ばむことを約した。
 霞亭は文化十年二月二十三日に関宿に赴いた。凹巷を迎へて共に吉野に遊ばむがためである。これが三十四歳の春である。備後に往く年の春である。
 吉野の遊の成立《なりたち》を明にせむがために、わたくしは先づ游稿の文を節録する。「壬申臘月。河崎敬軒赴東府。帰期及花時。因約芳野之遊。時北条霞亭寓洛。余請明年二月会我于関駅。癸酉二月十九日。余拉佐藤子文発。枉路于北勢。廿二日到桑名駅。※[#「日+甫」、第3水準1−85−29]時敬軒果至。廿三日発桑名。宿于亀山。廿四日到関駅。霞亭以前夕至。」凹巷は佐藤|子文《しぶん》と二月十九日に伊勢を発し、二十二日に桑名に於て敬軒と会し、二十四日に関宿に於て霞亭と会した。一行は霞亭、凹巷、敬軒、子文の四人である。子文は茶山集、驥※[#「蠢」の「春」に代えて「亡」、第3水準1−91−58]《きばう》日記等にも見えてゐる人である。
 わたくしは此に凹巷の記に依つて、霞亭参加後の游蹤《いうしよう》を追尋する。但原文には中間に一日づつの誤算がある。わたくしはこれを正して下《しも》に註して置く。
 癸酉二月「廿四日発関駅。適雨至。宿于鹿伏兎。是夜雨甚。有叩門呼余(凹巷)名者。問之山内子亨也。」此より山内子亨《やまのうちしかう》が一行に加はつて五人になつた。
「廿五日宿于上野。」
「翌朝(二十六日)大雪。過青石嶺。宿于笠置。」
「廿七日登笠置山。下木津川。宿于郡山。」
「(二十八日)発郡山。到法隆寺。宿当麻寺前民家。」
「(二十九日)訪尼松珠于当麻寺中紫雲庵。登畝旁山。到岡寺。」
「廿九日(晦)発岡寺客舎。従桜井駅上談峰。大雨。投山店。」
「卅日(三月朔)宿于越部。」
「三月朔(二日)発越部。度芳野川下流。到賀名生。訪堀孫太郎宅。宿其家。」
「二日(三日)発賀名生。投芳野客舎。」
「翌日上巳(四日)値雨。遊桜本坊竹林院。」
「四日(五日)衝雨尋諸勝。晩観宮滝。」
「五日(六日)過蔵王堂。是日宿雨初晴。花開七分。」
「七日発六田。霞亭還洛。子亨従送之。」此より霞亭は山内子亨を伴つて京の歳寒堂に帰つたのである。凹巷等は此日|赤埴《あかばね》に宿し、八日|杉平《すぎたひら》に宿し、九日|鶴宿《つるじゆく》に宿し、十日に凹巷の桜葉館《あうえふくわん》に著した。主人は河崎、佐藤の二人を座に延いた。「故園吾館迎還好。桜葉陰濃緑満扉。」

     その百五十

 わたくしは浜野氏の蔵書二三種を借り得て、其中に就いて北条霞亭の履歴を求め、年を逐うてこれを記し、遂に文化十年癸酉、霞亭三十四歳の時に至つた。霞亭は此年の三月七日に吉野の遊より帰つて六田《むた》に至り、伊勢の諸友と袂を分かつた。
 然るに此三月七日より後には、年の暮るゝに至るまで、一事の月日《げつじつ》を詳《つまびらか》にすべきものだに無い。霞亭が京都を去つて備後に赴いたのは、其生涯の大事である。そして此の如き大事が、わたくしのためには猶月日不詳の暗黒裏に埋没せられてゐるのである。わたくしは唯山陽の「歳癸酉、遊備後」の語を知つてゐる。強ひて時間を限劃《げんくわく》しようとしても、三月七日の後、十二月|晦《みそか》の前には填《うづ》むべからざる空隙がある。
 わたくしは霞亭に関する記載の頗《すこぶる》不完全なるを自知しながら、忍んで此に筆を絶たなくてはならない。何故かと云ふに、癸酉以後の事蹟には、前《さき》に一巻の帰省詩嚢、一篇の嚢里移居詩《なうりいきよし》を借り来つて、菅茶山の書牘に註脚を加へた後、今に至るまで何の得る所も無いからである。わたくしは最後に「薇山三観」の事を補記して置く。これも亦浜野氏の借覧を許した書の一である。
 霞亭は黄薇《くわうび》に入つた後に、三原に梅を観、山南《さんな》に漁《すなどり》を観、竹田に螢を観た。これが所謂三観である。
 梅の詩は末に「右甲戌初春」と書してある。文化十一年正月で、備後に来てからの第二年である。
 漁は鯛網である。其詩の末には「右丙子初夏」と書してある。螢の詩の末には「右丙子仲夏」と書してある。備後に来てからの第四年、文化十三年四月及五月である。彼詩嚢を齎した帰省の「出門」を七月であつたとすると、的屋の遊は踵《くびす》を竹田の遊に接してゐる。
 わたくしが霞亭に関する以上の事を記したのは、蘭軒を伝して文政六年に至り、其年十一月二十三日に茶山の蘭軒に与へた書を引いたから起つたのである。当時霞亭は既に江戸|嚢里《なうり》の家に歿してより九十五日を経てゐた。妻井上氏|敬《きやう》は神辺《かんなべ》に帰る旅が殆ど果てて、「帰宅明日にあり」と云ふことになつてゐた。
 茶山の書牘には、敬とこれに随従してゐた足軽との外、猶二人の名が出てゐる。其一は鵜川某である。「鵜川段々世話いたしくれられ候由、此事御申伝尚御たのみ可被下奉願上候。」鵜川は子醇《しじゆん》であらう。事は北条氏の不幸に連繋してゐる。
 其二は牧唯助《まきたゞすけ》である。「むかしの臼杵直卿也」と註してある。五山堂詩話の牧|古愚《こぐ》字《あざな》は直卿《ちよくけい》、号は黙庵が、茶山集の臼杵直卿《うすきちよくけい》と同人であつたことが、此文に由つて証せられる。茶山の言ふ所は霞亭一家の事には与《あづか》らない。
 牧は当時江戸にゐた。松平冠山が何事をか茶山に託したので、茶山はこれを牧に伝へた。然るに「うんともすんとも返事無之候」であつた。茶山は蘭軒をして牧に催促せしめようとしたのである。冠山は因幡国鳥取の城主松平氏の支封松平|縫殿頭《ぬひのかみ》定常で、実は池田筑前守政重の弟である。その茶山に託したのは何事か、今考へることが出来ない。

     その百五十一

 已に云つた如くに、わたくしは蘭軒の事を叙して文政六年に至り、菅茶山の十一月二十三日の書牘を引いた。此十一月二十三日より後には、年の尽るに至るまで、蘭軒の身上に一も月日を明にすべき事が無い。
 ※[#「くさかんむり/姦」、7巻−299−上−15]斎《かんさい》詩集は、二月十三日に酌源堂《しやくげんだう》に詩会を催し、宿題看梅に就いて詩を闘はした後、僅に詩四首を載せてゐるのみである。そしてそれが皆季節に拘束せられぬ作である。
 最初に題画一首がある。わたくしはこれを擺去《はいきよ》する。次に「偶成」「自笑」の二絶がある。人間不平の事が多い。少壮にして反撥力の強いものは、これを鳴らすに激越の音を以てする。蘭軒は既に四十七歳である。且|蹇《あしなへ》である。これに応ずるに忍辱《にんにく》を以てし、レジニアシヨンを以てするより外無い。偶成に云く。「金玉難常保満盈。鬼神猶是妬高明。要航人海風濤険。無若虚舟一葉軽。」しかしわたくし共の経験する所を以てすれば、虚舟《きよしう》と雖、触るれば必ずしも人の怒を免れない。自笑に云く。「愛酒等間任歳移。読書不復解時宜。検来四百四般病。最是難医我性痴。」一|肚皮《とひ》は時宜に合はない。病は治すべくして、痴は治することが出来ない。これも亦レジニアシヨンの語である。
 最後にこんな詩がある。「近日児信重儲古銭数枚、朝夕翫撫、頗有似酒人独酔之楽、因賦一詩。漢唐貨幣貴於珠。千歳彰然証両銖。光潤方分潜水土。※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]斑更愛帯青朱。堪想求古※[#「勹<亡」、7巻−300−上−4]児癖。無受如兄俗客汚、自笑吾家痴子輩。亦生一種守銭奴。註云、乞児猶乞古銭、事見蒙斎筆談、謝在杭五雑組、演為一話、世多以為始自謝氏者陋矣。」
 蘭軒の三子柏軒が古銭を集めることを始めた。狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の古泉癖《こせんへき》は世の知る所である。「歴代古泉貨幾百品。自幼之時愛玩之。或遇清間興適。攤列※[#「片+総のつくり」、7巻−300−上−10]間品評之。」其子|懐之《くわいし》、其忘年の友渋江抽斎も亦古泉を翫《もてあそ》んだ。現に同嗜《どうし》の人津田繁二さんは「新校正孔方図鑑」と云ふ書を蔵してゐる。懐之の「文化十二年嘉平月二日」の識語があるさうである。当時懐之は年|甫《はじめ》て十二であつた。按ずるに※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は識語を作るに当つて名《めい》を其子に藉りたのであらう。しかし※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が蚤《はや》く懐之に其古泉癖を伝へたことも、亦疑を容れない。此年十四歳の柏軒が古泉を愛するに至つたのは、恐くは懐之等が導誘したためであらう。懐之は柏軒より長ずること六歳であつた。
 わたくしは此詩に由つて蘭軒自己に古泉癖が無かつたものと推する。「自笑吾家痴子輩。亦生一種守銭奴。」柏軒の愛泉は伊沢氏に於ては未曾有の事であつたらしい。
 此詩の自註に、蘭軒は蒙斎筆談を引いて、「乞児猶乞古銭」と云ふ事の典拠を示してゐる。これは尋常人が五雑組《ござつそ》に出でてゐると謂《おも》ふべきを慮《おもんぱか》つて、其非なることを言つたものである。一事に逢ふ毎に考証の詳備《しやうび》を期するのは、固より蘭軒の本領である。
 わたくしはこれを読んで、乞児《こつじ》も猶古銭を乞ふとはいかなる事を謂ふかと云ふ好奇心を発《おこ》した。

     その百五十二

 わたくしは蘭軒詩註の「乞児猶乞古銭」と云ふことを知らんと欲した。蘭軒の典拠として取らぬ五雑組は手近にあるので、わたくしは直にその所謂「演為一話」と云ふものを検した。
 秦の士に古物《こぶつ》を好むものがあつた。魯の哀公の席《むしろ》を買はむがために田を売り、太王|※[#「分+おおざと」、7巻−301−上−7]《ふん》を去る時の策《さく》を買はむがために家資を傾け、舜の作る所の椀を買はむがために宅を売つた。「於是披哀公之席。持太王之杖。執舜所作之椀。行丐於市曰。那箇衣食父母。有太公九府銭。乞我一文。」これが謝在杭《しやさいかう》の演《えん》し成した一|話《わ》であるらしい。
 然らば此|話《わ》の本づく所は何であるか。わたくしは蒙斎筆談を見んと欲して頗る窮した。蒙斎筆談とはいかなる書か。試《こゝろみ》に書目を検すれば、説郛《せつふ》巻《けんの》二十九、古今説海の説略、学海類篇の集余《しふよの》四記述、稗海《はいかい》第三|函《かん》等に収められてゐる。説郛と学海類篇とには、著者の名を宋鄭景璧《そうのていけいへき》としてあり、古今説海と稗海とには宋鄭景望《そうのていけいばう》としてある。恐くは同一の書で、璧《へき》と望
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