遁生活は霞亭の久しく願ふ所であつた。「勝地居新卜、此期吾自夙」と云ひ、「峨阜棲期自早齢、幽居先夢竹間※[#「戸の旧字/炯のつくり」、第3水準1−84−68]」と云つてゐる。わたくしは此より樵歌の叙する所に就いて、霞亭が幽棲の蹟《あと》を討《たづ》ねる。
その百四十六
北条霞亭の嵯峨生活は自ら三期に分れる。霞亭は初期は竹里《ちくり》に、中期は任有亭《にんいうてい》に、後期は梅陽軒《ばいやうけん》に居つた。僧月江撰の嵯峨樵歌の跋は此の三期を列記して頗《すこぶる》明晰である。「余近与霞亭北条君。結交於方外。君勢南人。性好山水。客歳携令弟立敬来嵯峨。初寓止竹里。中居任有亭。後又移梅陽軒。任有亭者吾院之所有。是以朝夕相見。交日以親焉。君深究経史。旁通群書。若詩若文。其所自適。信口命筆。自竹里之始。至梅陽之終。其間一朞年。所獲詩殆二百首。題曰嵯峨樵歌。」月江、名は承宣《しようせん》、所謂「吾院」は三秀院である。文は文化九年七月に草したもので、「客歳」は八年を謂ふ。
霞亭は林崎院長を辞して、京都に入つた。韓凹巷《かんあふこう》は「依然旧書院、長謂君在茲、鸞鳳辞荊棘、烏鳶如有疑」と云つてゐる。山陽は「素愛嵐峡山水、就其最清絶処縛屋」と云つてゐる。
その林崎を去つた時は文化八年二月である。樵歌に「辛未二月予将卜居峨阜、留別社友諸君」の詩がある。霞亭は林崎にあつて恒心社を結んでゐた。社友とは此恒心社の同人を謂ふ。発程の前には暫く宇清蔚《うせいうつ》の家に舎《やど》つてゐたらしい。「予将西発前日石田生過訪予於宇氏寓館」と云ふ語がある。発程の日には凹巷が送つて宮川の下流、大湊の辺まで来た。「卜居択其勝、相送宮水※[#「さんずい+眉」、第3水準1−86−89]、大淀松陰雨、霑衣分手遅」と云つてゐる。
京に入るとき弟|惟長《ゐちやう》が同行した。そして宇清蔚が来て新居を嵯峨に経営することを助けた。此間|井達夫《せいたつふ》も来て泊つてゐた。惟長の事は、山陽も「挈弟」と云ひ、月江も「携令弟」と云つてゐる。移居当時の事は、樵歌に「予卜居峨阜、宇清蔚偕来助事、適井達夫在都、亦来訪、留宿三日、二月念一日、修営粗了」と云つてある。想ふに早く二月中旬の某日に行李を卸して、二十一日に屋舎を修繕し畢《をは》つたのであらう。
霞亭の卜する所の宅は、所謂竹里の居で、西に竹林《ちくりん》を控へてゐた。林間の遺礎《いそ》は僧|涌蓮《ゆれん》が故居の址である。樵歌に「宅西竹林、偶見有遺礎、問之土人、云是師(涌蓮)故居、廃已久矣」と云つてある。涌蓮、名は達空《たつくう》、伊勢国一|身田《しんでん》の人である。嘗て江戸に住し、後嵯峨に隠れて、獅子巌集《ししがんしふ》を遺して終つた。
霞亭の居る所の草堂を幽篁書屋《いうくわうしよをく》と云ふ。「脩竹掩幽籬」と云ひ、「隣寺暮春静」と云ふ、並に凹巷が詩中の句である。「竹裏成村纔両隣」と云ひ、「隣是樵家兼仏寺」と云ふ、皆霞亭が書屋雑詠中の句である。堂の一隅に前主人の遺す所の紙屏《しへい》一張がある。西依成斎《にしよりせいさい》が朱元晦《しゆげんくわい》の「酔下祝融峰作」を題したものである。「我来万里駕長風。絶壑層雲許盪胸。濁酒三杯豪気発。朗吟飛下祝融峰。」成斎、初の名は正固《せいこ》、後|周行《しうかう》、字《あざな》は潭明《たんめい》、通称は儀平《ぎへい》、肥後の人で京都に居つた。樵歌《せうか》には「祝」が「※[#「示+「酋」の「酉」に代えて「允」」、7巻−291−上−6]」又「※[#「木+「酋」の「酉」に代えて「允」」、7巻−291−上−6]」に作つてある。字書に※[#「示+兌」、7巻−291−上−6]《ぜい》、※[#「木+兌」、第3水準1−85−72]《せつ》の字はあるが、峰《ほう》の名は祝融《しゆくゆう》であらう。霞亭は朱子に次韻した。「勃々豪情欲起風。銀杯一掉灑書胸。胸中韜得乾坤大。何屑祝融千万峰。」
堂に書幌《しよくわう》が垂れてある。恒心社同人の贈る所で、「冢不騫写大梅、韓君聯玉題詩其上」と云つてある。冢不騫《ちようふけん》、名は寿《じゆ》、大塚氏、不騫は其|字《あざな》、信濃国|奈賀郡《なかごほり》駒場駅《こまばえき》の人である。
移居当時の客宇清蔚が辞し去つた時、霞亭は送つて京の客舎に至つた。「可想今宵君去後。不堪孤寂守青燈。」
中の閏《じゆん》二月を隔てて、三月二十八日に凹巷が伊勢から来た。凹巷は「命駕我欲西、好侶況相追、君亦出都門、望々幾翹跂」と云つてゐる。霞亭は粟田口の茶屋まで出迎へたのである。「痴坐亭中晩未回。先虚一榻預陳杯。眼穿青樹林陰路。杖響時疑君出来。」
所謂好侶は田伯養《でんはくやう》、孫孟綽《そんまうしやく》、河良佐《かりやうさ》、池希白《ちきはく》である。樵歌に云く。「韓聯玉曾有訪予幽篁書屋之約。田伯養、孫孟綽従其行。適河良佐、池希白役越後。抂程亦偕聯玉輩。一斉入京。」霞亭が此日の詩に、「壮遊人五傑、快意酒千鍾」の句がある。所謂五傑中、韓凹巷、河敬軒《かけいけん》の二人を除いて、他の三人はわたくしのためには未知の人である。只田の名は光和《くわうくわ》、孫の名は公裕《こうゆう》で、孫は自ら凹巷の内姪《ないてつ》と称してゐる。
その百四十七
北条霞亭の竹里《ちくり》の家に宿つた韓凹巷《かんあふこう》等五人の客は、翌日辛未三月二十九日に、主人と共に嵐山に遊んだ。樵歌《せうか》に「春尽与諸君遊嵐峡」の詩がある。辛未の三月は小であつたので、二十九日が春尽《しゆんじん》になつてゐた。
四月三日に主客は嵯峨を出でて天橋立に遊んだ。五客の中|河良佐《かりやうさ》と池希白《ちきはく》とは、途上|角鹿津《つぬがのつ》に於て別れ去つた。霞亭、凹巷並に田伯養《でんはくやう》、孫孟綽《そんまうしやく》の四人が若狭より丹後に入り、天橋立を看、大江山を踰《こ》えて帰つた。竹里に還つたのは四月十七日であつただらう。「初夏三日、与諸君取道湖西、抵越前角鹿津、与河池二君別、余輩経若狭、入丹後、観天橋、踰大江山帰、往来十有五日」と、樵歌に記してある。伊勢の看松《かんしよう》が杖を霞亭に贈つて、凹巷はそれを持つて来たので、霞亭は携へて天橋立に遊んだ。所謂|蘆竹杖《ろちくぢやう》である。諸友の句を題した中に、「昔游観物最難忘、想倚天橋松影碧」と云ふのがある。これは凹巷の七律の七八である。凹巷と田孫二人とが辞し去る時、霞亭はこれを勢田の橋に近い茶店《ちやてん》まで送つた。「長橋短橋多少恨。満湖風雨送君帰。」
霞亭は六月に至るまで竹里に居つた。次で事があつて、京の街に住むこと二十余日にして、又嵯峨に帰つた。そして再び幽篁書屋《いうくわうしよをく》に入ることをなさずに、任有亭《にんいうてい》に寄寓した。嵯峨生活の中期は此に始まる。樵歌に「予因事徙居都下二旬余、不堪擾雑、復返西峨、寓任有亭、翌賦呈宣上人」の詩がある。宣上人《せんしやうにん》は僧月江である。後に「予在任有亭宛百日、初冬八日将移林東梅陽軒」と云ふを見れば、任有亭に入つたのは六月二十八日であらう。これは前後のわたましの日をも算入して百日となしたのである。
任有亭は享保中僧|似雲《じうん》の住んだ故跡である。霞亭に「任有亭漫詠十五首」があり、又「題任有亭」「題似雲師肖像」の作がある。「聯結得一庵。斗大劣容躬。(中略。)嵐山当戸※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]。堰水遶庭叢。(中略。)心跡何所似。人称今西公。(中略。)吾夙慕高概。隠迹行将同。何彼名利客。区々在樊籠。斯人今不見。目送冥々鴻。」これは「題任有亭」の五古中より意に任せて摘み来つた数句である。「人称今西公」とは当時の似雲を以て古《いにしへ》の西行に比したのである。
任有亭にゐた間の霞亭の境遇には、特に記すべき事が少い。九月上旬には少しく疾《や》むだ。「九日有登七老山之期、臥病不果、口占。望山不得登。対酒不思嘗。枕辺如欠菊。何以過重陽。」十九日には亡弟|彦《げん》の法要を営んだ。此時僧月江が「薦北条子彦君霊」の詩を作つた。わたくしは此詩の一句に由つて三兄弟の長幼順序を知ることを得た。三人の最長者の霞亭なることは勿論であるが、次が夭折した彦、又次が惟長《ゐちやう》であつた。月江は「阿兄阿弟我相知」と云つてゐる。死者の阿兄が霞亭で、其阿弟が惟長だと云ふことになるのである。わたくしは系譜を見ることを須《もち》ゐずしてこれを知ることを得た。十月四日には入江若水《いりえじやくすゐ》の墓を弔した。若水、名は兼通《けんつう》、字《あざな》は子徹《してつ》である。嘗て僧似雲が任有亭にゐた時、若水は櫟谷《いちだに》にゐた。「跡つけてとはぬも深き心とは、雪に人待つ人の知るらむ」は、雪の日に似雲の若水に贈つた歌である。此日は享保十四年に若水の歿した忌辰であつた。
その百四十八
北条霞亭は辛未十月三日に任有亭《にんいうてい》から梅陽軒《ばいやうけん》に移つた。「一年為客四移蹤。来去自由無物従。」此より嵯峨生活の後期に入るのである。林崎より竹里《ちくり》へ、竹里より任有亭へ、任有亭より梅陽軒へ、以上三移である。四移と云ふは、竹里と任有亭との間に市中に住んだ二旬余があるからであらう。
梅陽軒は空僧院《くうそうゐん》である。「幽寺無僧住。随縁暫寄身。」院は竹林《ちくりん》の中にある。「蘿纏留半壁。竹邃絶比隣。」そして門前をば大井川の支流|芹川《せりかは》が流れ過ぎ、水を隔てて嵐山の櫟谷《いちだに》を望み見る。「櫟谷寒燈※[#「火+(日/立)」、第3水準1−87−55]々。芹渠暗水潺々。」前の四句は「初寓梅陽」の五律、後の二句は「梅陽雑興六言三首」より取つたのである。
霞亭は梅陽軒にある間、伊勢の友三人に訪はれた。宇清蔚《うせいうつ》、冢不騫《ちようふけん》、尾間生《びかんせい》である。宇は大坂へ往くのに、往反ともに嵯峨に立ち寄つた。往路には霞亭が「楓葉為塵梅未開、非君誰肯顧蒿莱」と云つて迎へた。又|反路《へんろ》には「雁断江天雪、梅開洛※[#「さんずい+内」、第4水準2−78−24]春、客中傷歳暮、況別故郷人」と云つて送つた。冢尾の二人は筑前の亀井南溟の塾に往く途次におとづれた。「声名他日当如此、持贈清香梅一枝」は、霞亭が餞別の詩の末二句である。冢は前《さき》に霞亭がために梅を書幌《しよくわう》に画いた大塚|寿《じゆ》である。
霞亭は猶梅陽軒にあつて、「歳暮」を賦し、「壬申元旦」を賦した。三十三歳の春を迎へたのである。元旦の詩の後には応酬の作二首、梅を尋ぬる作一首があつて、最後に歳寒堂の詩が載せてある。歳寒堂の詩の引にはかう云つてある。「今茲壬申。因家君命。移居城中。予於嵯峨。已為一年之寄客。瞻恋不忍去。宣上人贈亀山松、堰汀梅、峨野竹。院屏有売茶翁松梅竹三字。併見恵寄。予栽三物於庭下。扁遺墨於堂上。命曰歳寒堂。(節録。)」想ふに霞亭は壬申の春の初に嵯峨を去つたのであらう。
辛未二月より六月に至る、竹里に於る初期、六月より十月に至る、任有亭に於る中期、十月より壬申の春初に至る、梅陽軒に於る後期、霞亭の嵯峨生活は此三期を合して約一箇年に亘つた。
此間の月日と日数とは、若し二三の前提を仮設することを嫌はぬならば、精細に算出することが出来るであらう。前提とは一、宇清蔚は霞亭と偕に竹里に来て、其「留宿三日」には二月二十一日をも含んでゐること、二、霞亭が竹里を去つて市中に住んだ「二旬余」を二十五日と算すること、三、壬申の正月猶梅陽軒に留まること一旬であつたとすることである。
此前提を取るときは、嵯峨生活の三期は下の如くになる。霞亭は辛未二月十九日に竹里に来て、六月四日に去つた。其間百三十三日である。四日に市に入つて二十八日に出た。其間二十五日である。二十八日に任有亭に来て、十月八日に去つた。其間百日である。八日に梅陽軒に来て、壬申正月十日に去つた。其間九十二日である。嵯峨生活の日数は通計三百五十日となる。霞亭に由緒書等の文書があるべきことは既に云つた。又仄に
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