港。探勝路逶※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]。」
 壮遊の興は此に至つて未だ尽きなかつた。わたくしは凹巷の詩に就いて、二人の鞋痕《あいこん》を印した道を追尋《つゐじん》することとする。詩にはかう云つてある。「更登高館墟。長吁歎文治。(中略。)唯余中尊寺。遺構纔未※[#「隋/やね/恭のあし」、第4水準2−91−77]。北対琵琶城。衣川長渺瀰。吹雪一関風。風刀劈面皮。帰途海浜険。魂断足胼胝。」
 二人は北上川に沿うて北し、文治の故蹟を高館《たかだち》に訪うて判官義経を弔し、中尊寺に詣で、衣川《ころもがは》を隔てて琵琶の柵の址《あと》を尋ね、一の関に至つて方《まさ》に纔《わづか》に踵《くびす》を回《めぐら》した。琵琶の柵は泉の城の別名である。
 帰路は海に沿うて南し、常陸の潮来《いたこ》に遊んだ。服部南郭の昔俗謡を翻《ほん》した所で、当時猶狭斜の盛を見ることが出来たであらう。後安井息軒が東遊の日に至つてさへ、妓館屋牆《ぎくわんをくしやう》の麗が旧に依つて存してゐたと云ふからである。凹巷の詩には「絃※[#「鼓/兆」、7巻−283−下−11]潮来夕、弛棹水中※[#「土へん+低のつくり」、第4水準2−4−73]」と云つてある。
 江戸に還つてから、霞亭は雨中凹巷を品川に送つた。凹巷の詩に「最記対烟雨、品川泣別離、(中略、)一別茫如夢、爾来歳月移」と云つてある。

     その百四十三

 北条霞亭は北遊より江戸に還つて、韓凹巷《かんあふこう》の西帰を品川に送つたが、其後|幾《いくばく》ならぬに江戸を去つて、相模に往き、房総に往つた。凹巷の詩にかう云つてある。「聞君去江戸。浪迹又何之。(中略)房山与相海。孤往愁可知。(中略)慨然懐往昔。寄我鴻台詩。」
 此等の小旅行の月日は、わたくしは今これを審《つまびらか》にせぬが、北遊の翌年、文化二年の歳の暮に、霞亭が今の上総国|君津郡《きみつごほり》貞元村《さだもとむら》の湯江《ゆえ》にゐたことは明である。渉筆にかう云つてある。「文化乙丑十二月。予遊南総。寓湯江村法岸精舎十余日。予与主僧二人而已。幽僻荒涼。除読書外無一事。一日天寒雪飛。林岫皓然。予緩歩遶庭園。俄而主僧温濁酒一瓶。摘蔬為羹侑予。予喜而謝。細酌間吟。頗得風致焉。蓋主僧憐予岑寂。倩村童遠※[#「貝+(やね/示)」、7巻−284−上−15]得也。一枯禅山僧。能解人意如此。亦可嘉。」法岸寺《はふがんじ》と云ふ寺は今猶湯江にあるか、どうだか。
 相模房総の遊後に、霞亭は再び北して越後に入つた。山陽の墓誌には「又寓越後」の四字が下《くだ》してある。凹巷の詩にはかう云つてある。「去此客于越。章甫未必悲。越人虚席迎。敬待物如儀。(中略)游賞渉春夏。新潟洵所宜。(中略)山水待君顕。文章敵七奇。」
 霞亭の越後に寓したのが、某年の春夏であつたことは、此凹巷の語に由つて知られる。そして某年は必ず文化四年でなくてはならない。何を以て謂ふか。渉筆に載せてある戊辰の記に下の一段があるからである。「去年仲春。主茨曾根関根氏。一夕与主人飲于斎中。大杯満酌。頽然酔倒。不知主人起去。夜将半渇甚。起視則篝燈※[#「勞」の「力」に代えて「火」、第3水準1−87−61]々。寂無人声。啓戸窺庭。雪月争輝。満園之樹如爛銀。予不覚叫奇三声。惟恨無同賞心者。困憶子猷山陰之興。誦招隠詩数回。取雪水煮茶。兀坐達旦。其襟抱之清。不言可知。」茨曾根村《いばらそねむら》は中蒲原郡|白根町《しろねまち》の南にある。丁卯三月に霞亭は茨曾根にゐた。此より後夏を新潟に過したのであらう。
 此北越の遊が文化四年であつたことは、上《かみ》の文を草し畢《をは》つてから、凹巷の北陸游稿を見てこれを確証することを得た。此書はわたくしの曾て一たび蔵して、後これを失ひ、今又一書估の齎し来るに会つて購《あがな》ひ求めたものである。游稿の序は亀田鵬斎が撰んでゐる。其文にかう云つてある。「友人志州北条子譲。丁卯歳先我游于信越之間。為北游摘稿数十篇。上梓以問世。」此に由つて観れば霞亭の游は啻《たゞ》に筆に上《のぼ》せられたのみならず、又|梓《あづさ》にも上せられてゐるのである。
 記して此に至つて、わたくしは再び霞亭南帰の問題に撞著《たうちやく》する。霞亭は越後より南帰して、伊勢国|度会郡《わたらひごほり》林崎に駐《とゞ》まつた。此間の事を叙するに、山陽の筆は唯空間を記して時間に及ばない。
 凹巷の詩には此事を叙してかう云つてある。「異郷雖可楽。故国有厳慈。学成勝衣錦。菽水想怡々。信中攀桟道。帰思日夜馳。別来已八年。訪我顧茅茨。(中略。)経過従此数。咫尺寓林崎。」わたくしは初め「別来已八年」の句を下の「訪我」に連《つら》ねて読んだ。しかし霞亭と凹巷とが奥州より帰つて品川で袂を分つた文化甲子の後八年は、霞亭が嵯峨幽棲の後となる。別来の句は上に連ねて読まなくてはならない。即ち厳慈《げんじ》に別れてより八年である。
 此八年と云ふことは、凹巷が他所に於ても亦云つてゐる。霞亭と其医学の師広岡|文台《ぶんたい》とは、別後久しきを経て再会すべきであつたに、文台は期に先だつて歿した。凹巷の所謂「訪我顧茅茨」の日は、霞亭が此|恨事《こんじ》を閲《けみ》する直前と直後とにあつた。そして此事のあつたのは、霞亭が外にあること八年にして南帰した時であつたと云ふのである。

     その百四十四

 韓凹巷《かんあふこう》の記する所に拠るに、北条霞亭の南帰は、父適斎に別れてより後八年、其医学の師広岡|文台《ぶんたい》に別れてより後十三年であつた。適斎は始終志摩国的屋にをり、文台は初め京都にをつて後伊賀に帰つてゐた。霞亭は寛政九年に京に入つて、享和二年に京を去つたらしい。京にある間は毎歳《まいさい》帰省するを例としてゐて、享和二年にも亦父を見て後に遠遊の途に上《のぼ》つたのであらう。享和二年の後八年は文化七年である。
 霞亭は寛政九年に京に入つて、直に文台に従学した。霞亭は「居無幾、先生帰伊州、予亦雲遊四方、数歳而帰郷、(中略)遂往訪則云、先生以本月朔病歿、今已六日、実文化七年三月也、夫知己相待之殷、以十三年※[#「目+癸」、第4水準2−82−11]離之久、期一見於二百里外、豈意其人既亡、臨之後事、即俾予此行、纔在数日前、尚及其目未瞑也」と云つてゐる。文台は文化七年三月|朔《ついたち》に五十六歳で歿したのである。此渉筆の文より推せば、所謂十三年前は寛政九年で、文台は霞亭と始て相識つた年に、早く既に京を去つたらしい。所謂「居無幾」は一載にだに満たぬ月日であつた。
 霞亭は文化七年三月六日に、伊賀の広岡の家を訪うた。そしてこれは郷里的屋に帰つて若干日《じやくかんじつ》を経た後であつた。上《かみ》に略した文に、「数歳而帰郷、爾来簡牘往来、比々不絶、先生数促予命駕、予亦佇望已久」と云つてある。霞亭は七年の春早く的屋に帰つたかとおもはれる。
 凹巷が文台の事を叙した文は下《しも》の如くである。其中には霞亭が郷を離れて後八年にして帰つたと云ふことと、師に別れて後十三年にして帰つたと云ふことと、両《ふた》つながら見えてゐる。「広岡文台先生伊州人也。嘗在京洛。以医為業。鬱々不得志。久之帰郷。吾友北条子譲寓都下之日。一見即為知己。其後子譲浪遊四方。凡経八年南帰。先生数寄書慰問。率無虚月。今茲庚午三月子譲往訪先生。視履交其門。以為延客宴集。既通姓名。出迎者愀然云。先生罹疾奄逝。今已六日矣。子譲初聞為妄為夢。終乃悲而慟。蓋相別十有三年。訪之不遠二百里。欲一把臂吐其胸臆。而幽明無由再見。豈不悲乎。子譲此行本期前月。余因事泥之。子譲亦遷延不発。卒致此死別。遺憾其謂之何。」
 以上引く所に従へば、霞亭南帰の時は略《ほゞ》推定することが出来るやうである。
 霞亭は文化七年三十一歳にして的屋に帰つた。その家に到り著いたのは、春未だ闌《たけなは》ならざる頃であつただらう。郷を離れてより八年の後であつた。
 次で霞亭は一たび凹巷を伊勢に訪ひ、留まること数日の後、医学の師広岡文台を伊賀国に訪うた。其日は三月六日で、文台は歿して已に六日であつた。別後十三年の事である。
 霞亭は伊賀より伊勢に往いて、又凹巷の家を訪うた。霞亭は自ら「恨歎弥日、帰来過山口聯玉家、説其故」と云ひ、凹巷は「悵然帰来、過予告故」と云つてゐる。「故」とは文台が旧弟子に再会するに及ばずして歿したことを謂ふのである。後者の詩に、「訪我顧茅茨」と云つてあるのは、初度の訪問を斥《さ》して言つたものであらう。
 霞亭は暫く伊勢に留まつた。そして林崎文庫の公吏となつたらしい。山陽は「為勢林崎院長」と書し、凹巷の詩には「経過従此数、咫尺寓林崎」と云つてある。

     その百四十五

 北条霞亭は文化七年庚午三月六日に、伊賀の広岡文台の家を訪うて其死を聞いた。次年八年辛未二月二十一日には嵯峨の竹里《ちくり》の家が出来た。霞亭の林崎生活は此間にあつた筈である。即ち晩春より次年仲春に至る一年の間である。
 然るに韓凹巷《かんあふこう》の詩の此間の事を叙するを見るに、少しく疑ふべき所がある。「経過従此数。咫尺寓林崎。(中略。)紅葉添秋興。翠嵐和晩炊。(中略。)中間又何楽。伴我游洛師。台嶽共登臨。淡雲湖色披。(中略。)朝尋西塔路。山靄帯軽※[#「雨かんむり/斯」、7巻−288−上−7]。下嶽過大原。奇縁遇浄尼。(中略。)采薇弔平后。題石悲侍姫。岩倉又訪花。林曙聴黄※[#「麗+鳥」、第4水準2−94−49]。上舟航浪華。雨湿篷不推。勢南春尽帰。花謝緑陰滋。」林崎生活の中間に洛師の遊が介《はさ》まつてゐて、それが春游であつた。遊び畢《をは》つて伊勢に帰つたのが新緑の時であつた。此春は庚午の春でなくてはならない。辛未の春より初夏に至るまでは、霞亭が已に竹里にゐたからである。
 霞亭は庚午の三月六日に広岡の家で旧師の死を聞いて、後事を営んだ。此間に多少の日子を費したことは、「恨歎弥日」と書したのを見て推せられる。
 此より伊勢の山口の家に来たのだから、其時は早くても三月中旬であらう。そして此より初夏に入るまでに、霞亭は籍を林崎に置き、洛師の遊を作《な》した筈である。果して然らば「紅葉添秋興」の事は、詩に於ては中間の遊に先《さきだ》つて写してあつても、実は中間の遊に後れてゐなくてはならない。此秋は洛師遊後の秋でなくてはならない。
 想ふに林崎院長《りんきゐんちやう》は職に就いた直後に、凹巷を拉して京都に遊んだのであらう。此遊の顛末は、上《かみ》に引いた詩句を除いては、別に見る所が無い。わたくしは唯其中に見えてゐる一の人物を抽《ぬ》き出して、此に註して置く。即ち「奇縁遇浄尼」の句中の浄尼《じやうに》である。
 比丘尼、名は松珠《しようじゆ》、紀伊国人《きのくにびと》であつた。霞亭凹巷の二人が大原に遊んだ時、松珠は寂光院内の寂如軒《じやくによけん》に住んでゐた。そして二人を留めて軒中に宿せしめた。浜野知三郎さんのわたくしに借した書の中に、「芳野游藁」一巻がある。是は此遊に遅るること三年、癸酉の春、凹巷が河崎敬軒、佐藤子文及霞亭と偕《とも》に芳野に遊んだ時の詩巻である。凹巷等が当麻寺《たいまでら》に於て松珠に再会したことは載せて巻中にある。
 霞亭は庚午の夏より冬に至るまで、林崎《はやしざき》にあつて文庫の書を渉猟し、諸生を聚めて経を講じ、又述作に従事した。山陽は「院蔵書万巻、因益致深博」と云つてゐる。凹巷は「堂上散書帙、聚徒垂絳帷」と云つてゐる。渉筆の一書の如きも亦此間に成つた。首に題してかう云つてある。「予読書之次。異聞嘉話。苟有会於心。随即録之。間或附一二管見。(中略。)頃消暑之暇。省覧一過。因抄若干条其中。※[#「「衣」の「なべぶた」の下に「臼」を入れる」、第4水準2−88−19]為冊子。」末《すゑ》に「文化庚午夏日」と記してある。渉筆は秋に至つて刊行せられた。林崎書院《りんきしよゐん》の蔵板である。
 霞亭は文化八年二月に林崎を去つて嵯峨に入つた。嵯峨|樵歌《せうか》は其隠遁生活の記録である。隠
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