庭の一小事を記憶してゐて、後にこれを筆に上《のぼ》せた。それは天明八年に霞亭が九歳であつた時の事である。霞亭に、惟長でない今一人の弟があつて、名は彦《げん》、字《あざな》は子彦《しげん》、通称は内蔵太郎《くらたらう》と云つた。彦は天明四年生で、此年五歳であつた。霞亭が文化戊辰に著した文の渉筆中に収められたものはかうである。「記二十年前一冬多雪。予時髫※[#「齒+礼のつくり」、第4水準2−94−75]喜甚。乃与穉弟彦。就庭砌団雪塑一箇布袋和尚。坐之盆内。愛翫竟日。旋復移置寝処。褥臥視之。其翌起問布袋和尚所在。已消釈尽矣。弟涕泣求再塑之不已。而雪不可得。母氏慰諭而止。後十余年。彦罹疾没。爾来毎雪下。追憶当時之事。其声音笑貌。垂髦之※[#「くさかんむり/威」、第3水準1−91−11]※[#「くさかんむり/(豕+生)」、第3水準1−91−25]。綵衣之斑爛。宛然在耳目。併感及平生之志行。未嘗不愴然悲苗而不秀矣。」
 霞亭が志を立てて郷を出でたのは、寛政九年十八歳の時であつたらしい。詩嚢に「跌蕩不量分、功業妄自期」と云ひ、「不事家人産、遠与膝下辞」と云つた時である。適斎は子を愛するがために廃嫡した。山陽は「以次子立敬承家、聴君遊学」と云つてゐる。此事が霞亭十八歳の時に於てせられた証は、渉筆に自ら「予年十八遊京師」と云ひ、又嵯峨|樵歌《せうか》の首に載せてある五古に韓凹巷《かんあふこう》が、「発憤年十八、何必守弓箕、負笈不辞遠、就師欲孜々」と云ふに見て知られる。樵歌も亦わたくしの浜野氏に借りた書の一である。

     その百四十

 北条霞亭は寛政九年に十八歳にして的屋を出で、先づ京都に往つた。わたくしの狭い見聞を以てするに、文学の師に皆川淇園があり、医学の師に広岡|文台《ぶんたい》があつたことは明である。霞亭は「不事家人産」とは云つてゐるが、初猶伝家の医学を廃せずにゐたのである。
 淇園は人の皆知る所なれば姑《しばら》く置く。文台、名は元《げん》、字《あざな》は子長《しちやう》、伊賀の人である。渉筆に霞亭の自記と、韓凹巷《かんあふこう》の文とがあつて、此人の事が悉《つく》してある。霞亭は文台の平生を叙して、「受学赤松滄洲翁、蚤歳継先人之志、潜心長沙氏之書、日夜研究、手不釈巻、三十年如一日矣、終大有所発揮、為之註釈、家刻傷寒論是也」と云ひ、凹巷は「聞先生終身坎※[#「土へん+稟」、7巻−278−下−1]、数十年所読、唯一部傷寒論、其所発明、註成六巻、既梓行世」と云つてゐる。
 文台は霞亭の初て従遊した時四十三歳であつた。それは十八歳の霞亭が「長予二十五歳」と云つてゐるので知られる。霞亭の云く。「予年十八遊京師。初見先生。時時就質傷寒論之疑義。先生長予二十五歳。折輩行交予。遇我甚厚。毎語人曰。夫人雖少。志気不凡。必当有為。」霞亭のためには、文台は獲易からざる知音であつた。
 霞亭は京都に学んだ頃、心友韓凹巷を獲、又|長孺《ちやうじゆ》、仲彜《ちゆうい》、遠恥《ゑんち》の三人と交つた。長孺は堀見|克礼《こくれい》さんの言《こと》に従へば、清水氏、号は雷首《らいしゆ》、通称は平八ださうである。遠恥、名は恭《きよう》、号は小蓮《せうれん》、鈴木氏、修《しう》して木《ぼく》と云つた。所謂|木芙蓉《ぼくふよう》の子である。仲彜は越後国|茨曾根《いばらそね》の人関根氏であるらしい。長孺、仲彜の事は凹巷の五古に、「幸為同門友、一朝接清規、(中略、)有時過我廬、吟興黙支頤、(中略、)憶曾長孺宅、邀君奏※[#「土へん+員」、第3水準1−15−57]※[#「たけかんむり/「虎」の「儿」に代えて「几」」、7巻−279−上−2]、豪爽人倶逝、長孺及仲彜」と云つてある。遠恥の事は渉筆に、「弱冠負笈西遊、予時在京師、相見定交、同筆硯殆半年」と云つてある。若しその霞亭との交が、早く霞亭京遊の第一年に於てせられたとすると、正に十九歳になつてゐた。
 霞亭は京に上《のぼ》つた年の暮に一たび帰省した。渉筆に云く。「寛政丁巳十二月。予出京赴郷。会天陰風粛。比過山科村。微雪飄瞥。点綴翠竹碧松之梢。寒景蕭散可愛。須臾愁雲四合。雪大如拳。積素満径。幾欲没腰。顛倒踉蹌。走就鶴浜茶店。卸担踞竈。以燎湿衣。少焉風止雲朗。予推窓試観。則天台比良三上諸峰。如白玉削成。園城寺之仏観法塔。如瓊宇瑤台。涌出霄漢之間。湖面一帯。倒暎揺蕩。宛若銀竜矯矯盤旋。令人心胆澄徹。坐作登仙之想。真奇観也。至今一念其境。恍如身在其中。雖盛夏酷暑。煩悶之苦堪頓忘矣。」
 霞亭が京都に遊学してゐた第二年、寛政十年に霞亭の弟|彦《げん》が的屋から出て来た。そして霞亭の友|源※[#「王+攵」、第3水準1−87−88]瑰《げんまいくわい》と云ふものに師事した。渉筆に彦の事を叙して、「寛政戊午遊学京師、師事友人※[#「王+攵」、第3水準1−87−88]瑰源先生」と云つてある。わたくしは未だ北条氏の系譜を見ぬから、彦と惟長と孰《いづれか》長、孰幼なるを知らない。しかし霞亭は自ら彦を称して「予次弟」と云つてゐる。これは直《すぐ》次《つぎ》の弟と解すべきではなからうか。此見解は山陽が「考(適斎)以次子立敬承家」と書したのと或は合はぬかと疑はれる。但し山陽は後に既成の迹より見て筆を下《くだ》したかも知れない。霞亭が遊学したのと、適斎が霞亭の嫡《てき》を廃し、代ふるに惟長立敬を以てしたのとは、必ずしも同時ではないかも知れない。山陽は彦が既に早世してゐたので、其次の惟長を次子と称したかも知れない。源※[#「王+攵」、第3水準1−87−88]瑰は未だ考へない。要するに彦は、歿年より推すに、十五歳にして京都に来り、十九歳の兄霞亭と同居したものとおもはれる。

     その百四十一

 北条霞亭が京都に遊学した第二年、寛政十年には猶霞亭の筆に上《のぼ》つた一条の軼事《いつじ》がある。それは皆川淇園が歿してから一年の後、文化五年戊辰十一月に記して、後渉筆中に収めたものである。「十年前。余在京師。一日従先師淇園先生遊東山。路由京極御門。過一縉紳家門。先生乃指示曰。此万里小路氏也。又指示其西北隅之門曰。建武中。中納言避世。遁北山。微服従此出。其家哀慕其人。不忍出入其門。関鑰不肯啓。雖第邸変徙。旧制尚存。即此。余聞之。恍爾想像当時之艱。吁嗟不能已。爾後毎過其側。未曾不粛爾起敬矣。按太平記。藤房既知諫之不可行。特詣内廷拝帝。比退朝。直赴北山。是或一伝也。」
 霞亭は藤房を以て我国宋儒の最初の一人として尊崇してゐた。通途《つうづ》の説に従へば、始て朱註の四書を講じたものは僧|玄慧《げんゑ》で、花園、後醒醐両朝の時である。然るに霞亭は首唱の功を藤房の師|垂水《たるみ》氏に帰してゐる。わたくしは垂水氏の事を詳《つまびらか》にせぬが、往古唐通詞の家であつたらしい。霞亭は「四書集註、初伝播我邦、垂水広信崇信読之、藤房従而受業、或云、玄慧法師始講之、藤房玄慧同時与交、則其授受固当相通」と云つてゐる。
 遁世後の藤房に就いては、霞亭は妙心寺六祖伝の僧|宗弼《そうひつ》を以て藤房とする説を取つてゐない。即ち今の史家の説に合してゐる。霞亭は一家の想像説を立てて、藤房は北山より近江国三雲に往き、其後越前国鷹巣山に入り、其後土佐国に渡らむとして溺れたやうに以為《おも》つてゐる。其文はかうである。「今以臆推之。三雲之棲。当在出北山之初。何以知之。以地相近。且従者尚在也。鷹巣之事。在三雲之後。土佐之行。又在鷹巣之後。何以知之。以拾遺(吉野拾遺)所言也。」
 霞亭の二十歳になつた寛政十一年の夏、弟|彦《げん》は京都より的屋に帰つて、其秋十六歳で早世した。渉筆に、「翌年(戊午翌年)夏、帰省在家、九月十九日没、年十六歳」と云つてある。
 霞亭は京都を去つて江戸に来た。わたくしは未だ其年月を知らない。山陽は此間の事を、「入京及江戸」の五字中に収めてゐる。或は「及江戸」の三字中と云つた方が当つてゐるだらう。凹巷《あふこう》も亦「飄忽君東去、去舟汎不維」と云つてゐるだけである。しかし京を去つた年は或は享和二年ではなからうか。後庚午の年に、再び広岡|文台《ぶんたい》を訪うて其死に驚く紀事に、「凡経八年南帰」と云つてあるからである。
 霞亭の確に江戸にゐた年は、享和三年である。其二十四歳の時である。此年七月には或は既に入府してゐたやうにおもはれ、十二月には確に在府したことが、その自ら語る所に徴して知られる。
 七月は霞亭の友鈴木|小蓮《せうれん》の歿した月である。渉筆に、「遠恥東帰、開業授徒、享和癸亥七月、病麻疹而没、年纔二十五、府下識与不識、莫不悼惜者、親友輯其遺稿若干篇上木、予亦跋其後、小蓮残香集是也」と云つてある。先づ「府下」の字を下《くだ》し、次で「親友」の字を下し、後に「予亦」の字を以て承《う》けてゐる。わたくしをしてその在府者の語たるを想はしむるのである。
 十二月には霞亭が舟を柳橋に倩《やと》うて、墨田川に遊んだ。同遊者には河崎敬軒があつた。又|池隣哉《ちりんさい》と云ふものがあつた。河崎は十二年の後、菅茶山と共に西帰して、驥※[#「蠢」の「春」に代えて「亡」、第3水準1−91−58]《きばう》日記を著した人である。池は十三年の後、霞亭が廉塾から的屋に帰つた時家にあつて、霞亭と弟惟長とに訪はれた人である。

     その百四十二

 北条霞亭が二十四歳の時、歳晩に舟を墨田川に泛べた記は渉筆に見えてゐる。「予嘗居江戸数年。享和癸亥歳晩。河良佐池隣哉来在府下。一日快雪初霽。予与二子。乗興出遊。遂到柳橋。命舟泛於墨水。両岸人家。白玉合成。銀閣瑤楼出其上。左右映帯。一棹悠々。挙酒賦詩。楽甚。隣哉出所齎香※[#「くさかんむり/熱」、第4水準2−80−7]炉。一縷烟出窓外。真如坐画図中舟。幽遠清澹之趣。※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]与塵凡隔。実一時之勝事也。」亨和中の諸生は香を懐にして舟に上《のぼ》つた。当時の支那文化は大正の西洋文化に優つてゐたやうである。
 霞亭は江戸にあつて学業成就した。そして某藩の聘を避けむがために、奥州に赴いた。偶《たま/\》韓凹巷《かんあふこう》が伊勢国から来て此行を偕《とも》にした。山陽は「学成、一藩侯欲聘致之、会聯玉来偕遊奥、以避之」と云つてゐる。
 此北遊の年月はわたくしの未だ知らざる所である。しかし或は文化元年甲子二十五歳の時ではなかつただらうか。凹巷はかう云つてゐる。「松島偶同遊。柳橋訂此期。独奈河良佐。客中臨路岐。迢々彼遠道。共指天之涯。下毛路向東。十月朔風吹。(中略。)帯月発荒駅。衝雨尋古碑。塩浦過群嶼。宛如局上棋。有楼収全境。眼中無蔽虧。富山又石港。探勝路逶※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]。」わたくしは先づ「柳橋訂此期」の句と、敬軒の別れ去つたことを叙する数句とに注目する。
 わたくしは此詩句を取つて、姑《しばら》く妄《みだり》に下《しも》の如くに解する。霞亭の学術は前年癸亥に略《ほゞ》成つた。歳晩の舟遊は、その新に卒業して気《き》揚《あが》り興《きよう》豪《がう》なる時に於てせられた。柳橋の船宿で艤《ふなよそほひ》を待つ間に、霞亭は敬軒と松島に遊ぶことを約した。即ち「柳橋訂此期」である。然るにかねて契つた敬軒は官事に覊《き》せられて別を告げ、偶《たま/\》来つた凹巷が郷人に代つて行を同じくした。即ち「松島偶同遊、柳橋訂此期、独奈河良佐、客中臨路岐」である。柳橋の約はその訂せられた日より、その果たされた日に至るまで、多少の遷延を蒙つた。甲子の春が過ぎ、夏秋が過ぎた。霞亭と凹巷とが江戸を離れて下野国《しもつけのくに》に入り、路を転じて東に向つたとき、十月の風が客衣を飜した。「下毛路向東。十月朔風吹。」その東に向つたのは、宇都宮附近よりしたことであらう。
 二人は奥州街道を北へ進んで、仙台附近より又東に折れ、多賀城の碑を観た。其日は途中から雨になつた。「帯月発荒駅。衝雨尋古碑。」此より塩釜に遊び、富山《とみやま》に上り、石の巻に出た。「塩浦過群嶼。宛如局上棋。(中略。)富山又石
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