老※[#「享+單」、第4水準2−4−50]※[#「令+栩のつくり」、第3水準1−90−30]。看取分憂勤所職。藩城非是小朝廷。」
蘭軒は此時次韻の作が無かつた。それゆゑ正精の丸山邸に居るに及んで、次年元日の詩に和して、其引に侯の挂冠《くわいくわん》の事を追記した。
その百三十六
此年文政六年十一月二十三日に、菅茶山が書を蘭軒に与へた。書中には多く北条霞亭の歿後の事が言つてある。霞亭は是より先八月十七日に嚢里《なうり》の家に歿した。墓表に「居丸山邸舎三年、罹疾不起、実文政癸未八月十七日、享年四十四、葬巣鴨真性寺」と書してある。茶山の此書は文淵堂蔵の花天月地中に収めてある。
「一筆啓上仕候。時節寒冷催候。愈御安祥御座被成候哉承度奉存候。北条事最早可申ことも無御座候。何さま家内無事に大坂迄著、明廿四日には大かた帰宅可仕やと書状にて申こし折角待ゐ申候。始終段々御世話難申尽候。これは後信にも可申上候。其内急便、先帰宅明日にあり候事を申上候。」
「これも途中いろ/\事有之候。先箱根にて御書付と髪の結《ゆひ》ぶり違候とて引付られ、半日余もかかり候由。(金三歩出し候由。)又|被指添候《さしそへられそろ》足軽|池鯉鮒《ちりふ》之駅にて吐血急症、近隣近郷之医を招候由。(これは三両余の入用と申すこと。)しかし箱根もすみ、池鯉鮒も翌日発足いたす位になりし由、不幸中之幸なるべし。明日帰りて委細不承候内は、往来|上下《じやうか》人足の沙汰計、書状も瑩々とわけきこえかね候故、確然は得信可申上候。」
「何様始終之御邪魔御面倒可謝詞もなく候。先大坂迄帰著の処申上候。鵜川段々世話いたしくれられ候由、此事御申伝尚御たのみ可被下奉願上候。御|内公《うちぎみ》令郎《れいらう》|至おさよどの《おさよどのにいたる》まで、宜《よろしく》御礼奉願上候。恐惶謹言。十一月廿三日。菅太中晋帥。伊沢辞安様。」
「北条妻は私が姪女《てつぢよ》也。ことさらの鈍物、御世話奉察候。初め東行仕候時、(去々年也)心に落着いたさずつらき事、何ごとも必辞安先生に申上よと申遣候。いかが候や覧。」
「用事。」
「北条事に付これはかくせよ、かれはいかゞせよと被仰下たく候。」
「牧唯助《まきたゞすけ》(むかしの臼杵直卿《うすきちよくけい》也)松平冠山様之以状御たのみの事申遣候。うんともすんとも返事無之候。御先方貴人に候へばはやく承度候。御きき可被下候。」
「余に一も申上べき事なし。春以来大旱雨なし。雷は一年一声もきかず候。或云。遙雷はなりたれども老聾《らうろう》きこえざるなりと。筑前は十月廿四日大雷大雨と申こと。雨は八月に少々ふり、其後まだふらず、冬之大旱也。御地は雨しげく候よし、ふるもふらぬもさだめなき世の中也。」
霞亭の妻井上氏は、頃日《このごろ》福田禄太郎さんを介して、黒瀬格一さんに検してもらつた所に徴するに、名は敬《きやう》である。菅波久助の次女、茶山の妹、井上源右衛門の妻にちよと云ふものがあつた。此ちよの三女が敬である。
久助の次男、茶山の弟猶右衛門|汝※[#「木+便」、第4水準2−15−14]《じよへん》に、一子長作万年があつた。万年は初め井上源右衛門の次女さほを娶り、さほの歿後に其妹敬を納れた。万年が歿して、敬が寡居してゐたのを、茶山が霞亭に妻《めあは》せた。
敬が霞亭に随つて江戸に向ふとき、茶山は何事をも蘭軒に相談せよと言ひ含めた。茶山は所謂「鈍物」の上を気遣つて蘭軒に託したのであつた。浜野知三郎さんの語る所に拠れば、辛巳の歳に霞亭は一たび江戸に来て、尋《つい》で神辺へ敬を迎へに帰つたさうである。しかし敬が嚢里の家の落成に先《さきだ》つて来てゐたことは、移居の詩に「家人駆我懶」と云ひ、「団欒対妻孥」と云つてあるを見て知られる。
その百三十七
北条霞亭と其妻敬とが辛巳の歳に江戸に来てから、此年癸未に至るまで、足掛三年の間、蘭軒の家と往来してゐたことは明である。霞亭が菅茶山の書牘を剪《き》り断つて蘭軒に示したことは、上《かみ》に云つた如くである。
しかし敬が果して、茶山の誨《をし》へた如くに、蘭軒を視ること尊属に同じく、これに内事を諮《はか》つたかは疑はしい。少くも此の如き証跡は一も存してゐない。
さて此年八月十七日に霞亭は病死した。主家阿部氏に於ては、正精《まさきよ》が病と称して事を視ざるに至つてから、四五箇月の月日が立つてゐる。霞亭は解褐《かいかつ》以来未だ幾《いくばく》ならぬに死んだ。しかも主家に事ある日に死んだ。其臨終の情懐を想へば、憐むべきものがある。
わたくしは霞亭に痼疾のあつたことを聞かない。其死を致した病は恐くは急劇の症であつただらう。わたくしは唯霞亭が酒を嗜《たし》んだことを知つてゐる。酒を嗜むものは病に抗する力を殺《そ》がれてゐるものである。急病に於て殊にさうである。
霞亭の酒を嗜んだことは、何に縁《よ》つて知つたか。わたくしは頃日《このごろ》浜野知三郎さんに就いて、霞亭の著す所の書数種を借ることを得た。霞亭渉筆は其一である。渉筆に左の二条がある。
「予性疎慢。一切之物。寡所嗜好。唯有酒癖。習以成性。欲止未能。然年歯漸長。節而飲之。亦似不甚害。要之在人。不在酒也。毎誦汪遵詩。九※[#「酉+榲のつくり」、第3水準1−92−88]松醪一曲歌。本図間放養天和。後人不識前賢意。破国亡家事甚多。深以為知言。」
「蜀志諸葛孔明戒子曰。夫酒之設。合礼致情。適体帰性。礼終而退。此和之至。主意未殫。賓有余豪。可以至酔。無致於乱。此言可謂唯酒無量不及乱好註脚。」
わたくしは酒が必ず霞亭に祟をなしたとは云はない。しかし霞亭の酒を説くを見るに、自ら嘲る中に自ら解する意を含んでゐる。わたくしは此を除いては、霞亭の健康を害すべき所以のものを知らぬから、これに言及した。
霞亭は歿して、跡に未亡人敬が遺つた。子は山陽が「生二女、皆夭」と云つてゐるから、恐くは既に亡かつただらう。霞亭の父適斎道有は、霞亭の弟惟長をして家を嗣がしめ、霞亭に分家せしめてゐたから、敬には仕ふべき舅姑《きうこ》は無い。的屋には敬の帰るべき家は無い。山陽は「考以次子立敬承家」と書してゐる。立敬は惟長である。
そこで敬は神辺《かんなべ》の里方へ帰ることとなつた。敬は江戸を立つて東海道にさし掛かつた。然るに江戸より神辺に至る途中に、茶山の書牘に云ふ如く、二三の厄難があつた。
敬は箱根の関に半日余抑留せられた。それは髪の結振《ゆひぶり》が書付と符せぬが故であつた。或は後家らしい髪が途上却つて人の目に附くを憚つて、常体《つねてい》に改めてゐたのであらうか。関の役人は金三歩を受けて、纔《わづか》に敬を放つて去らしめた。当時の吏の収賄である。わたくしは此汚吏の長官の誰なるかを検して見た。此年の役人武鑑に箱根の関所番として載せてあるのは、相模国小田原の城主大久保加賀守|忠真《たゞざね》であつた。或はおもふに当時の吏は例として此の如き金を受け、その収賄たるに心付かずにゐたのではなからうか。
その百三十八
北条霞亭の未亡人敬は僅に箱根の関を踰《こ》ゆることを許されて、池鯉鮒《ちりふ》の駅まで来ると、又一の障礙に遭つた。それは江戸から供をして来た足軽が重病を発したのである。証候《しようこう》は喀血若くは吐血であつた。敬の一行は医を延《ひ》いて治を求め、留宿一日、費金三両で此難をも脱することを得た。
敬等は大坂に著いた。菅茶山は神辺にあつてこれを聞いた。そして書を裁して蘭軒に報じたのである。茶山は敬等が此年文政六年十一月二十四日に神辺に帰り著くことを期してゐた。
江戸には未亡人敬の帰り去つた後、猶|亡《ばう》霞亭のために処理すべき事があつたと見える。茶山は蘭軒に、「北条事に付これはかくせよ、かれはいかがせよと被仰下たく候」と委嘱してゐる。霞亭の葬られた寺の事、北条氏の継嗣の事等であつただらう。巣鴨の真性寺に、頼山陽の銘を刻した墓碣《ぼけつ》の立てられたのは、此より後九年であつた。浜野知三郎さんの言《こと》に拠るに、「北条子譲墓碣銘」は山陽の作つた最後の金石文であらうと云ふことである。霞亭の家は養子|退《たい》が襲いだ。山陽は「河村氏子退為嗣、即進之」と云ひ、「其子進之寓昌平学」と云つてゐる。所謂河村氏は嘗て文部省に仕へた河村|重固《しげかた》と云ふ人の家で、重固の女《ぢよ》が今の帝国劇場の女優河村菊枝ださうである。
霞亭の遺事は他日浜野氏が編述し、併て其遺稿をも刊行する筈ださうである。わたくしは上《かみ》に云つた如く、浜野氏に就いて既刊の霞亭の書二三種を借り得たから、読過の間にわたくしの目に留まつた事どもを此に插記しようとおもふ。人若しその道聴途説《だうていとせつ》の陋《ろう》を咎むることなくば幸である。
山陽は霞亭の祖先を説いて、「其先出於早雲氏」と云つた。霞亭も亦自ら其家系を語つてゐる。渉筆に云く。「昔吾家宗瑞入道。嘗召一講師読七書。首聴三略主将之法務攬英雄之心句。断然曰。吾已領略。其他不欲聞之。英豪之気象。千載如生。而斯語也。実名言也。為将帥者不可不服膺。」軼事《いつじ》は今人の皆知る所である。わたくしの此に引いたのは、その霞亭の筆に上つたためである。
次に山陽は「後仕内藤侯、侯国除」と云つてゐる。そして「志摩的屋人」の句は先祖を説くに先だつて下《くだ》してある。文が頗る解し難い。所謂「内藤侯」の何人《なにひと》なるかは、稍《やゝ》史に通ずるものと雖、容易に知ることが出来ぬであらう。わたくしは山陽が強て人の解することを求めなかつたのではないかと疑ふ。
渉筆に西村|維祺《ゐき》の文が載せてある。霞亭の曾祖父道益の弟僧|了普《れうふ》の事を紀《き》したものである。了普の伝は僧真栄の伝と混淆して、二人の同異を辨じ難い。西村は「子譲初欲自書栄公事、顧命予其撰」と云つてゐる。西村維祺は或は驥※[#「蠢」の「春」に代えて「亡」、第3水準1−91−58]《きばう》日記の西村|子賛《しさん》ではなからうか。此篇は霞亭の世系を説くこと、墓誌に比すれば稍《やゝ》詳である。わたくしはこれを読んで、始て内藤侯とは或は此人ではなからうかと云ふ、微《かすか》なる手がかりを得た。
その百三十九
西村維祺は北条霞亭の曾祖父道益の弟僧了普が事を紀《き》する文にかう云つてゐる。「予友北条子譲先。嘗事鳥羽内藤侯。及侯亡。提家隠于的屋。」此句の下《しも》に、「時北条省為北氏、或称喜多」と註してある。
霞亭の遠祖の主家内藤某は鳥羽に封ぜられてゐた。内藤氏の城池のある鳥羽とは何処か。角利助《すみりすけ》さんの説くを聞くに、鳥羽は的屋より程遠からぬ志摩国鳥羽で、封を除かれた内藤氏は延宝八年六月二十七日に死を賜はつた内藤和泉守忠勝である。
北条氏の的屋に住んだのは、内藤氏の亡びた後である。此時一旦北条を改めて北と云ひ、又喜多とも書した。山陽は「曾祖道益、祖道可、考道有、皆隠医本邑」と書してゐる。要するに曾祖以後は皆的屋の医であつた。道益の弟僧了普は三箇所村|棲雲庵《せいうんあん》に住んで、寛保三年某月二十六日に寂した。然るに此了普と僧真栄との事蹟が混淆して辨じ難くなつてゐる。西村は「栄普二公、其跡迷離」と云つてゐる。唯真栄は享保七年九月七日に寂して、北岡に碑があり、了普は棲雲庵に碑がある。西村は「的是両人」と断じ、「或疑了普学書於真栄、以其善書、世亦直称無量寺也歟」と追記してゐる。越坂《をつさか》の無量寺は真栄終焉の地である。
霞亭の父道有は適斎と号した。山陽は「娶中村氏、生六男四女」と云つてゐる。帰省詩嚢を見れば、適斎は文化十三年丙子に七十の寿宴を開いた。神辺《かんなべ》から帰つて宴に列つた霞亭は、「三弟及一妹、次第侍厳慈」と云つてゐる。寿を献じたものは長子霞亭以下の男子四人と女子一人とであつた。霞亭の弟の中維長立敬は適斎の継嗣である。山陽は「以次子立敬承家」と云つてゐる。
霞亭は安永九年に生れた。適斎が三十四歳にしてまうけた嫡男である。
霞亭は幼《いとけな》かつた時の家
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