あつた。蘭軒は「此本章句方法、彰々全整、而筆勢生動、盈満行界、銭氏所謂原書是也、可謂希世之本哉」と云つてゐる。銭氏とは読書敏求記を著した銭遵王《せんじゆんわう》である。
 蘭軒は元板千金方を狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に獲た。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎はこれを万笈堂《まんきふだう》に獲た。これは亨和中の事であつた。此年癸未に蘭軒は関定能《せきさだよし》と云ふものをして装釘せしめて、自らこれに跋した。「此本二十年前。友人狩谷卿雲為余購得之於書賈英平吉。簡編蠧蝕。古色可愛。不欲繕修改旧。但平生披閲。怕愈就壊爛。頃日倩関定能。背装綴緝。跋以数語。吁余与卿雲。今倶為頒白翁。而尚孜々読書。不異少年之態。則其迂濶於世。固不復疑。毎相対嗤耳。信恬又識。」これが跋の後に低書《ていしよ》せられた識語の全文である。二人の頒白翁《はんぱくをう》は四十七歳の蘭軒と、四十九歳の※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎とであつた。
 蘭軒は又自らその蔵する所の金沢文庫零本千金方にも跋してゐる。しかしこれを書した年月を詳《つまびらか》にしない。「近日倩友人清川吉人※[#「墓」の「土」に代えて「手」、第3水準1−84−88]抄」と云ふより推せば、これを写したものは門人|清川玄道※[#「りっしんべん+豈」、第3水準1−84−59]《きよかはげんだうがい》であらう。

     その百三十三

 此歳文政六年二月十三日には、蘭軒が友を会して詩を賦した。宿題は「看梅」であつた。十七日には蘭軒の季子柏軒が前年間文学に励精したと云ふを以て、阿部正精の賞詞を受けた。事は勤向覚書に見えてゐる。
 同二月十八日に、菅茶山は神辺にあつて、蘭軒に寄する書に追加したかとおもはれる。本書は前日に作つたもので、それは今伝はらない。饗庭篁村さんの所蔵の書牘中に、首《はじめ》に「追書《つゐしよ》」と記した断簡が是である。
 茶山の文は末に「春社《しゆんしや》」と記してある。そして大田南畝の病の事が書いてある。南畝は中一月を隔てて歿した。わたくしは暦道に※[#「りっしんべん+(「夢」の「夕」に代えて「目」)」、第4水準2−12−81]《くら》いが、南畝が歿した年の二月中に八日、十八日、二十八日の戊日のあることを推算し得た。そこで十八日を以て春社となした。
「追書。」
「前日の書に申のこし候こと申上候。先|大蔵謙介《おほくらけんすけ》(牛ごみの南御徒士町とやら承候)下地《したぢ》御とゞけ被下候|賜《たまもの》もあり。宜奉願上候。下地といへば江戸にては蕎麦の汁などを申候。備後にては由来をいふ。笑申候。」
「華御座《はなござ》は届申候哉。これは山南《さんな》と申処にて出来《いでく》。神辺をさること五里。(日本里程。)かの方にしる人有之、宜くたのむと申遣し候。(凡《おほよそ》たたみ類の事あちらは黒人《くろうと》也。こちらはしらず候ゆゑ也。)勿論|浦郷《うらざと》にて便も宜候故也。私添書どもなきをあやしむことなかれ。」
「矢代太郎様御安祥に被遊御座候哉。乍憚宜奉願上候。去年か御伝言被下候御礼も奉頼上候。豊後人田辺|主計《かぞへ》と申ものへ御書通、私へも宜《よろしく》と被仰下候由、其方より申来候。前年さし上候うたは御届被下候覧と奉存候。」
「去年長崎名村新八てふをのこ参候。于今《いまに》滞留に候はば御次《おんついで》に宜奉願上候。之子《このし》いかなる用事に候哉。」
「此余申上べき事なし。大田之御病人様いかが。御左右《おんさう》承度候。恐惶謹言。春社。菅太中晋帥。伊沢辭安様。」
「去年狂詩被遣、人にはなしをかしがらせ候。あんなもの又出候はば御こし可被下候。」
「蜀山人先生御病気のよし御次に宜奉願上候。御病状も承度候。衰老は同病也。失礼ながら相憐候かた也。敬白。」
 大蔵謙介はわたくしは其人を詳《つまびらか》にせぬが、その茶山集に見えてゐる大蔵|謙甫《けんほ》と同人なることは明である。茶山が甲戌に江戸に再遊した時、謙甫は重陽に牛込の家に招飲した。此書を裁する前年壬午「九日独酌」の詩に自註がある。「甲戌是日。同黒沢正甫、立原翠軒、平井可大。飲大蔵謙甫牛門宅。主客今並無恙。独可大不在。」此会は好記念であつたと見えて、其詩に「老来佳節幾歓場、最憶牛門九日觴」と云つてある。翠軒は甲戌に七十一歳で小石川の水戸邸内|杏所《きやうしよ》甚五郎の許にゐた。壬午重陽には七十九歳であつたが、茶山の此書を裁する四日前に八十歳で歿した。詩中「年年縦継藍田会、無復当時杜少陵」は可大《かだい》を悼んだのである。牛込を「うしごみ」と書した例は当時の文に多く見えてゐる。
 大蔵は嘗て茶山に何物をか贈つたことがある。所謂「下地御とどけ被下候賜」である。
 次に謂ふ華蓙《はなござ》は茶山が大蔵に贈つたものか、或は蘭軒に贈つたものか、不明である。何故と云ふに、此条と前の下地の条との間には空白を存ぜず、只行を更めてあるのみで、次の矢代太郎の事は特に行を隔てて記してあるからである。
 華蓙の産地は沼隈郡山南《ぬまくまごほりさんな》である。此郡と御調郡《みつきごほり》とが御荘蓙《みしやうござ》を産する。所謂備後表である。茶山は山南の地名に特に傍訓を附してゐる。

     その百三十四

 屋代|弘賢《ひろかた》は此年癸未の武鑑に「奥祐筆所詰、勘定格、百五十俵高、神田明神下、屋代太郎」と記してある。年は六十六であつた。弘賢は前年壬午に豊後の人田辺|主計《かぞへ》に書を与へた時、田辺をして菅茶山の起居を問はしめた。又同じ年に茶山は歌を弘賢に贈つた。茶山の書牘には「去年か」と書し、又「前年」と書してあつて、思ひ出づるまに/\筆を下した痕が見える。茶山は屋代を矢代に作つてゐる。
 名村新八は長崎の人で、壬午に神辺を経て江戸に来た。此人が江戸にあつて何事をなしたかは、書を作つた茶山も知らなかつた。「之子いかなる用事に候哉」と疑つてある。
 最後に茶山の書牘には大田南畝が出でてゐる。既に「大田之御病人様いかが、御左右承度候」と書し、又「蜀山人先生御病気のよし(中略)御病状も承度候」と書してある。わたくしは猝《にはか》に見て、大田の病人と蜀山人とは別人ではないかと疑つた。しかし熟《つく/″\》おもへば同人であらう。僅に数行を隔てて同じ事を反復してゐるのは、忌憚なく言へば、老茶山の健忘のためかと推せられる。
 三月二十五日に蘭軒の女《ぢよ》順《じゆん》が、生れて四歳にして夭折した。蘭軒は既に文化二年に長女|天津《てつ》を喪《うしな》ひ、九年に二女智貌童女を喪ひ、今又四女順を喪つた。剰す所は三女長のみである。勤向覚書にかう云つてある。「三月廿六日末女病気之処養生不相叶今暁丑中刻病死仕候処、七歳未満に付三日之遠慮引仕候旨、合御触流を以及御達候。」此に二十六日と云つてあるのは届出の日である。先霊名録には実を伝へてかう云つてある。「二十五日。花影禅童女。名阿順。芳桜軒妾腹之女也。母佐藤氏。文政六年癸未三月歿。」
 春夏の交《かう》に阿部侯正精は病気届をしたかとおもはれる。次の年の蘭軒の詩引に、「客歳春夏之際、吾公嬰疾辞職」云云と云つてあるからである。正精は文化元年に奏者番にせられ、三年に寺社奉行を兼ね、十四年に老中に列した。渡辺修二郎さんはかう云つてゐる。「正精閣老たること殆ど七年、公正廉潔を以て聞ゆ。時に同僚水野忠成君寵を得、権威を振ひ、専ら事を用ゐ、請託公行《せいたくこうかう》す。正精忠成が行ふ所を見てこれを是とせず、意見相|協《かな》はず、因て病と称して職を辞す。」忠成は沼津の城主水野出羽守である。正精は病と称したとは云つてあるが、事実上にも身体に多少の違例があつたことは、下《しも》に記す如くである。正精の解綬は冬の初に至つて纔に裁可せられた。
 八月|朔《ついたち》の蘭軒が覚書に阿部侯の病の事が記してある。「八月朔日、殿様御不快中拝診被仰付候に付、爰元御門並丸山表御門刻限過出入共定御移被下候様、岡西玄亭を以及御達候処、勝手次第と被仰聞候。」爰元《こゝもと》は西丸下の老中屋敷、丸山は中屋敷である。尋《つい》で十月十一日に正精は老中を免ぜられた。蘭軒の詩引には「至冬大痊」と云つてある。正精の違例は甚だ重くはなかつたと見える。
 詩引に「幕府下特恩之命、賜邸於小川街、而邸未竣重修之功、公来居丸山荘、荘園鉅大深邃、渓山之趣為不乏矣、公日行渉為娯」と云つてある。江戸図を検すれば、神田の阿部邸は正精の未だ老中にならなかつた前と、その既に老中を罷めた後と、同じく猿楽町の西側にある。蘭軒が「賜邸」と書したのは故ある事であらうが、福山藩の人に質《たゞ》さなくてはわからない。それはとまれかくまれ、正精は西丸下より小川町に移る中間に、一たび丸山邸に入つたのである。

     その百三十五

 阿部正精は将《まさ》に老中の職を罷めむとする時詩を賦した。「癸未以病辞相、短述※[#「てへん+慮」、第4水準2−13−58]懐」として七律一首、又「同前七絶八首」として聯作の絶句がある。末《すゑ》には「文政六年歳次癸未秋九月下澣、阿正精藁」と署してある。
 此詩は正精が自ら書して古山静斎に与へた。後正精の六男正弘は、静斎の子善一郎のために、「牆羮」の二字を巻首に題した。後漢書の「昔堯※[#「歹+且」、第3水準1−86−38]之後、舜仰慕三年、坐則見堯於牆、食則覩堯於羹」に取つたのである。
 七律に云く。「半歳寥寥久抱痾。一朝解綬意蹉※[#「足へん+它」、第3水準1−92−33]。欲抛人世栄名累。難奈君恩眷寵多。庭際霜寒飄老葉。池頭秋晩倒枯荷。回思二十年間夢。浩歎※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]駒隙過。」第七の下《しも》に「甲子蒙典謁之命、丙寅兼領祠曹、丁丑陞相位、通前後廿年」と註してある。二十三字の官歴である。
 絶句に云く。「抛擲世紛半歳余。繩床一臥愛間居。解官猶在城門内。無復邸前停客車。」第一は蘭軒の「春夏之際」と書した文と符する。免罷の未だ発表せられぬに、門前客が絶えた。九月には猶|西丸下《にしまるした》にゐたのである。「又。陸雲之癖癖做病。一擲功名此挂冠。憶得春秋五十夢。猶疑身是在邯鄲。」正精は四十九歳であつた。第三ある所以である。「做病」は或は「為※[#「やまいだれ+單」、第4水準2−81−74]」の誤ではなからうか。「又。一年沈痼尚難痊。避位避官本任天。縁是君恩深到骨。未能采薬去従仙。又。菊砕蘭摧各一時。人間変態総如此。尚存憂国愛君意。毎使夢魂夜夜馳。」「此」は「斯」に作るべきである。「又。七年相位夢初醒。解綬一朝意自寧。遮莫斯身辞眷寵。儘将風月送余齢。又。病躯却喜出塵寰。得告一朝免綴班。門外雀羅設猶未。南窓翻帙領清間。又。陸癖作痾十月余。翻将翰墨付間居。看他多少男児輩。何事営営索世誉。又。春秋已届五旬齢。病鶴離群似鏃※[#「令+栩のつくり」、第3水準1−90−30]。疇昔飛鳴九天上。夢魂時復到朝廷。」
 茶山の集に「恭次公製辞相短述一律八絶句瑤韻」の作がある。七律。「中歳抽簪為病痾。七年重較豈蹉※[#「足へん+它」、第3水準1−92−33]。官途憂思随時在。人世歓場到処多。自有名園開緑野。不関初服製青荷。久将恩沢流寰宇。非是光陰徒爾過。」絶句其一。「苑在城中十頃余。紅塵不染似山居。尋涼月径試間歩。愛暖花陰停小車。」其二。「明時賢哲晦終難。赤※[#「くさかんむり/市」、第3水準1−90−69]何曾称褐冠。伯予宜重位山岳。呂翁漫説夢邯鄲。」其三。「賜休半載病初痊。行薬東橋二月天。晴院嬌鶯鳴哈哈。午階狂蝶舞僊僊。」第一は蘭軒の「至冬大痊」の文と符する。其四。「芹宮憶昔息遊時。東魯多賢乃取斯。不怪他年枢要路。王良特地範駆馳。」其五。「捧誦瑤篇愁始醒。緩声忻見体中寧。祈君不改台池楽。延寿能同亀鶴齢。」其六。「隠棲何必水雲寰。貴爵仍従鴛鷺班。碑帖庫添新巻第。琴詩客会旧遊間。」其七。「投間始得事三余。却見臣僚警逸居。都下日伝輿誦美。公偏百計避声誉。」其八。「暫辞鳳穴未頽齢。寧比仙禽
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