る。且詩の云ふ所が、菊池五山の叙する所と概ね符合してゐる。二者の同一人物たること、殆ど疑を容れない。
五山の言《こと》は磐谷《はんこく》の大父《たいふ》まで溯つてゐて、三世以上に及ばない。しかし蘭軒の「君家先世称雄武、遺訓守淳猶混農」と云ふより推せば、磐谷の祖先は武士であつただらう。さて蘭軒の「賑※[#「血+おおざと」、第4水準2−88−4]郷隣経奕葉」と云ふは、五山の所謂「累世好施」である。その「優游翰墨托高踪」と云ふは、五山の挙ぐる所の禅を修め詩を誦した祖父覇陵と、学を好み書を蔵した父台州とである。わたくしはこれを符合と看るのである。想ふに磐谷は江戸にある間、五山と交つた如くに、又蘭軒とも交つたのであらう。
磐谷に別るる詩の次には、高某《かうぼう》を弔する詩がある。「壬午九月十有二日、為亡友高君子融小祥期矣、同社諸彦賦感秋詩、述思旧之情、余亦賦一律以奠。秋光何事偏愴心。駒隙一年成古今。嘉穀秀苗嗟不実。素琴清調失知音。朱黄課減書堂上。鴎鷺盟寒墨水潯。自慚驢鳴呈醜態。難酬歳月友情深。」第五の下に「余校書之際、君時助対讐」と註し、第六の下に「嘗与君約墨水舟遊、而遂不果」と註してある。
高某、字《あざな》は子融、何《いづれ》の許《ところ》の人なるを知らない。蘭軒と文字の交を訂し、時に其校讐の業を助けた。文政四年九月十二日に歿した。頼菅二家の集に高孺皮《かうじゆひ》、高子彬《かうしひん》、高叔鷹《かうしゆくよう》があり、五山の詩話に高公嵩《かうこうすう》、高初暹《かうしよせん》、高凡鳥《かうぼんてう》、高俊民《かうしゆんみん》、高聖誕《かうせいたん》、高石居《かうせききよ》、高文鳳《かうぶんほう》があり、竹田の集に高嵩谷《かうすうこく》、高暘谷《かうやうこく》、高寸田《かうすんでん》がある。しかし字を子融と云ふものを見ない。原来氏を高と修するものが必ずしも同姓ではないのだから、捜索は容易で無い。
冬に入つて蘭軒の嫡子榛軒が阿部正精に召されて何事をか命ぜられた。勤向覚書に下の文がある。「十月廿九日、明朔日悴良安御用之儀御坐候間、私召連四時御坐敷え可罷出旨御達書到来に付、奉畏候旨及御請候。前条に付私召連可罷出処、足痛に付難召連候間、御医師成田玄琳を以左之通及御達候。口上之覚。私悴良安儀明朔日御用之儀御座候に付召連可罷出処、足痛に付皆川周安差出申候、此段御達申上候以上。十月廿九日。伊沢辭安。」
その百三十
蘭軒の動向覚書に拠るに、其嫡子榛軒は此年文政五年十月二十九日に阿部侯正精の召状《めしぢやう》を受けた。そして翌十一月|朔《ついたち》に医官成田|玄琳《げんりん》に率ゐられて登庁した筈である。然るに榛軒は其日に何事を命ぜられたか、覚書に記載を闕いてゐる。
按ずるに歴世略伝榛軒の部に、「文政四年七月二十八日備中守阿部正精公侍医」と記《しる》してある。しかし覚書に徴するに、辛巳七月二十八日は初謁の日である。或は榛軒は初謁と同時に任官したかも知れぬが、わたくしは辛巳の紀事に疑を存じて筆せずに置いた。そして窃に榛軒が辛巳七月二十八日に初謁し、壬午十一月朔に任官したのではないかと思つてゐる。
十二月二十一日には蘭軒の季子柏軒が藩の子弟に素読を授け、且これをして復習せしめたと云ふを以て、阿部侯の賞を受けた。勤向覚書の文は下《しも》の如くである。「十二月廿一日次男盤安学問所え月に八九度出席五経之素読教遣、其上宅にて浚いたし遣候に付、金二百疋被成下候。」柏軒は時に年|甫《はじめ》て十三であつた。
二十三日に蘭軒は例の如く医術申合会頭たる故を以て金を賜はつた。覚書の文は略する。
冬の詩は集に載するもの凡《おほよそ》四首である。中に「病中偶成」の作がある。蘭軒の起居を知らむがために此に抄出する。「遊事久無問酔醒。兼旬臥病寂山※[#「戸の旧字/炯のつくり」、第3水準1−84−68]。更恐飲膳多成祟。欹枕時時検食経。」最後に「閑中書事」の五律二首がある。其前なるは尚枳園の書であるに、後なるは蘭軒の自筆に復《かへ》つてゐる。前者の三四は「壁挂唐碑幅、架蔵宋板書」である。病める蘭軒を慰むるものは、此|古搨本《こたふほん》古槧本《こざんほん》であつただらう。
菅氏では此年茶山が七十五になつた。わたくしはその一|載間《さいかん》の詩を読んで、事の間接に蘭軒に関するものあるを見出した。それは文化甲子七月九日の墨田川|舟遊《ふなあそび》の記を補ふべき事である。
舟遊には犬冢印南《いぬづかいんなん》と茶山との両先輩の下に、蠣崎波響《かきざきはきやう》、木村|文河《ぶんか》、釧雲泉《くしろうんせん》、今川槐庵及蘭軒が来り集つた。しかし誰が何時此遊を企てたか未詳であつた。然るに此遊の発端が茶山の「憶昔三章呈蠣崎公子」の詩中に詳叙せられてゐる。
此詩は茶山と波響との交を知る好資料であつて、啻《たゞ》に甲子舟遊の発端を見るべきのみでなく、寛政より文政に至る間の二三聞人の聚散の蹤《あと》がこれに由つて明められる。
京都の相国寺に維明《ゐめい》といふ僧がゐて、墨梅《ぼくばい》を画くことを善くした。名は周圭《しうけい》、字《あざな》は羽山と云つたのは此人である。茶山と波響とは始て維明が庵室に於て相見た。其席には僧|六如《りくによ》と大原|呑響《どんきやう》とが居合せた。「憶昔与君始相逢。維明道人読書槞。座有六如及呑響。主客並称詩画雄。」此会合は寛政五年であつたらしい。何故と云ふに、後に甲子の舟遊を叙するに及んで、茶山は「君道平安分手時、不期生前首重聚、十一年後忽此歓、安知他年不再晤」と云つてゐるからである。わたくしは草卒に推算したから誤があるかも知れぬが、当時六十三歳の主人維明の許で、四十六歳の茶山と二十四歳の波響とが相識になつたのである。
甲子の歳に茶山は江戸に来て、柴野栗山の家で波響と再会した。それは雷雨の日であつた。「憶昔与君会東武。栗山堂上正雷雨。」次で二人は又犬冢印南の家で落ち合つた。そして舟遊の計画が此に胚胎したのである。
その百三十一
わたくしは菅茶山の此年文政五年に蠣崎波響に贈つた詩に拠つて、蘭軒等の甲子舟遊の端緒を究めようとした。詩の云ふ所はかうである。茶山は甲子の歳に江戸に来て、波響と一たび柴野栗山の家に会し、再び犬冢印南の家に会した。犬冢の家で二人は夜の更けるまで昔語《むかしがたり》をして、さて主人と三人川開の日に墨田川に舟を泛べて遊ぶことを約した。蘭軒は誘はれてこれに加はつたのである。「更集冢翁木王園。夜半忘帰泣道故。坐上刻日謀舟遊。新旧相結尽仙侶。泝到綾瀬出塵囂。叢葦覆岸烟生午。沿下柳橋入笙歌。万燈映波夜無暑。」わたくしは嘗て当時茶山の詩が烟火戯《えんくわき》を言はぬことに注目したが、此詩を作るに至つても、茶山は尚飽くまでこれを言ふことを避けてゐる。
甲戌の歳に茶山が再び江戸に来た時には、波響蠣崎将監の宗家の当主松前若狭守|章広《あきひろ》が陸奥国伊達郡梁川の城主になつてゐて、波響は章広に従つて梁川に往つてゐた。「憶昔東武再遊時。君従移封阿武※[#「さんずい+眉」、第3水準1−86−89]。両地比旧差為近。卸鞍先報我新来。阿武東武猶千里。君云相告何太遅。置郵時時説近況。十書一面非可比。我去君来如相避。秋鴻春燕巧参差。」阿武は阿武隈川である。
茶山の詩は往迹《わうせき》を説き畢《をは》つて現状に入つた。此年壬午の状況に入つた。「近聞朝旨新賜環。箪壺争迎旧君帰。巨鎮懸海拠要衝。近接蝦夷遠赤夷。非是故封恩信洽。北門鎖鑰守者誰。万人歓喜独我恨。我恨音信更応稀。」環を賜ふは荀子の「絶人以※[#「王+夬」、第3水準1−87−87]、反絶以環」を用ゐたもので、松前家が一たび松前の封を失つて、又これを復したことを謂ふ。幕府が章広に蝦夷の地を還付したのは前年辛巳の十二月七日であつた。
頼氏では此年山陽が三本木の水西荘に遷つた。「棲息有如此。足以※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]素情。」聿庵元協《いつあんげんけふ》が寺川氏を娶つた。
此年蘭軒は四十六歳、妻益四十歳、子女は榛軒十九、常三郎十八、長九つ、順三つであつた。
文政六年は蘭軒の家に於て平穏に迎へられた。「癸未元日。忘老抃忻復値春。城烟山靄自清新。纔因椒酒成微酔。蘇得三冬凍縮身。」茶山は此「元日」に神辺一|郷《がう》の最長者となつたのださうである。「鶴髪※[#「白+番」、7巻−262−下−11]々映羽觴。屠蘇憶昨最先嘗。酔聞童子談耆旧。驚殺吾齢長一郷。」
「豆日草堂小集」は雪後《せつご》であつた。「雪融烟淡鳥相呼」の句がある。
二十二日に蘭軒は元板千金方の跋を書した。署して「文政癸未孟春廿二日伊沢信恬識」と云つてある。跋の後に更に数行の識語を著けて、「信恬又識」と再署してある。
千金方は、上《かみ》の医範の条に云つた如くに、唐の孫思※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]《そんしばく》の撰に係る。「思※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]嘗謂。人命至重。貴於千金。一方済之。徳躋於此。故所著方書以千金名。」孫の遺す所の書は此千金方三十巻と脈経一巻とであつた。
然るに千金方の唐代の真を存してゐるものは、和気氏所伝の古抄本一巻があるのみである。即三十巻中の第一巻で、「処士孫思※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]撰」と題してある。此本は後に躋寿館に帰し、蘭軒も亦別に一本を影写した。
次に三十巻全備の本に宋槧《そうざん》と元槧《げんざん》とがある。彼は北条顕時が求め得て金沢文庫に蔵してゐたもので、北宋所刊のものたる証迹が明である。蘭軒はこれを見るに及ばなかつた。後嘉永二年に至つて、幕府が躋寿館に命じてこれを覆刻した。そして多紀※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》等が校定の事に当つた。
その元槧本は則ち蘭軒の跋する所のものである。
その百三十二
蘭軒が此年文政六年に跋した千金方の元槧本は、後年世に出でた宋槧本には劣つてゐても、蘭軒の時にあつては、三十巻の全本中最善本として推すべきものであつた。
支那に於ては、清の康※[#「冫+熈」、第3水準1−14−55]雍正の頃に至るまで、猶善本を存してゐた証がある。銭曾《せんそう》の読書敏求記《どくしよびんきうき》、張※[#「王+路」、第3水準1−88−29]《ちやうろ》の千金方衍義の云ふ所の如きが是である。既にして乾隆中四庫全書提要の成つた時には、三十巻の善本は既に佚してゐた。降つて嘉慶に至つて、銭※[#「にんべん+同」、第3水準1−14−23]《せんどう》も亦崇文総目に於て乾隆の旧に依つてゐる。
然らば善本に代つて支那に行はれたのは、いかなる本か。それは所謂道蔵本と道蔵本に変改を加へたものとである。蘭軒はかう云つてゐる。「道家者流。要抗仏蔵之浩瀚。自嫌其書寡少。妄析其巻。虚張其目。如他素問。素廿四巻。分為五十巻。玄珠密語十巻。分十七巻之類。」
千金方の道蔵本は即ち九十三巻の嘉靖本で、四庫全書の収むる所である。
嘉靖本は我国に於ても亦飜刻せられた。これが万治本である。普通本は舶載嘉靖本と万治本とである。
猶我国には天明本がある。これは嘉靖本を変改して三十巻とし、題して元板飜刻と云ひ、京都に於て刊行した。
此の如く千金方は、支那に於ても我国に於ても、偽本のみ行はれてゐることゝなつた。それゆゑ金沢文庫の零本第一巻の貴いことは論なく、次に三十巻全備の書としては、北宋槧本の未だ世に出でざる間は、元槧本を以て第一に推さなくてはならなかつたのである。
只蘭軒の時には猶明の正徳中の刻本があつて、これは元槧本の旧に依つたものであつたが、それだに容易には獲られなかつた。蘭軒は「巻数体裁、与元板同、世不多有、而字形陋拙、刻様※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1−94−76]悪、蓋為坊本」と云つてゐる。
元槧本はこれに反して、頗る意を校刻に用ゐたもので
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