に還り、其夜燈下に此文を草する。昼間《ちうかん》観た油画に児童が石蒜|数茎《すうかう》を摘んで帰る図があつて、心にこれを奇とした。そして夜蘭軒の詩を閲《けみ》して、又此花に逢つたのである。石蒜は和名したまがり、死人花《しびとばな》、幽霊花等の方言があつて、邦人に忌まれてゐる。しかし英国人は其根を伝へて栽培し、一盆の価《あたひ》往々数|磅《ポンド》に上《のぼ》つてゐる。
その百二十六
此年文政四年秋の蘭軒の詩は、上《かみ》に云ふ所の外、猶八首ある。其中に嫡子榛軒と真野冬旭《まのとうきよく》との名が見えてゐる。
榛軒は或日友を会して詩を賦した。此時父蘭軒が秋の七草を詠じた。わたくしは此にその「秋郊詠所見七首」の引を抄出する。「古昔寧楽朝山上憶良詠秋野花草七種。載在万葉集。其所詠皆是清淡蕭灑。可愛之種。実足想韻士之胸襟也。近時人間或栽而為賞。画而為観。秋七草之称。於是乎為盛矣。抑亦古学之所風靡。而好事之所波及也歟。一日児厚会詩友数輩。以秋郊詠所見為題。余因賦秋野花草七種詩。」所謂七種は胡枝花《はぎ》、芒《すゝき》、葛《くず》、敗醤花《をみなへし》、蘭草《ふぢばかま》、牽牛花《あさがほ》及|瞿麦《なでしこ》である。わたくしの嘗て引いた蘭の詩二首の一は此七種の詩中より取つたものである。
真野冬旭は或日向島の百花園に遊んで詩を賦し、これを蘭軒に示した。蘭軒の「次韻真野冬旭題墨田川百花園詩」の作はかうである。「久無病脚訪江干。勝事索然奈老残。何料花園四時富。佳詩写得与余看。」当時百花園は尚開発者|菊塢《きくう》の時代であつた。菊塢は北平《きたへい》と呼ばれて陸奥国の産《うまれ》であつた。人に道号を求めて帰空《きくう》と命ぜられ、其文字を忌んで菊塢に作つたのだと云ふ。此菊塢が百花園を多賀屋敷址に開いたのは、享和年間で、園主は天保の初に至るまでながらへてゐたのである。
冬が来てからは、只「冬至前一日余語君天錫宅集」の七絶一首が集に見えてゐる。此日余語の家には、瓶《へい》に梅菊《ばいきく》が插してあつたので、それが蘭軒の詩に入つた。歳晩に近づいては、詩集は事を紀せずして、勤向覚書が僅に例年の医術申合会頭の賞を得たことを伝へてゐる。歳晩の詩は此年も蘭軒集中に見えない。
阿部家では此年三男寛三郎|正寧《まさやす》が正精《まさきよ》の嗣子にせられて、将軍家斉に謁見した。これは嫡男|正粋《まさただ》が病を以て罷められ、次男が夭札《えうさつ》したからである。勤向覚書に下の文がある。「十一月十三日、寛三郎様御嫡子御願之通被為蒙仰候、依之為祝儀若殿様え組合目録を以御肴一種奉差上候。同月廿九日、悴良安、此度若殿様御目見被仰上候為御祝儀御家中一統へ御酒御吸物被成下候に付、右同様被成下候旨、大目付海塩忠左衛門殿御談被成候間、御酒御吸物頂戴仕候。同年十二月朔日、若殿様御目見被仰上候為御祝儀、殿様若殿様に組合目録を以御肴一種宛奉差上候。」
菅氏では此年茶山が七十四歳になつてゐた。詩集を閲《けみ》するに、茶山は春の半に北条霞亭の志摩に帰省するを送つてゐる。これは東役《とうえき》の前に故郷に還つて、別を親戚に告げたのであらう。同日|偶《たま/\》山県貞三と云ふものは平戸に、僧|玉産《ぎよくさん》と云ふものは近江に往つたので、祖筵の詩に「花前一日一尊酒、春半三人三処行」の句がある。又茶山集中の五律に「蛇年今夜尽、鶴髪幾齢存」の句のあつたのが、此年の暮である。
頼氏では山陽が此年木屋町の居を営んだ。「吾儂怕折看山福。翻把琴書移入城。」
小島氏では此年|尚質《なほかた》が番医師にせられ、森氏では枳園立之《きゑんりつし》の父|恭忠《きようちゆう》が歿した。後に小島氏の姻戚となる塙氏では保己一が歿した。
此年蘭軒は四十五歳、妻益は三十九歳、子女は榛軒十八、常三郎十七、柏軒十二、長八つ、順二つであつた。
その百二十七
文政五年の元日には江戸は雪が降つて、夕《ゆふべ》に至つて霽《は》れた。蘭軒は例に依つて詩を遺してゐる。「壬午元日雪、将※[#「日+甫」、第3水準1−85−29]新霽、天気和煦、即欣然而作。梅花未発雪花妍。方喜新年兆有年。不似三冬寒気沍。瑤台玉樹自春烟。」尋《つい》で「豆日艸堂集」も亦雪の日であつた。五律の前半に、「入春纔九日、白雪再霏々、未使花香放、奈何鶯語稀」と云つてある。
菅茶山の集には歳首の詩が闕けてゐる。七日に至つて「初春逢置閏、四野未浮陽」、又「誰家挑菜女、載雪満傾篋」の句がある。これは「人日雪」と題する五律の三四七八である。第三は此年に閏《うるふ》正月のあつたことを斥《さ》すのである。此春の初は神辺《かんなべ》も亦寒かつたものと見える。
勤向覚書を見るに、「二月廿五日、次男盤安去年中文学出精に付奉蒙御意候」の文がある。柏軒は辛巳中例の如く勉学を怠らなかつたのである。
三月四日に蘭軒は向島へ花見に往つた。「上巳後一日早行、墨田川看花、帰時日景猶午、与横田万年同賦」として五絶がある。横田万年は門人宗禎であらうか。又は其父宗春であらうか。門人録横田氏の下《もと》には十の字内藤と註してある。十の字内藤とは信濃国高遠の城主たる内藤氏で、当時の当主は大和守|頼寧《よりやす》であつた。初めわたくしは十の字内藤の何れの家なるを知らなかつたが、牛込の秋荘《しうさう》さんが手書して教へてくれた。詩は此に末の一首を録する。「看花宜在早朝清。露未全晞塵未生。一賞吾将帰艇去。俗人漸々幾群行。」
茶山は此歳首に書を蘭軒に寄せずに、三月九日に至つて始て問安した。其書は文淵堂所蔵の花天月地中に収められてゐる。
「今歳《こんさい》は歳始の書もいまだ差上不申哉。老衰こゝに至り候。御憐察可被下候。又御一笑可被下候。吾兄愈御達者、合家《がふか》御清祥は時々承候。拙家も無事に御座候。御放念可被下候。ことしの春も昔の如くに過候。かくて七十五にも相成候。前路おもふべし。」
「市野篤実北条を動かし候由、奇と可申候。狩谷は橋梓《けうし》ともにさだめて依旧候覧《きうによりそろらむ》。ことしは西遊はなきや。御次《おんついで》に宜奉願上候。去年宮島よりいづかたいかなる遊びに候ひしや承度候。さて御次に古庵様市川子成田鵜川(近得一書未報)諸君へ宜奉願上候。梧堂は杳然《えうぜん》寸耗《すんばう》なし。いまだ東都に候哉。もはや帰郷に候哉。もしゐられ候はば宜御申可被下候。松島の画題は届候哉。種々旧遊憶出候而御なつかしく奉存候。御内上様《おんうちうへさま》おさよどのへも御次に宜奉願上候。妻も宜申上よと申候。恐惶謹言。三月九日。(正月二日|祁寒《きかん》、硯に生冰《こほりをしやうず》。そののち尋常。花朝前《くわてうぜん》一夕雷雨めづらしく、二月廿三日小地震、三月八日亦小地震。其外なにごともなし。)菅太中晋帥。伊沢辞安様。」
「令郎様高作驚目申候。実底に御読書あれかしと奉存候。才子は浮躁なりやすきものに候。」
その百二十八
菅茶山が「かくて七十五にも相成候」と書した此年壬午三月九日の書牘にも、例の如く許多《あまた》の人名が見えてゐる。しかし此度は新しい名字は無い。
市野迷庵の質愨《しつかく》が能く北条霞亭を感動せしめたとは何事を斥《さ》して言つたか、知りたいものである。しかしわたくしは未だこれを窮むるよすがを得ない。
狩谷の橋梓《けうし》即望之懐之が辛巳西遊中、宮島に往つた後「いづかたいかなる遊《あそび》」をなしたか、茶山は聞きたいと云つてゐる。わたくしも今茶山と願を同じうしてゐる。しかし既に云つた如く、わたくしは只父子が奈良に遊んだことを知るのみである。茶山の口※[#「月+(勿/口)」、7巻−256−上−11]《こうふん》によつて考へて見れば、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎父子の宮島の遊は計画のみに止まつたのではないらしい。書牘の文が茶山は既に宮島までの事を知つてゐて、其後の旅程を問ふやうに聞き取られるからである。
茶山の存問《そんもん》を受けた古庵は余語《よご》氏である。市川は恐くは市河であらう。若し然りとすると、米庵でなくてはならない。何故といふに寛斎は既に二年前に歿してゐるからである。成田氏は成章、鵜川氏は子醇である。梧堂は石田道である。鵜川は茶山に書を寄せたことが、原本の氏旁《しはう》に朱書してある。今これを括弧内に収めた。これに反して石田は茶山に無沙汰をしてゐる。「杳然寸耗なし」である。
蘭軒は十九歳になつた榛軒の詩を茶山に寄示《きし》した。榛軒詩存はわたくしは未だ細検せぬが、弘化三年以前の作を載せぬものかとおもはれる。それゆゑ茶山の目を驚かした詩は何の篇たるを知らない。茶山は又蘭軒の正側室の安を問うてゐる。「おさよの方」は故《もと》の称呼「おさよどの」に復してある。
「松島の画題」云々は何事なるを知らない。月日の下《もと》の括弧内数行は原本に朱書してある。
詩集にある春の作は既に引いた七首の外、猶六首があつて、わたくしは此に其中の二を挙げることゝする。それは病める蘭軒の情懐を窺ふに足るものと、榛軒柏軒二人の講余のすさびを知るべきものとである。
「余平常好自掃園、病脚数年、不復得然、即令家僮朝掃、時或不能如意、偶賦一絶。脚疾久忘官路煩。山※[#「譽」の「言」に代えて「車」、7巻−257−上−6]江艇興猶繁。但於閑事有遺恨。筅箒不能手掃園。」自ら園を掃くに慣れた蘭軒は人の掃くに慊《あきたら》なかつたのである。
「偶成。元識読書属戯嬉。両児猶是好無移。剰鋤菜圃多栽薬。方比乃翁増一痴。」薬艸を栽培することは蘭軒が為さなかつたのに、榛軒柏軒がこれに手を下した。嘉賞の意が嘲笑の語の中に蔵してある。
二詩の外猶「賀阿波某氏大孺人百歳」の一絶がある。しかし其女子の氏名を載せない。且其|辞《ことば》にもことさらに録すべきものが無い。
夏の詩は五首あるが、抄出すべきものを見ない。唯「夏日」に「愛看芭蕉長丈許、翠陰濃映架頭書」の句がある。他人にあつては何の奇も無かるべき語であつて、蘭軒にあつては人をして羨望して已まざらしむるものがある。
秋の詩も亦五首あつて、末の三首に冬の詩を連ねて森枳園が浄写してゐる。わたくしは渋江抽斎伝に枳園が癸未の年に始て蘭軒に従学したことを言つた。今その写す所の師の詩はこれに先《さきだ》つこと一年の作に係る。詩集の此|幾頁《いくけつ》は後年の補写と見るべきであらうか。或は抽斎と親善であつた枳園は、未だ贄《にへ》を執らざる時、既に蘭軒の家に出入して筆生の務に服したものと看るべきであらうか。此年枳園は十六歳であつた。
その百二十九
此年文政五年の秋の蘭軒の詩は、末の三首が森枳園の手写する所であると、わたくしは上《かみ》に云つた。其前に等間に看過すことの出来ぬ一首がある。「七月十三日作。奈何家計太寒酸。付与天公強自寛。千万謝言求債客。窃来窓下把書看。」蘭軒は此日債鬼に肉薄せられたのである。千万謝言の後、架上の書を抽《ぬ》いて読んだと云ふ、その灑々《しや/\》たる風度が、洵《まこと》に愛すべきである。
枳園の書した最初の詩は「熊板君実将帰東奥、臨別贈以一律。」と題してある。「君家先世称雄武。遺訓守淳猶混農。賑※[#「血+おおざと」、第4水準2−88−4]郷隣経奕葉。優游翰墨托高踪。自言真隠名何隠。人喚素封徳可封。遙想東帰秋爽日。恢然※[#「てへん+主」、第3水準1−84−73]笏対群峰。」
熊板は或は熊坂の誤ではなからうか。これはわたくしの手抄に係る五山堂詩話の文に依つて言ふのである。わたくしは偶《たま/\》その何巻なるを註せなかつたので、今|遽《にはか》に刊本の詩話を検することを得ない。其文はかうである。「東奥熊坂秀。字君実。号磐谷。家資巨万。累世好施。大父覇陵山人頗喜禅理。好誦蘇黄詩。至乃翁台州。嗜学益深。蔵書殆万巻。自称邑中文不識。海内知名之士。無不交投縞紵。磐谷能継箕裘。家声赫著。」蘭軒の贈言《ぞうげん》を得た人は其|字《あざな》を同じうし、其郷を同じうしてゐて、氏に熊字があ
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