なかつたものとすると、その家に入るまでに余り多くの日数が掛かつてゐる。「徙居入秋初。」江戸に来てから家に入るまでの間に、少くも五月六月の二箇月が介《はさ》まつてゐたのである。
霞亭の新居には今一つの疑問がある。それは嚢里《なうり》とは何処かと云ふことである。丸山の阿部家の地所だと云ふことは明であるが、修辞して嚢里と云つた、原《もと》の詞《ことば》は何であらうか。袋地《ふくろち》即|行止《ゆきとまり》の地所であらうか。それが今の西片町十番地のどの辺であらうか。兎に角寂しい所ではあつたらしい。「門巷頗幽僻。不異在郊墟。」
前に引いた岡本花亭の書牘に、霞亭が聘に応じた時の歌と云ふものが二首載せてある。其一。「山かげの落葉がくれのいささ水世にながれてはすみやかねなむ。」其二。「かげうすき秋のみか月出るよりはや山のはに入むとぞおもふ。」書牘には後の歌を見て、田内|主税《ちから》の詠んだ歌が併せ記してある。「月の入る山のはもなきむさしのに千世もとどめむ清きひかりを。」田内の歌は霞亭が嚢里に住んでから後の作であらう。
霞亭の嚢里に住んだ歳月は短かつた。徙《うつ》り来つた年の翌年壬午が僅に事なく過ぎて、癸未の八月十七日に霞亭は四十四歳で歿した。墓誌に「患東邸士習駁雑、授小学書、欲徐導之、未遂而没」と云つてある。その未だ遂げずと云ふのは、訓導の目的を遂げなかつたと云ふ意である。小学の書は早く成つて人に頒たれた。花亭の書牘に、「この北条小学纂註を蔵板に新雕《しんてう》いたし候、所望の人も候はば、何部なりとも可被仰下候、よき本に而《て》御座候」と云つてある。
その百二十三
わたくしは此年文政四年五月二十六日の菅茶山の書牘の断片を写し出して、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の游蹤を、五月二十二日に神辺を発して三原に向ふまで追尋した。そして其断片が北条霞亭に与へた書であつたがために、霞亭が※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の江戸を出でたと殆ど同時に江戸に入つたと云ふことに語り及んだ。
茶山は此書牘中に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎父子の事を叙して、さて末に「ふたりとも連を羨しく候、此段伊沢へ御はなし可被下候」と書いた。羨しくの下《しも》には存を添へて読むべきである。茶山は毎《つね》に己《おのれ》に子の無いことを歎いてゐた。それゆゑ※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が懐之を連れてゐたのを羨ましく思つた。そしてこれを榛軒柏軒を左右に侍せしめてゐる蘭軒に告げようとしたのである。
饗庭篁村さんの所蔵の茶山簡牘中にも、これに類した一通があつて、茶山は蘭軒の子を連れて向島へ往つたことを羨んで書いてゐる。此書は或は後に引くかも知れない。
猶|上《かみ》に引いた五月二十六日の書牘には解し難いこともある。所謂「序文」の如きが即是である。按ずるに此語の指す所が何の序文だと云ふことは、剪り去られた書牘の前半に見えてゐたのであらう。
其他書中には※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎父子と蘭軒との外に二三の人名が出でゝゐて、それが生憎わたくしの識らぬ名のみである。第一の竹内、第二の森脇は、茶山が「いづかたも無事に候、宜御申可被下候」と云つてゐる。恐くは並びに是れ福山藩士で東役中の身の上であつただらう。その無事だと云ふのは福山の留守宅であらう。第三の伊十は或は伊七ならむも測り難いが、わたくしは姑《しばら》く「十」と読んで置いた。茶山が「可也に取つづき出来候覧」と半信半疑の語をなしてゐる。江戸にある知人で覚束ない生活をしてゐたものと察せられる。第四の銅脈先生は世の知る所の畠中観斎《はたなかくわんさい》に非ざることは論を須《ま》たない。観斎は夙《はや》く享和元年に歿したからである。書牘には銅脈先生の四字の下《しも》に「広右衛門こと」の註がある。但し此|広右衛門《ひろゑもん》も亦艸体が頗る読み難い。或は誤読ならむも測り難い。その銅脈先生が暫く寓してゐると云ふ第五の「矢かは」も「は」文字が読み難い。わたくしは此に疑を存して置く。総括して言へば、竹内某、森脇某、某氏伊十、某氏広右衛門、矢川某の五人が茶山の此書牘に出でてゐる不明の人物である。
茶山の蘭軒に与ふる書には多く聞人《ぶんじん》の名が出で、その霞亭に与ふる書にはこれに反して此の如く無名の人が畳出《でふしゆつ》するのは、茶山と霞亭とが姻戚関係を有してゐたからであらう。
※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎父子が此年五月二十日に黄葉夕陽村舎に著き、其夜と二十一日の夜とを此に過し、二十二日に辞し去つたと云ふ事実は、独り右の茶山の書牘に其跡を留めてゐるのみでは無い。茶山の集中に「狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎父子来訪」と題した絶句がある。「時人久已棄荘樗。老去隣翁亦自疎。豈意東都千里客。穿来蘆葦覓吾廬。」
その百二十四
狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎父子は此年文政四年五月二十二日に、三原をさして神辺《かんなべ》を発した後、いづれの地を経歴したか、今わたくしの手許にはこれを詳《つまびらか》にすべき材料が無い。菅茶山は「八幡にて古経を見、宮島にて古経古器を見ると申こと」と云つてゐる。しかし※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が能くこれを果したかどうか不明である。兎に角茶山が「京祇園会に必かへると申こと」と云つてゐるより推せば、兼て茶山の勧めてゐた長崎行は此旅の計画中に入つてゐなかつたものと見るべきであらう。
祇園会《ぎをんゑ》は六月七日である。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎父子は果して此日に京都まで引き返してゐたかどうか、これを知ることが出来ない。辛巳の歳の五月は大であつたから、其二十二日より六月七日に至る総日数は十六日間であつた。茶山が「間に逢かね候覧」と云つて危んだのも無理は無い。
※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎父子の此漫遊中、右の五月二十二日以後に月日の明なるものが只一つある。それは六月二十五日に法隆寺|西園院《さいをんゐん》にゐたと云ふことである。即ち神辺を立つてから第三十一日である。
わたくしの三村氏を煩はして検してもらつた好古小録の填註に、既に引いたものの外、猶左の数箇条がある。
「好古小録法隆寺上宮太子画像。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎曰。文政四年六月観。」
「同施法隆寺物数書。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎曰。文政四年六月二十五日法隆寺西園院にて観。」
「同円光大師絵詞。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎曰。文政四年七月観。」
最後の一条を見れば、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎父子が秋に入つて猶奈良に留まつてゐたことが知られる。此より後父子の江戸に還つたのが、まだ冬にならぬ前であつた証跡は、※[#「くさかんむり/姦」、7巻−249−下−7]斎詩集に見えてゐるが、それは後に記す。
わたくしは此より蘭軒の事蹟に立ち帰つて、夏より後の詩集を検する。此時に当つてわたくしは先づ一事を記して置きたい。それは富士川氏蔵の詩集は蘭軒自筆本であるのに、所々に榛軒柏軒の二子及渋江抽斎、森枳園の二|弟子《ていし》の、蘭軒に代つて浄写した詩が夾雑してゐる事である。そして此年辛巳の夏より秋の半《なかば》に至る詩は抽斎の書する所の小楷《せうかい》である。
抽斎は是より先文化十一年十歳にして蘭軒の門に入つてゐた。若し詩の浄写が其製作当時に於てせられたものとすると、是は抽斎十七歳の時の書である。蘭軒も自筆、棕軒侯、茶山の評も皆其自筆なるより推せば、わたくしは抽斎のこれを書した年の多く辛巳より遅れなかつたことを想ふ。只後年の補写で無いと云ふ確証を有せぬだけである。
辛巳の夏の詩は二首である。初の「菖節小集」の絶句は蘭軒が五月五日に友を会し詩を賦したことを証する。「満座忻無独醒客。榴花那若酔顔紅。」
後の「夏日偶成」の七律は此頃黒沢雪堂が蘭軒を招いたのに、蘭軒が辞したことを証する。詩の頷聯に、「病脚不趨官路険、微量難敵酒軍長」と云つて、「此日不応雪堂招飲、故第四及之」と題下に自註してある。
黒沢雪堂、名は惟直《ゐちよく》、字《あざな》は正甫《せいほ》、正助《しやうすけ》と称した。武蔵国児玉郡の人で、父|雉岡《ちかう》の後を襲《つ》ぎ、田安家に仕へた。当蒔六十四歳になつて、昌平黌の司貨《しくわ》を職としてゐた。
その百二十五
此年文政四年の秋に入つて、蘭軒の冢子《ちようし》榛軒が初て阿部正精に謁した。勤向覚書の文は下《しも》の如くである。「七月廿三日、左之願書相触流新井仁助を以差出候処、御受取被置候旨。口上之覚。私悴良安儀御序之節御目見被仰付被下置候様奉願上候。右之趣不苦思召候ば、御年寄御衆中迄宜被仰達可被下候以上。七月廿三日。伊沢辞安。大目付衆御中。同日、前条に付左之年齢書指出す。覚。伊沢良安、当巳十八歳。右之通年齢にて御座候以上。七月廿三日。伊沢辞安。但糊入半切に認、上包半紙半分折懸、上に年齢書、下に名。同月廿七日、悴良安明廿八日初而御目見被相請候に付私召連可罷出処、足痛に付難罷出、左之通及御達候。口上之覚。私悴良安儀明廿八日初而御目見被為請候に付召連可罷出処、足痛に付名代新井仁助差出申候、此段御達申上候以上。七月廿七日。伊沢辞安。同月廿八日、悴良安儀初而御目見被仰付候。」初謁の日は七月二十八日であつた。其|請謁《せいえつ》の形式は、父蘭軒に足疾があつて替人《ていじん》をして榛軒を伴ひ往かしめたために、幾分の煩しさを加へたのではあるが、縦《たと》ひ替人の事を除外して見るとしても、実に鄭重を極めたものである。わたくしは当時の諸侯が威儀を重んじた一例として、ことさらに全文を此に写し出した。
八月十二日に蘭軒は岸本由豆流《きしもとゆづる》に請待《しやうだい》せられて、墨田川の舟遊をした。相客は余語古庵《よごこあん》と万笈堂《まんきふだう》主人とであつた。詩集には此秋の詩十四首があつて、此遊を叙する七律三が即其第二、第三、第四である。わたくしは此に其引を抄するに止めて詩を略する。「八月十二日※[#「木+在」、第4水準2−14−53]園岸本君泛舟迎飲余於墨田川。与古庵余語君万笈兄同賦以謝。」※[#「木+在」、第4水準2−14−53]園《ざいゑん》は岸本由豆流、此年三十三歳であつた。万笈は英氏《はなぶさうぢ》、通称は平吉である。
此舟遊の七律と「戯呈余語先生」の絶句とを以て、抽斎浄写の詩が畢《をは》る。余語に戯るる語は、其妻妾の事に関するものの如くである。「何識仙人伴嫦娥。涼秋已覓合歓裘。」
前記の詩の次、秋行の詩の前に「懐狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎」の一絶がある。「故人半歳在天涯。別後心同未別時。漸近帰期才数日。杳然方覚思君滋。」
わたくしは上《かみ》に西遊中の※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の最後の消息として、その七月に奈良にゐたことを挙げた。そして今此に蘭軒が其帰期の迫つたことを言ふ詩を見る。其詩は八月十二日の作の後にあつて、秋行の作の前にある。八月十二日に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の未だ江戸に帰つてゐなかつたことは明で、其帰期は未だ冬に至らぬ前に既に迫つてゐたのである。想ふに※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は春の末に江戸を去つて、秋の末には帰り来つたのであらう。「故人半歳在天涯。」留守は丁度半年の間であつた。
序《ついで》にわたくしは此「秋行」の絶句の本草家蘭軒の詩たるに負《そむ》かぬことを附記して置く。それは石蒜《せきさん》が珍らしく詩に入つてゐることである。「荒径雨過滑緑苔。花紅石蒜幾茎開。」詩歌の石蒜を詠ずるものはわたくしの記憶に殆無い。桑名の儒官某の集に七絶一首があり、又昔年池辺|義象《よしかた》さんの紀行に歌一首があつたかとおもふが、今は忘れた。わたくしは大正五年の文部省展覧会の洋画を監査して家
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