経を見、宮じまにて古経古器を見ると申こと、中々祇園会に間に逢かね候覧。ふたりとも連を羨しく候。此段伊沢へ御はなし可被下候。扨竹内森脇いづかたも無事に候。宜御申可被下候。右用事のみ草々申上残候。御道中道ゆきぶりは追而可被仰遣候。先右序文いそぎ此事のみ申上候。恐惶謹言。五月二十六日。菅太中晋帥。北条譲四郎様。伊十も可也に取つゞき出来申候覧。銅脈先生(広右衛門こと)は矢かはにしばらくゐ申候由、いかがいたし候や。」
その百十九
菅茶山の北条霞亭に与へた、此年文政四年五月二十六日の書牘の断片は、独り狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の西遊中四日間の消息を伝へてゐるのみでは無い。去つて霞亭の経歴を顧みるに、此にも亦其伝記を補ふに足るものがあるらしい。それは霞亭が何時江戸に来たかと云ふことである。
先づ山陽撰の墓碣銘を見るにかう云つてある。「歳癸酉遊備後。訪菅茶山翁。翁欲留掌其塾。諮之父。父命勿辞。福山藩給俸五口。時召説書。尋特召之東邸。給三十口。准大監察。将孥東徙。居丸山邸舎。三年罹疾。不起。実文政癸未八月十七日。享年四十四。葬巣鴨真性寺。」
霞亭が備後に往つたと云ふ癸酉は文化十年で、茶山の甲戌東役の前年である。茶山は霞亭に廉塾の留守をさせて置いて江戸に来り、乙亥に還つて、彼八月二日の書を以てこれを蘭軒に紹介した。
茶山の蘭軒に与へた書には、茶山が将《まさ》に妹女《まいぢよ》井上氏を以て霞亭に妻《めあは》せむとしてゐることが見えてゐた。茶山は遂に妹女をして嫁せしめ、後霞亭を阿部家に薦めた。しかし霞亭の此婚姻は何時であつたか。又此仕宦は何時であつたか。これは東遊の時を問ふに先だつて問ふべき件々である。
わたくしは多く霞亭の詩歌文章を読まない。しかし曾て読んだだけの詩に就いて言はむに、茶山が霞亭を蘭軒に紹介した乙亥の翌年丙子の秋以前に、霞亭が既に井上氏を納《い》れてゐたことは確である。
今わたくしの許《もと》に帰省詩嚢と云ふ小冊子がある。これは浜野知三郎さんに借りてゐる書である。霞亭の門人|井達夫《せいたつふ》等は嘗て貲《し》を捐《す》てゝ霞亭の薇山三観を刻して知友に貽《おく》つた。然るにこれを受けたものが多く紙価を寄せてこれに報いた。達夫等は刻費を償《つぐの》つて余財を獲、霞亭に呈した。霞亭は受くることを肯《がへん》ぜなかつた。そこで達夫等はこれを帰省詩嚢を刻する資に充《み》てたのださうである。これは「文化丁丑冬井毅識」と署した序の略である。
帰省詩嚢は文化十三年丙子の秋、霞亭が父適斎道有の七十の寿宴に侍せむがために、廉塾を辞して志摩国的屋に帰つた有韻の紀行である。秋の初に神辺を立つて、秋の末に又神辺に還つたらしい。巻首の「留別塾子」の絶句はかうである。「雲山千里一担※[#「竹かんむり/登」、第4水準2−83−72]。暫此会文抛友朋。帰日相逢須刮目。新涼莫負読書燈。」以て発程が新涼の節に当つてゐたことを知るべきである。巻尾の「西宮途上寄懐韓宇二兄」の絶句はかうである。「昨遊連日共提携。一別今朝独杖藜。断雁有声遙目送。秋雲漠々澱江西。」韓は韓聯玉《かんれんぎよく》、宇は宇清蔚《うせいうつ》である。詩の後に一行を隔てて「右丙子晩秋」と註してある。以て此遊が晩秋に終つたことを知るべきである。
わたくしは此帰省詩嚢中の詩に、霞亭が既に娶つてゐた証を見出し、又これを評した亀田鵬斎の語に、其婚姻がしかも成後未だ久しきを経なかつた証をも見出したのである。詩は書中の最長篇で、一韻徹底の五古である。引にかう云つてある。「閏八月念五日。従嵯峨歩経山崎桜井。弔小侍従墓。到芥川宿。翌尋伊勢寺。邂逅国常禅師。因過能因旧址松林庵。遂宿禅師之院。其翌登金竜寺。下到前嶼。乗舟至浪華。詩以代記。」辞《ことば》長ければ全篇を写し出さずに、下《しも》に有用の句を摘録することとする。
その百二十
わたくしは此年辛巳五月二十六日に、菅茶山の北条霞亭に与へた書の断片中より、既に当時西遊途上にあつた狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の数日間の行住去留を検出し、又受信者霞亭の東徙《とうし》の時を推定しようと試みた。霞亭は京都より神辺へ往き、神辺に於て茶山に拘留せられ、其妹女を娶つて阿部家に仕へ、此に東役の命を受くるに至つたのである。霞亭が「歳癸酉、遊備後」の後、東徙に至るまでには、其婚姻があつて、これがために東徙は「将孥東徙」となつたのである。わたくしは東徙の時を言ふに先だつて、婚姻の時を言はむことを欲した。そしてこれがために霞亭の帰省詩嚢を引くこととしたのである。
詩嚢の五古の長篇に、丙子の歳|閏《じゆん》八月二十五日より二十七日に至る遭遇を叙したものがある。霞亭は二十六日に伊勢寺を尋ねて僧国常に逢ひ、院内に宿した。「為我開法庫。芸香散講台。画軸多仙仏。妙筆縦離奇。経巻堆牙籤。繙閲白日移。斗藪塵埃客。浄境忘倦疲。久遭妻孥汚。転覚葷羶非。」前年乙亥に茶山が書を蘭軒に寄せた時には、霞亭はまだ独身であつた。そして今忽ち「久遭妻孥汚」と云つてゐる。乙亥八月より後、帰省の途に上つた丙子初秋より前に霞亭は有妻者となつた。所謂|遭汚《さうを》の間は乙亥の八月をも丙子の閏八月をも併せ算して、辛うじて十四箇月に達するのである。婚姻の日は乙亥八月より丙子七月頃に至る満一年の間にあつた筈である。
そこで亀田鵬斎がかう云ふ評語を下した。「子譲年来高踏。不覊塵累。聞近始領妻孥。而遽下久字。殊可怪。」
わたくしは前に茶山の善謔を語つた。是に由つて観れば、鵬斎の善謔も亦多く茶山に譲らないらしい。此評は分明に霞亭をからかつてゐる。此からかひの妙は霞亭の備後に往く前の生活を一顧して、方《まさ》に纔《わづか》に十分に味ふことが出来るのである。山陽は「素愛嵐峡山水、就其最清絶処縛屋、挈弟倶居、嚢硯壺酒、蕭然自適」と云つてゐる。岡本花亭は霞亭を村尾源右衛門に紹介するに当つて、「君子の才行器識あり、うたもよみ候、曾而《かつて》嵯峨に隠遁いたし候を茶山老人に招かれ、備後黄葉山廉塾をあづかり、去年福山侯の聘に応じ解褐《かつをとき》候」と云つてゐる。此弟惟長との嵯峨の幽棲があつて、始て鵬斎の「年来高踏、不覊塵累」が活きるのである。花亭の文は竹柏園の蔵儲に係る尺牘で、九月四日の日附がある。そしてそれが文政五年九月四日だと云ふことは、霞亭の齢《よはひ》が四十三としてあるを以て知ることが出来る。
わたくしは語つて此に至つて、霞亭の容貌を想ひ浮べる。山陽は「君為人※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62]而晢、隆準、眼有光」と云つてゐる。又「風神灑脱」とも云つてゐる。これが嵯峨の庵《いほり》の主人《あるじ》であつた。そしてその口にする所は奈何《いかん》。「跌蕩不量分。功業妄自期。意謂身顕達。竹帛名可垂。」そして此主人に侍してゐたものは誰か。少《わか》い弟惟長只一人であつた。
想ふに霞亭は所謂一筋繩では行かぬ男であつた。茶山はこれを捉へるまでには、余程骨を折つたことであらう。
その百二十一
わたくしは北条霞亭の東徙《とうし》を語るに先だつて、霞亭は何時|娶《めと》つたか、何時仕へたかと問うた。
何時娶つたかの問題は、帰省詩嚢中の霞亭の詩を得て稍解決に近づいた。霞亭は文化十二年の後半若しくは十三年の前半に娶つたのである。
次は何時仕へたかの問題である。わたくしは前に岡本花亭の霞亭を評した語を挙げた。それは花亭の書牘に見えてゐるものであつた。此書牘は、既に云つた如くに、文政五年九月四日に作られたものである。そして霞亭が仕宦の時を知るにも、亦|上《かみ》の語が用立つのである。
書牘には「去年福山侯の聘に応じ解褐候」と云つてある。即ち霞亭の仕へたのは文政四年である。
霞亭は備後に往つた文化十年癸酉から算して、第三年の末若しくは第四年の初に娶つた。此間は頗短い。次で第九年に仕へた。此間は稍長い。
彼詩嚢を齎《もたら》して塾に返つた帰省は、霞亭が既に娶つて未だ仕へざる間にある。それゆゑ「家大人適斎先生七十寿宴恭賦」と題した詩にも、不遇を歎ずる語が見えてゐる。「疎拙不合世。蹉※[#「足へん+它」、第3水準1−92−33]何所為。棲々十余載。置身無立錐。郷党是非起。到処遭罵嗤。哀々吾父母。愚衷深見知。在此羞辱際。恩愛終不移。遂住千里外。終年苦乖離。帰来雖云楽。一物無献遺。窃向弟妹歎。包羞汗淋漓。」霞亭が福山侯の聘を受けたのは、此寿宴の後五年であつた。
わたくしは此より霞亭東徙の事を言はうと思ふ。山陽は霞亭が備後に仕宦するまでの事を叙して、其間に時を指定する語を下さなかつた。しかし仕宦は備後に往つてからの第九年に於いてしたのである。次に山陽は仕宦と東役とを叙して其間に一の「尋《ついで》」の字を下し、「尋特召東邸」と云つてゐる。しかし仕宦と東役とは同年の事であつた。上に写し出した茶山の書がこれを証する。
茶山は此年文政四年五月二十六日に、書を霞亭に与へて、「御道中道ゆきぶりは追而可被仰遣候」と云つてゐる。これは未だ霞亭東徙後の書を得ざる時の語である。少くも未だ其覊旅の状況を悉《つく》さざる時の語である。霞亭の将孥《しやうど》東徙は恐くは春の末、夏の初であつただらう。
約《つゞ》めて言へば下《しも》の如くになる。霞亭は文化十年三十四歳で備後に往つた。十一年三十五歳で廉塾を監した。十二年三十六歳若しくは十三年三十七歳で妻を娶つた。文政四年四十二歳で福山に仕へ、直ちに召されて江戸に至つた。此年辛巳の春杪《しゆんせう》夏初《かしよ》には、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が子を携へて江戸を発し、霞亭が孥《ど》を将《ひきゐ》て江戸に入つたのである。
※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎はわたくしは其詳伝の有無を知らない。市人であつたので、由緒書の如きものも獲難からう。現に相識の曾孫三市さんの家には、此の如きものを存してゐない。これに反して霞亭に至つては、必ずや記録の現存してゐるものがあらう。しかし此の如き側面よりする立証も、全く無価値ではあるまい。何故と云ふに表向の書上《かきあげ》は必ずしも事実そのまゝでは無い。往々旁証のコントロオルを待つて始て信を伝ふるに足ることがあるからである。
その百二十二
北条霞亭は此年文政四年に家を挙げて江戸に徙《うつ》つた。わたくしの推測する所に従へば、春杪夏初の頃であつたらしい。山陽は「居丸山邸舎」と記してゐる。しかしこれには語つて詳《つまびらか》ならざるものがあるらしい。
霞亭に「嚢里移居詩」があつて、此時の状況が悉《つく》してある。「我生本散誕。山沢一※[#「やまいだれ+瞿」、第3水準1−88−62]儒。承乏厠教職。衆中実濫※[#「竹かんむり/于」、第3水準1−89−57]。賢主不棄物。恩礼養迂愚。嚢里新賜地。草茅命僕誅。幾日経営畢。徙居入秋初。貧家無長物。※[#「禾+菌のあし」、第4水準2−82−91]載只一車。家人駆我懶。身具各提扶。隣里新旧識。交来問所須。掃窓先安置。筆硯与琴書。門巷頗幽僻。不異在郊墟。素性慣野趣。早已把犂鋤。圃畦種晩茄。隙処蒔冬蔬。東市沽薄酒。西市買枯魚。相賀命一酌。団欒対妻孥。居室雖倹陋。※[#「條」の「木」に代えて「栩のつくり」、第3水準1−90−31]然已有余。大厦豈不好。弗称匪良図。燕安思懿戒。苟完慕遺模。唯当安一席。旧学理荒蕪。雨余残暑退。摧頽病骨蘇。燈火宜清夜。涼風動高梧。一枕酔眠穏。君恩何処無。」
此詩を見るに、霞亭は只丸山邸内の一戸を賜はつてこれに住んだのではなく、或は空地《くうち》を賜はつて家を建てたのでは無いかと疑はれる。わたくしは「嚢里新賜地、草茅命僕誅、幾日経営畢、徙居入秋初」の四句を読んでしか云ふのである。
「賜地」と云へばとて必ず家が無かつたとは解せられない。「経営」と云へばとて必らず家を建てたとは解せられない。「草茅命僕誅」も掃除をしたに過ぎぬとも云はれよう。しかし霞亭が江戸に来たのは、夏の初より後れ
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