狂歌がわたくしに※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の相貌を教へたことである。此歌より推せば、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は一箇の胖大漢で便々たる腹を有してゐたらしい。しかし三村清三郎さんは※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が美丈夫であつたと云ふことを聞き伝へてゐるさうである。然らば所謂かつぷくの好い立派な男であつたのだらう。

     その百十六

 狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は辛巳西遊の途上、木曾で桜の句を得て、これを蘭軒に与ふる書中に記し、松宇に伝へ示さむことを嘱した。
 わたくしは※[#「くさかんむり/姦」、7巻−234−上−7]斎《かんさい》詩集の戊寅の作中、蘭軒が真野松宇の庭の瞿麦《なでしこ》を賞したことを憶ひ出した。そして※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の謂ふ松宇は此真野松宇であらうと云ひ、又※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が特に其俳句を示さうとしたことより推して、松宇は俳趣味のある人であつただらうと云つた。
 わたくしが前記の文稿を郵便に附し去つた時、忽ち一の生客があつて刺を通じた。刺には「真野幸作、下谷区箪笥町一番地」と題してある。わたくしは奇異の念《おもひ》をなして引見した。幸作さんは松宇の孫で、わたくしに家乗の一端を語つた。
 幸作さんの高祖父を鼎斎と云つた。名は甘匹《かんひつ》、字《あざな》は子由、一に西巷と号した。鼎斎の子竹亭、名は茂竜、字は子群、通称は徳弥が阿部侯|正右《まさすけ》に仕へた。即ち幸作の曾祖父である。
 竹亭は元文四年に生れ、寛延三年十二歳にして元服し、宝暦五年に、十七歳にして正右の儒者にせられた。わたくしは此に先づ正右の世に於ける竹亭の履歴を摘記する。宝暦九年二十一歳、大目付触流。十二年二十四歳、群右衛門と改称した。
 明和六年に阿部家に代替があつた。以下は正倫《まさとも》の世に於ける履歴である。安永元年冬、竹亭は三十四歳にして江戸勤を命ぜられ、十一月十五日に福山を発した。九年四十二歳、世子|正精《まさきよ》侍読。天明七年四十九歳、十一月奥勤。八年五十歳、世子四書五経素読畢業。寛政元年五十一歳、伊勢奉幣代参。二年五十二歳、大目付格。系図調に付金三百疋下賜。四年五十四歳、世子四書講釈畢業。享和二年六十四歳、門人柴山乙五郎召出、儒者見習。
 享和三年には又代替があつた。以下は正精の世に於ける履歴である。文化元年、竹亭六十六歳、読書御用。二年六十七歳、熈徳院《きとくゐん》石槨蓋裏雕文《せきくわくがいりてうぶん》作字《さくじ》。熈徳院は正倫の法諡《はふし》である。六年七十一歳、四月二十日出精に付金五百疋。十一年七十六歳、霊台院石槨蓋裏雕文作字。霊台院は上《かみ》に云つた如く、正倫の継室津軽|信寧《のぶやす》の女《ぢよ》、比左子である。十四年四月十二日、竹亭は七十九歳にして歿した。
 竹亭の遺した無題簽の一小冊子がある。中に菅茶山、太田全斎、頼杏坪等と交つた跡がある。竹亭は彼※[#「さんずい+章」、第3水準1−87−8]州|牽牛子《けにごし》をも茶山の手から受けた。「菅太中遙贈牽牛子種。謂此※[#「さんずい+章」、第3水準1−87−8]州所産。花到日午猶不萎。乃蒔見花。信如所聞。遂賦一絶寄謝。牽牛異種異邦来。駅使寄投手自栽。紅日中天花未酔。籬頭猶※[#「敬/手」、第3水準1−84−92]琉璃杯。」甲子の歳に茶山の江戸に来た時、竹亭は公退の途次其病床を訪うた。蘭軒が菜花を贈つた比の事である。其席には杏坪が来てゐた。「甲子二月下直、過菅太中僑居問疾、邂逅于藝藩頼千祺、観其餞辛島伯彜還西肥之作、席上※[#「庚/貝」、第3水準1−92−25]韻示千祺、用進退韻。相遇還歎相遇遅。風騒如涌筆如飛。青年令聞徒翹慕。白首仰顔交喜悲。退食過門朝問疾。高談前席※[#「日+干」、7巻−235−下−8]忘帰。寄書伯氏為伝語。官脚広陵報信時。自註、伯氏弥太郎也、頼惟寛、字千秋、其仲頼惟疆、字千齢。」太田全斎のためには、竹亭が詩を其日本輿地図に題した。「題太田方日本輿地図。一摺輿図万里程。東漸西被属文明。五畿七道存胸臆。六十八州接眼睛。彩色辨疆如錦繍。針盤記度似棋※[#「木+怦のつくり」、第4水準2−14−44]。越都歴険無糧費。看愛臥遊楽太平。」宛然たる明治大正詩人の口吻である。
 竹亭の子松宇は名を頼寛《らいくわん》と云つて、俳諧を嗜《たし》んだ。松宇の子兵助は喜多七大夫の門に入つて、能師となつた。兵助の子が即ち我客幸作さんである。

     その百十七

 蘭軒は京に往く狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に書を買ふことを託したので、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は此辛巳四月十四日の簡牘の末に訪書の消息を語つてゐる。蘭軒のあつらへた書は一切経音義、論語義疏及黄帝内経であつたらしい。
 三書はいかにも蘭軒が※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎にあつらへさうな書である。若し小説家が此書牘を擬作するとしたら、やはり此種の書を筆に上《のぼ》することとなるだらう。そして批評家は云ふだらう。そんな本は蘭軒は疾《と》くに備へてゐた筈である。作者の用意は未だ至らないと云ふだらう。
 わたくしは此に少しく三書の事を言ひたい。しかしわたくしは此方面の知識に乏しい。殆ど支那の文献に喙《くちばし》を容るゝ資格だに闕けてゐる。それゆゑわたくしの言ふ所には定て誤があらう。どうぞ世間匿好の士に其誤を指※[#「てへん+適」、第4水準2−13−57]してもらひたい。
 一切経音義と云へば玄応の書か、慧琳の書かと疑はれるが、わたくしは蘭軒が前者を求めたものと解する。何故と云ふに今流布してゐる慧琳音義は元文二年に既に刊行せられてゐて、此本以外に善本を坊間に獲むことは殆ど望むべからざる事であつた筈だからである。且蘭軒の徒なる渋江抽斎、森枳園の後に撰んだ訪古志にも、玄応音義の下《もと》には特に「尤有補小学焉」と註してある如く、当時蘭軒一派の学者が此書を尊重してゐて、現に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎自家も玄応音義の和刻本に、校讐を加へて蔵してゐたからである。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の識語のある此本は後枳園の子|約之《やくし》の手に帰し、今は浜野知三郎さんの庫中にある。
 文献史上に於ける音義諸書の顕晦存亡は、其迹小説よりも奇である。今は定てこれに関する新研究もあらうが、わたくしの此に言ふ所は単に流布本の序跋等に見えてゐる限を反復するに過ぎない。それのみでも既に人をして其奇に驚かしむるに足るであらう。
 玄応が音義を著したのは唐の初である。「貞観末暦」と云つてあるから、猶太宗の世であつた。即ち七世紀の書である。初二十五巻であつたのが、二十六巻となり、清の乾隆に至つて旧に復せられた。これがわたくしの蘭軒の捜してゐた本だらうと推する書である。五号活字の弘教《くげう》書院蔵にも、四号の蔵経書院蔵にも載せてある。しかし善本を求めたら、今も獲難からう。
 顕晦の尤奇なのは、此書では無い。慧琳の音義である。裴氏《はいし》慧琳が音義一百巻を著したのは、「以建中末年剏製」とも云つてあり、又「起貞元四年」とも云つてある。要するに唐の徳宗の世であつた。その成つたのは、「至元和二祀方就」、「迄元和五載」、「元和十二年二月二十日絶筆於西明寺焉」等記載区々になつてゐる。要するに憲宗の世であつた。慧琳は元和十五年庚午に八十四歳で卒したから、十二年に筆を絶つたとすると、入寂三年前に至るまで著述に従事したことになる。その蔵に入れられたのは大中五年だと云ふから、既に宣宗の世となつてゐた。即ち慧琳音義は九世紀に成つた書である。
 然るに此書は支那に亡くなつた。「高麗国(中略)周顕徳中遣使齎金、入浙中求慧琳経音義、時無此本」と云つてある。後周の世宗の時である。即ち十世紀には早く既に亡びてゐた。後高麗国は異邦に求めてこれを得た。「応是契丹蔵本」と云つてある。そして慧琳音義は朝鮮海印寺の蔵中に入つた。
 足利義満が経を朝鮮に求め、義政がこれを得た時、慧琳音義が蔵中にあつて倶《とも》に来た。これが洛東建仁寺の本である。元文板には「朝鮮海印蔵版、近古罹兵燹而散亡」と云つてあるが、徳富蘇峰さんの語る所に従へば、麗蔵《れいざう》は今猶完存してゐて、慧琳の音義も亦其中にあるさうである。

     その百十八

 わたくしは慧琳音義が唐に成り後周に亡び、契丹《きつたん》より朝鮮に入り、朝鮮より日本に来たことを語つた。さて此書の刊布は忍澂《にんちよう》に企てられ、其弟子の手に成つた。それが元文二年で、徳川吉宗の時である。支那に於て十世紀に亡びた書が、日本に於て十八世紀に刊行せられたのである。慧琳音義は弘教書院蔵に有つて、蔵経書院蔵に無い。しかし元文版は今も容易に得られる。
 玄応慧琳の音義よりして外、蔵経書院蔵に収められてゐる慧苑の華厳経音義、処観の紹興蔵音、弘教書院蔵に収められてゐる可洪《かこう》の随函録、希麟の続経音義等がある。しかし此等は姑《しばら》く措いて、わたくしは書籍《しよじやく》の運命の奇を説く次《ついで》に、行※[#「王+滔のつくり」、第3水準1−88−20]《かうたう》の大蔵経音疏五百巻の事を附加したい。これは「慨郭※[#「二点しんにょう+多」、第4水準2−89−86]音義疎略、慧琳音義不伝、遂述大蔵経音疏五百許巻」と云つてある。郭※[#「二点しんにょう+多」、第4水準2−89−86]《くわくい》の音義とは所謂一切経類音である。類音の疎略にして、慧琳音義の伝はらざるを慨《なげ》いて作つたのである。然るに此行※[#「王+滔のつくり」、第3水準1−88−20]の書も亦亡びて、未だその発見せられたことを聞かない。行※[#「王+滔のつくり」、第3水準1−88−20]は恐くは己が書の亡びて、慧琳の書の再び出づることをば、夢にだに想はなかつたであらう。
 わたくしは経音義のために余りに多くの辞《ことば》を費した。論語義疏と内経との事は省略に従がふこととしたい。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の書牘には単に「義疏」と云つてある。それを皇侃《くわうかん》の論語義疏と解するのは、嘗て寛延板が※[#「形」の「彡」に代えて「おおざと」、第3水準1−92−63]※[#「日/丙」、第3水準1−85−16]《けいへい》本に※[#「にんべん+方」、第3水準1−14−10]《なら》つて変改してあるのに慊《あきたら》ぬため、当時の学者は古鈔本を捜すことになつてゐたからである。黄帝内経は素問と霊枢とである。これも当時尚古版本若くは古抄本を得べき望が多少あつたことであらう。
 以上が※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の蘭軒に与へた書の註脚である。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は文政四年四月十四日に、其子懐之と共に京都にあつて此書を裁し、其後どうしたか。
 十五日には、書牘に拠るに、坂本の山王祭を観た筈である。
 十七日には奈良へ立つた筈である。
 此より後五月十八日に至る三十日間の行住の迹は、さしあたり尋ぬることを得ない。五月十九日には※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎父子が福山に宿した。
 二十日の朝父子は菅茶山を神辺《かんなべ》に訪ひ、其家に宿した。
 二十一日には父子が猶黄葉夕陽村舎に留まつてゐた。
 二十二日に二人は神辺を発し、三原に向つた。
 此五月十九日より二十二日に至る四日間の旅程は、茶山が江戸にある北条霞亭に与へた書に由つて証することが出来る。
 茶山の霞亭に与へた書は断片である。霞亭はこれを剪《き》り取つて蘭軒に示した。この剪刀《はさみ》の痕を存した断片は饗庭篁村さんの蔵儲中にある。「扨津軽屋三右衛門父子今月廿日朝来り候。ふくやまに一泊いたされ候よし也。其夜と其翌夜滞留、廿二日三原をさして発程也。今すこし留めたく候へども、宮島迄も参、京祇園会に必かへると申こと、日数なく候故、乍残念かへし候。八幡にて古
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