れは※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が初度の西遊では無い。しかしわたくしは是より先其|遊蹤《いうしよう》を尋ねようとしてゐながら、遂に何の得る所も無かつた。そこで三村清三郎さんに問うた。三村氏は古京遺文に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が仏足石の事を言つて、京遊云々の語をなしたことを記憶してゐて、わたくしに告げ、又好古小録、好古日録に就いて索《もと》めたなら、其形跡が得られようと云つた。
わたくしは再び書を三村氏に寄せて、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の自ら語つた京遊云々の事を詳《つまびらか》にしようとした。三村氏はわたくしのために書を検する労を辞せなかつた。わたくしは此に其復柬中考証に係るものを節録する。
「既に古京遺文仏足石の条にも、余親至西京、経七日之久、精撫一本云々と御座候。遺文は文政元年之序候へど、(再校之節補入と疑へばともかく、普通にては)是れ以前之西遊を証せられ申候。扨好古小日録之填註を精査候処、大分詳細に相成候間、左に申上候。」
書牘はこれより無仏斎が二著の抄録に入る。
その百十三
狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の西遊にして、此年辛巳以前に係るものは、これを三村氏の抄録中に索《もと》むるに、下《しも》の如くである。
「好古日録永仁古文孝経の条に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎云。寛政二年京師書肆|竹苞楼《ちくはうろう》にて観《みる》。」
「同春秋左氏伝の条に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎云。寛政二年山田以文の家にて観る。押小路外史の家蔵也。」
「好古小録|鴨毛屏風《あふまうへいふう》の条に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎云。寛政九年三月観。」
「同薬師寺魚養大般若経、大安寺縁起、志義山毘沙門縁起、来迎寺所蔵十界図の条に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎云。文政二年四月観。」
「同覚融勝画の条に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎云。文政二年四月京師の商家にて観。」
「同仏鬼軍の条に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎云。京寺町十念寺蔵文政二年五月観。(下略。)」
以上寛政二年、九年、文政二年の三度、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は京都に往つたらしく見える。即ち十六歳、二十三歳、四十五歳の時である。
此に一の留意すべき事がある。それは第三次文政二年の入京である。果して※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が此旅をなしたとすると、それは余程|遽《あわた》だしい旅であつたと見なくてはならない。
何故にさう云ふかと云ふに、菅茶山は文化十四年に「※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎西遊之志御坐候よし、これは何卒晋帥が墓にならぬうちに被成よと御申可被下候」と、蘭軒に嘱した。越えて文政二年に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は入京した。そして茶山が神辺にあつて待つてゐるにも拘らず、往いてこれを訪ふことなしに、京都から踵《くびす》を旋したこととなる。己卯には※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の神辺に往つた形迹が絶無だからである。
是よりわたくしは此年辛巳の旅を記さうとおもふ。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は文政四年に江戸より木曾路を経て京都に入つた。入京の日は四月八日であつた。
十五年前に蘭軒は同じ街道を京都に往つた。そしてその京に著いたのは発程第十七日であつた。仮に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が同じ日数を同じ道中に費したものとすると、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の江戸を発した日も、略《ほゞ》推知することが出来る。暦《れき》を閲《けみ》するに文政四年には三月が大、四月が小であつた。今四月八日を以て第十七日とするときは、溯つて第一日に至つて三月二十二日を得る。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は概ね三月二十日頃に江戸を立つたものと見て大過なからう。
※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の江戸より京都に至る間、月日の詳《つまびらか》にすべきものが只二つある。其一は三月二十六日に和田駅を過ぎたことである。其二は四月|朔《ついたち》に見戸野々尻《みとののしり》を過ぎたことである。
蘭軒は旅行の第六日に上和田下和田を過ぎた。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が二十日に上途《しやうと》したとすると、二十六日は第七日となる。次の「見戸野々尻」は三富野《みとの》、野尻であらう。蘭軒は第十日に野尻を経た。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の旅の四月朔は第十一日となる。日程は大抵符合するやうである。
※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は京都に着いて、福井|榕亭《ようてい》を訪ひ、稲荷祭、御蔭祭を観て、十四日に書を蘭軒に寄せた。此書牘が文淵堂所蔵の花天月地《くわてんげつち》中に収めてある。わたくしは下に其全文を写し出さうとおもふ。
その百十四
狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が此年辛巳四月十四日に京都から蘭軒に寄せた書牘はかうである。
「追日向暑、倍《ます/\》起居御安和可被成御座奉恭賀候。京都|総而《そうじて》静謐、僕等本月八日入京仕候。途中雨|少《すくな》にて、僅一両日微雨に逢候|而已《のみ》、只入京之日半日雨降申候。」
「上州長尾春斎(草屋の弟子)世話にて、神亀之古碑共一覧、其後|多胡碑《たごのひ》も観申候。」
「木曾桜|※[#「酉+余」、第4水準2−90−36]※[#「酉+靡」、第4水準2−90−45]《やまぶき》殊妙、其外花盛に御座候而驚目申候。総而木曾之山水、豚児輩感心仕候。僕も一昨年より増り候様に覚申候。御紀行毎夕読候而御同行仕候様に奉存候。乍去余程涼気にて、日限延引を却而悦申候。和田駅(三月廿六日)など綿衣四襲位之事に御座候。乍然暑中よりは歩行致能御座候。尤一人も駕籠馬の力を借り不申候。(日程七八里故。)朔日《ついたち》(四月)見戸野々尻辺花猶盛に而珍しく、歌あり。花の香ををしむのみかは谷風にころもかへうき木曾の山道。御笑可被下候。今朝抜た綿ではないか谷ざくら。松宇君へ御つたへ可被下候。」
「福井へ尋申候。甚よく遇せられ、昨年断被申候事途中之間違のよし等被申候。何より以家屋園池之結構、小障子一枚といへども、一草一礫といへ共、みな/\心を用ひ、額聯之数は黄檗山より多く、すきま/\はアンヘラにてはりつめ、中々千金二千金之用途にて作り候物に無之、露台、庭の檻《てすり》、朱緑間錯、釣燈籠凡三百にあまり申候。実に田舎漢《でんしやかん》の京の門跡を始而見候より驚申候。但し工《たくみ》ときたな細工とを以組詰たるものにて、僕など三日も右之家に居候ものならば、大病に相成候事相違有之まじく被存候。此後数度参候而珍蔵乞可申所存に候へども、但右之一儀に迷惑いたし居申候。」
「稲荷祭。」
「御蔭祭。」
「古雅結構、面《おもしろ》き事に御座候。(森云。面の下原文白字を脱す。)土佐画の画工等、或は社頭の式を観《み》をみる人あり。(森云。をみ二字衍文。)或は路中行装を観《みる》もの有、洛東にて騎馬音楽有之、此所へ来りみるもの有。御蔭森御旅所にて、音楽神供を観するもの有。江戸人と違心を用候事感心いたし候。」
「右之帰路|小野毛人墓《をのけひとのはか》へ参り申候。石槨ふた土上に現れ出(八尺に五尺ほど)有之、内には右之蓋石取除見候へば、小礫を以てつめ有之候。果して右之内に墓志有之事と被存候。八瀬小原辺にて甚幽邃なる山上に御座候。」
「此日御蔭山(これさへ此度はじめて参りし也)より廻りし所、茶屋等一向無之、饑《うゑ》甚し。人窮する時驚人之句あり。肥《こえ》し身の我大はらもひだるさにやせ行やうにおもひけるかな。此一条皆川へ御話可被下候。」
「今日迄両三輩づゝ朝夕書林も参候所、手に取てみる様なる本者《ほんは》一冊といへ共無之候。」
「一切経音義は頼申候。義疏と内経はいまだ見当り不申候。明日坂本山王祭、明々後日葵祭拝見候て、南都へ一先罷越可申と存居候。猶後便可申上候。頓首。四月十四日。狩谷望之。蘭軒先生御前。」
その百十五
此辛巳四月十四日の狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の書を読んで、最初にわたくしの目を留めたのは、木曾の景を叙して、「一昨年より増り候様に覚申候」と云つてある事である。三村氏の考証した文政二年の旅が此句に由つて確保《かくはう》せられる。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は二年己卯に京都へ往つた。しかもその木曾路を経て西したことさへ知ることが出来る。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は己卯に京までは往つたが、更に南下して菅茶山を神辺に訪ふことをばせずに已んだのである。茶山は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の西遊を慫慂《しようよう》して、「長崎は一とほり見ておきたき処也」と云つた。想ふに※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は入京数度に及びながら、京よりして南下するには及ばなかつたのであらう。少くも丁丑前には九州の地をば踏まなかつたことが明である。
※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は木曾路を行くのに、十五年前の蘭軒の紀行を携へてゐて、且読み且行つた。「御紀行毎夕読候而御同行仕候様に奉存候」と云つてある。或は二年前の旅にも持つて行き、此度の旅にも持つて行つて、反覆翫味したかも知れない。紀行の繕写せられたのは、己卯よりは早かつた筈だからである。
※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の此書牘には、千載の後に墓を訪はれた小野妹子の子、毛野の父毛人よりして外、五人の人物が出てゐる。第一は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の子懐之である。
※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は此旅に倅懐之を連れて行つた。「総而木曾の山水豚児輩感心仕候」と云つてある。「豚児」懐之は此年十八歳であつた。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の始て京に上つたのが寛政二年十六歳であつたとすると、懐之の初旅は遅るること二歳であつた。
第二は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に神亀の古碑を見せた上野の人長尾春斎である。「草屋の弟子」と註してある。世間若し草屋春斎の師弟を知つた人があるなら、敢て教を請ふ。
第三は福井榕亭である。名は需、字《あざな》は光亨《くわうかう》、一の字は終吉《しゆうきつ》、楓亭の子にして衣笠《いりつ》の兄である。榕亭は前年庚辰に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が何事をか交渉した時、すげない返事をした。しかし今親く訪はれては、厚遇せざることを得なかつた。そして前年の事をば「途中之間違」として謝した。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の書牘には榕亭の第宅《ていたく》庭園が細叙してある。その結構には詩人の所謂|堆※[#「土へん+朶」、第3水準1−15−42]《たいた》の病がある。「僕など三日も右之家に居候ものならば、大病に相成候事相違有之まじく被存候。」説き得て痛切を極めてゐる。わたくしなども此種の家に住んでゐる人二三を知つてゐる。それゆゑ※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の書を読んで、わたくしの胸は直ちにレゾナンスを起すのである。兎に角※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の筆に由つて、福井丹波守の懐かしくない一面が伝へられたのは、笑止である。
第四は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が木曾の俳句「今朝抜た綿ではないか谷ざくら」を見せようとした松宇である。蘭軒集中に出てゐる真野松宇であらう。第五は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が八瀬小原の狂歌を見せようとした皆川である。蘭軒集中に出てゐる皆川|叔茂《しゆくも》であらう。此に藉《よ》つて松宇には俳趣味、叔茂には狂歌趣味のあつたことが推せられる。わたくしは此に今一つ言つて置きたい事がある。それは八瀬小原の
前へ
次へ
全114ページ中38ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング