と称した。初代が玄益|寧成《ねいせい》、二代が玄益|順成《じゆんせい》、三代が玄益|成美《せいび》である。寧成は安永十年に表医師に召し出だされ、寛政元年に歿した。福山志料の町医玄益は此寧成か、或は其父かであらう。順成は其後を襲《つ》いで表医師となり、文化九年奥医師に進み、文政十一年に歿した。成美は文政元年に出仕を命ぜられ、四年に表医師となり、十年に医学世話を命ぜられ、十一年に順成の後を襲ぎ、十二年に奥医師となつた。
 然るに二世順成には弟があつて、一旦順成の養嗣子となつたが、早く文化元年に歿した。其名が周山世成《しうざんせいせい》であつた。三世成美は叔父《しゆくふ》の死んだために家を継ぐこととなつた。其初の名は周迪成美であつたと云ふのである。
 是に於て蘭軒の門人周迪が三世玄益成美だと云ふことが明になつた。按ずるに成美は出仕を命ぜられた後に、江戸へ修業に来て文政三年の夏福山に還り、四年に表医師を拝したのであらう。
 果して然らば周迪成美の伯孝たることは、復《また》疑ふことを須《もち》ゐぬであらう。馬屋原成美、字は伯孝、初め周迪と称し、後恕庵と改め、又父祖の称玄益を襲いだ。医を蘭軒に学んで、福山に於て医学世話を命ぜられたのである。わたくしの此証左を得たのは浜野氏の賚《たまもの》である。
 此年庚辰の秋は、蘭軒の集に詩六首がある。八月は十三日に雨が降つた。蘭軒は友と湯島の酒楼に会し、韻を分つて詩を賦した。「八月十三日雨、飲湯島某楼、分韻得麻」の七律がある。十五日は晴であつた。「中秋」の七絶に「夜色冷凄軽靄収、満城明月好中秋」の句がある。茶山の集には此日詩三首がある。暦《れき》が社日に当つてゐたこと、隣郷に放生会があつて、神辺《かんなべ》の街が賑つたこと、木星が月に入つたこと等が知られる。「忽覩一星排戸入。得非后※[#「栩のつくり/廾」、第3水準1−90−29]覓妻来。」一星は木星である。九月には蘭軒に唯一詩の録すべきものがある。それは月日を徴すべき作で、しかも其事が頗る奇である。「九月七日即事。吟味値秋方覚奇。菊花香浅点疎籬。忽然有客来催債。想得満城風雨詩。」

     その百十

 此年文政三年冬の半に、蘭軒の姉|幾勢《きせ》が記念すべき事に遭遇した。仕ふる所の黒田家未亡人|幸子《さちこ》が、十一月二十四日に六十三歳で歿したのである。既に云つた如く、此主従の関係は中島利一郎さんの手を煩はして纔《わづか》に明にすることを得たものである。
 幸子、初め亀子と云つた。越後国高田の城主榊原式部大輔政永の女《ぢよ》、黒田筑前守|治之《はるゆき》の室である。治之は是より先天明六年十一月二十一日に福岡で卒し、崇福寺に葬られた。
 伊沢分家の伝ふる所に拠れば、幾勢は八歳にして夫人に仕へたさうである。然らば安永七年幸子二十一歳の時である。次で十八歳にして一たび暇《いとま》を乞ひ、旗本坪田|三代三郎《みよさぶらう》と云ふものに嫁して子をも生んださうである。然らばその暇を乞うたのは天明八年で、幸子の夫治之が卒した後二年である。既にして幾勢は再び黒田家の奥に入り、前《さき》の主に仕へ、祐筆を勤め、又京都|産《うまれ》の女中二人と偕《とも》に、常に夫人の詠歌の相手に召されたさうである。然らば幾勢の再勤は早くても寛政二年幸子三十三歳の頃である。幾勢は当時二十歳になつてゐた筈である。伊沢良子刀自は幾勢が晩年の手紙一通を蔵してゐる。「正宗院」と署し、宛名を「伊沢磐安殿御うもじ殿」としてある。年次は不明であるが、歳暮の祝儀が言つてある。「うもじ」は内歟《うちか》。即柏軒の妻狩谷氏|俊子《しゆんこ》であらう。わたくしは此手紙に由つて幾勢の能書であつたことを知つた。祐筆を勤めたと云ふ口碑がげにもと頷かれる。
 幾勢は主の喪に逢つた時、正に五十歳になつてゐた。榊原氏幸子は天明六年より三十五年間寡婦生活をなしてゐたもので、そのうち少くも三十一年間は幾勢がこれと苦楽を共にしたのである。
 幸子は既に卒して、法諡《はふし》を瑤津院殿瓊山妙瑩大禅尼と云ひ、祥雲寺に葬られた。幾勢は再び仕ふるに当つて、所謂一生奉公を為し遂げむことを期してゐたので、此時に至つて暇を乞ふことを欲せなかつた。そこで彼京都産の女中二人と共に剃髪して黒田家に留まり、瑤津院の木位に侍することとなつた。
 黒田家では三人のために一軒の家を三室にしきり、正宗院等三人の尼を住はせた。正宗院は幾勢が薙染後《ちせんご》の名である。因《ちなみ》に云ふ。幾勢の墓には俗名|世代《せよ》と彫《ゑ》つてある。世代は恐くは黒田家の奥に仕へた時の呼名であつただらう。当時市人は正宗院等の家をお玉が池の比丘尼長屋と称した。
 此冬蘭軒の集に詩四首がある。其中歳晩に無名氏の詩を読んで作つたと云ふ七絶がある。無名氏の詩に曰く。「節臘都城人語囂。何知貧富似風潮。近来一事尤堪怪。斗米三銭歎歳饒。」蘭軒の詩に曰く。「四十余年戯楽中。老来猶喜迎春風。請看恵政方優渥。一邸不知歳歉豊。」前詩は年《とし》豊《ゆたか》にして米《こめ》賤《いやし》きを歎じ、後詩は年の豊凶と米価の昂低とに無頓着であるものと聞える。
 頼氏では此年山陽の次男辰蔵が生れた。一に辰之助とも云つてある。聿庵《いつあん》の弟、支峰の兄で、里恵の始て生んだ男児である。山陽は喜んで母に報じた。「家書新有承歓処。報向天涯獲一孫。」しかし辰蔵は後僅に六歳にして夭扎《えうさつ》した。宗家を嗣いだ聿庵は此年戸田氏を娶つた。

     その百十一

 菅茶山は此年文政三年に書を某に与へて、蘭軒に言伝《ことつて》をしたが、某の名も知れず、書を作つた月日も知れない。饗庭篁村《あへばくわうそん》さんの所蔵の此書牘の断片は下《しも》の如きものである。「歳旦の詩二首、去年の作一首、辞安へ必ず御見せ可被下候。これもよほど快く候よし、病はすこしいゆるに加はると申こと、かの性悪先生之語也。きつと御慎被成よと、御申可被下候。これは書状に申遣候筈なれども、人を媒《なかだち》にして申が却而《かへつて》こたへ宜候哉。私詩をほらせくれよと書肆のぞみ候。しかし詩は前の集よりも人ずきあしくなり候覧、心はあがり候へども人の好みには遠くなり候覧と奉存候。辞安開板せよとすゝめ候へども二の足をふみゐ申候。また/\御商量可被下候。つがるや市のや両三右衛門時々御逢被成候哉、いづれもおもしろき人物に候。御次《おんついで》もあらば宜御つたへ可被下候。土屋七郎相果候由、おもひもよらぬ事に候。」
 断片は剪刀《はさみ》で截り取つたものである。某が截り取つて蘭軒に示したのであらう。その此年の書牘たることは、「新年の詩二首」と云ふを以てこれを知る。前年己卯には元日に七絶一首を作り、次年辛巳には五古一首を作つたのに、独り此年庚辰には七律二首を作つてゐるからである。書を裁した月日は知れぬが、歳首の詩を添へたとすれば、春の初であつただらう。刊行せしめむとして「二の足をふみゐ申候」と云ふ詩集は、黄葉夕陽村舎詩後編である。これは次年十二月に至つて刻成せられた。わたくしは茶山の自ら評した語を見て、其藝術的良心を尊重する。此年の「雪日」七律の七八を参照すべきである。「衰老但知詩胆小。一聯慚踏古人蹤。」蘭軒と共に混外《こんげ》を訪ひ、又曾て頼春甫に交つた土屋七郎の死が此断片に由つて知られる。茶山のこれを書いたのが此年の初春だとすると、七郎は前年己卯に歿したことであらう。
 文政四年の元旦には、蘭軒の詩に生計の太《はなは》だ裕ではなかつた痕が見える。「辛巳元日作。昨来家計説輸贏。纔迎新年心自平。椒酒酔余逢客至。先評花信品鶯声。」人生は猶|瘧《ぎやく》のごとくである。熱来れば呻吟し、熱去れば笑歌する。わたくしは去つて菅茶山のこれに処する奈何《いかん》を顧みる。「元日。一年始今日。転瞬已昏鴉。三百六十日。例当如此過。吾年七十四。所余知幾多。不如決我策。閑行日酔歌。」貧が蘭軒の心に※[#「榮」の「木」に代えて「糸」、第3水準1−90−16]繞《えいぜう》する如くに、老が茶山の心を擾乱する。偶《たま/\》節物の改まるに逢つて、二人は排除の力に一策励を加へてゐたのである。
 例年の「豆日草堂集」には、其前日に高束《たかつか》応助と云ふものが梅花を贈つたので、それを瓶《へい》に插した。「佳賓満堂供何物。独有梅花信不違。」高束応助とは誰であらうか。後に蘭軒の女《ぢよ》長《ちやう》の嫁する先手与力井戸翁助と云ふものがある。蘭軒は翁助と書してゐるが、親類書には応助に作つてある。その或は同人なるべきをおもつて、徳《めぐむ》さんに質した。しかし異人であつた。集中の春の詩は以上二首のみである。
 三月には蘭軒の二子が阿部侯|正精《まさきよ》の賞詞を受けた。勤向覚書に曰く。「三月十一日悴良安医学出精仕、御満足被思召候御意奉蒙候。同日次男盤安去年中文学出精之段達御聴御満足思召候段奉蒙御意候。」良安は榛軒|信厚《のぶあつ》、盤安《はんあん》は柏軒信重で、彼は十八歳、此は十二歳である。

     その百十二

 蘭軒の二子榛軒柏軒は、上《かみ》に云つた如く、此年文政四年三月十一日に阿部侯正精の賞詞を受けた。
 歴世略伝に拠るに、是より先榛軒は狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、松崎|慊堂《かうだう》に就いて経を受け、父蘭軒、多紀|※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》、辻本|※[#「山/松」、第3水準1−47−81]庵《しゆうあん》、田村|元雄《げんゆう》に就いて医学諸科を修めた。柏軒が経学の師も亦※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎である。
 ※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎も慊堂も既に退隠後年を経てゐた。その蘭軒の二子に教へたのは、皆退隠後の事であらう。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が文化十四年に四十三歳で浅草の常関《じやうくわん》書屋に移り、湯島の店を十四歳の懐之《くわいし》に譲つたことは、上に云つた如くである。慊堂の事はわたくしは未だ深く究めてゐない。しかし塩谷宕陰《しほのやたういん》撰の行状に拠るに、慊堂は明和八年辛卯の生である。その掛川に仕へたのが享和二年三十二歳の時である。その肥後の聘を却《しりぞ》けて骸骨を乞うた時、「吾帰于此十年、所天三喪、不可以移矣」と云つてゐる。享和二年より十年とすると、文化八年で、慊堂は四十一歳である。慊堂が羽沢《はねざは》の石経山房に入つたのは即此年であらう。所謂「所天三喪」は、太田備中守|資愛《すけちか》、摂津守|資順《すけのぶ》、備後守|資言《すけとき》であらう。資言は文化七年八月十一日に卒し、嗣子が無かつたので、宮川の堀田家から養子丈三郎が迎へられたのである。行状に「其嗣公之自宮川来続也、先生密疏言事、事秘不伝」と書してある。
 わたくしは榛軒が何歳を以て就学したか知らない。権《かり》に十四歳を以てしたとすると、恰も好し※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が常関書屋に隠れた時である。榛軒は新に湯島の店の主人となつた※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の子懐之と同庚であつた。
 柏軒の鉄三郎が※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎退隠後の弟子たることは、疑を容れない。幼年の間鉄三郎は恐くは父に句読を受けてゐたであらう。しかしその文学出精と云ふを以て、夙《はや》く十二歳にして正精の賞詞を受けたことを思へば、少くも一二年前から師を外に求めてゐたであらう。そして其師は即ち※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎であつた。
 榛軒と慊堂とは、わたくしは何時始て相見たか知らない。姑《しばら》く榛軒は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に従学すると同時に、慊堂にも従学したとすると、当時※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は四十三歳、慊堂は四十七歳であつた。慊堂は羽沢にあること既に七年になつてゐた。
 此年の夏の初には、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が京都に往つてゐた。こ
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