身閑、那知雪後泥濘路、吟杖相聯訪竹関」と云つてある。此の如く城市の間に趨かずにゐたのは、多く筆硯に親んだからである。張従正《ちやうじゆうせい》が儒門事親《じゆもんじしん》の跋文、「庚辰人日、記於三養書屋燈下」と書したるものの如きも、その作為する所の一である。儒門事親は京都の伊良子氏が元板を蔵してゐた。経籍訪古志補遺に「太医張子和先生儒門事親三巻」と記してあるものが即是である。多紀桂山がこれを借りて影写し、これに考証を附した。医※[#「騰」の「馬」に代えて「貝」、第3水準1−92−27]に載せてあるものが其全文で、訪古志には節略して取つてある。蘭軒は高島信章をして多紀本を影写せしめ、自ら跋して家に蔵した。
漢医方には温和なるものと峻烈なるものとがあつた。所謂|補瀉《ほしや》の別である。峻烈手段には汗《かん》吐《と》下《げ》の三法があるが、其一隅を挙げて瀉と云ふのである。張従正は瀉を用ゐた。素《もと》汗吐下の三法は張仲景《ちやうちゆうけい》に至つて備はつたから、従正は当《まさ》に仲景を祖とすべきである。然るに此に出でずして、溯つて素問を引いた。且つ従正は瀉を用ゐるに、殆所謂|撓枉過中《ぜうわうくわちゆう》に至つて顧みず、瀉を以て補となすと云つた。これは世医の補に偏するを排せむと欲して立言したものである。蘭軒はかう云つてゐる。「素問者論医之源。其道也大。可以比老子。仲景者定医之法。其言也正。可以比孔子。金張従正者究医之術。其説也権。可以比韓非矣。」従正の素問を引いたのは、韓非の老子を引いたのと似てゐる。姦吏法を舞《まは》し、猾民令を欺く時代には、韓非の書も済世の用をなす。諸葛亮が蜀の後主に勧めてこれを読ましめた所以である。偏補の俗習盛んに行はるれば、従正|終《つひ》に廃すべからずと云ふのである。
張従正、字《あざな》は子和《しわ》、※[#「目+隹」、第3水準1−88−87]州《すゐしう》考城の人、金大定明昌の間医を以て聞え、興定中太医に補せられた。我源平の末、鎌倉の初に当る。其書を儒門事親と名づけたのは、「惟儒者能明辨之、而事親者、不可以不知」と云ふにある。
蘭軒の集には人日後春季の詩が五首ある。わたくしは此に「三月尽」の一絶を抄する。蘭軒がいかに此春を過したかを知る便《たつき》となるものだからである。「従来風雨祟花時。梅塢桃村緑稍滋。纔是出遊両三度。今朝徒賦送春詩。」蘭軒は少くも両三度の出遊を作《な》すことを得たと見える。
夏に入つて四月十二日に蘭軒の妾《せふ》佐藤氏さよが一女子を挙げた。名は順と命ぜられた。饗庭篁村さんの所蔵に菅茶山尺牘の断片がある。茶山が順の生れたことを聞いて書いたものである。
「特筆。」
「先比《さきころ》は吾兄医はもとのごとく、別に儒者被仰付候由奉賀候。御格禄も殊なり候よし、これも被仰下度候。又御女子御出来被成候よし奉賀候。王百穀が七十にて男子をまうけし時、袁中郎が書に老勇可想とかきたるを以みれば、吾兄は病勇可畏などと申上べきや。これらの語※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎へは御談可被下候。尊内人、令郎君、おさよの方へも宜奉願上候。晋帥。」
前年己卯十一月の儒者の任命と、此年孟夏の女子の誕生とを聞知した時の書である。断片には日附が闕けてゐる。毎に「おさよどの」と云ひ、又単に「おさよ」とも云つた茶山が今「おさよの方」と書した。亦諧謔の語である。
その百七
此年文政三年の五月、蘭軒は医心方の跋を作つた。医心方の影写は文化十四年丁丑に始まり、此年三月に終つた。即殆三年を費した事業である。
丹波|康頼《やすより》は後漢の霊帝十三世の孫である。康頼八世の祖が日本に帰化して大和国|檜隈郡《ひくまのこほり》に居つた。六世の祖に至つて丹波国矢田郡に分れ住んだ。康頼に至つて丹波宿禰の姓を賜はつた。これが世系の略である。此康頼が円融天皇の天元五年に医心方三十巻を撰び、永観二年十一月二十八日にこれを上《たてまつ》つた。
医心方は世《よゝ》秘府《ひふ》に蔵儲せられてゐた。そして全書の世間に伝はつたのが安政元年十一月十三日であつたことは、嘗て渋江抽斎の伝に記した如くである。是より先正親町天皇の時、典薬頭|半井瑞策《なからゐずゐさく》が秘府より受けて家に蔵することとなり、其|裔孫《えいそん》広明《ひろあき》に至つて出して徳川氏に呈したのである。
然るに安政の「医心方出現」に先だつて、別に仁和寺本と称する一本があつた。そしてその秘して人に示さぬことは、半井本と殊なることがなかつた。寛政三年、即多紀氏の躋寿館《せいじゆくわん》が私立より官設に移された年に、躋寿館は此仁和寺本を影写して蔵することを得た。
仁和寺本は残脱の書であつて、後に出でた半井本に比すべきではなかつたが、当時の学者はこれだに容易には窺ふことを得なかつたのである。そしてその偶《たま/\》鈔写することを得たものは、至宝として人に誇つた。それは下《しも》の如きわけである。
六朝から李唐に至る間、医書の猶存するものは指を※[#「てへん+婁」、7巻−218−下−5]《かゞな》ふるに過ぎない。然るに隋唐経籍志に就いて検すれば、佚亡の書の甚多いことが知られる。それゆゑせめては間接に此時代の事を知らうといふ願望が生ずる。これは独り医家を然りとするのみでは無い。考古学者と雖亦同じである。
幸に外台秘要《ぐわいたいひえう》と云ふ書がある。唐の王※[#「壽/れっか」、第3水準1−87−65]《わうたう》の著す所である。※[#「壽/れっか」、第3水準1−87−65]は珪の孫で、新唐書王珪の伝の末に数行の記載がある。此書は引用する所が頗《すこぶる》広いので、文献の闕を補ふに足るものである。只憾むらくは宋代の校定を経来り、所々字句を改易せられてゐる。新唐書に拠れば、「討繹精明、世宝焉」と云つてあつて、当時既に貴重の書であつた。宋人の妄《みだり》に変改を加へたのは慮《おもんぱかり》の足らなかつたものである。題号の外台は、徐春甫が「天宝中出守大寧、故以外台名其書」と云つた。これは朝野類要の「安撫転運、提刑提挙、実分御史之権、亦似漢繍衣之義、而代天子巡狩也、故曰外台」と云ふと同じく、外台を以て地方官の義となしたのである。しかし※[#「壽/れっか」、第3水準1−87−65]は自序に、「両拝東掖、便繁台閣二十余歳、久知弘文館図書方書等、※[#「鷂のへん+系」、第3水準1−90−20]是覩奥升堂、皆探秘要云」と云つてある。是に由つて観れば、魏志王粛伝の註に薛夏《せつか》の語を引いて、「蘭台為外台、秘書為内閣、台閣一也」と云ふが如く、所謂外台は即台閣ではなからうか。これは多紀桂山の考証である。
外台秘要が既に旧面目を存せぬとすると、学者は何に縁《よ》つて李唐以上の事を窮めようぞ。只一の医心方あるのみである。蘭軒はかう云つてゐる。「康頼編此書。其所引用百余家。皆六朝及唐代之書。而且有経籍志不録者。王氏書不載者数十家。而其見存之書。亦体裁字句。間有大異。按皇朝往昔。通信使於唐国。留学之徒。相継不絶。二百有余年。而所齎来載籍。即当時之鈔本。所直得於宮庫或学士。非如趙宋而降。仮工賈之手。以成帙者也。康頼蓋資用於此。故皆是原書之旧。而所以異於見存者也。」
その百八
蘭軒は医心方を影写するに、島武《たうぶ》と云ふものの手を倩《やと》つた。そして自らこれに訓点を施した。島武は或は彼の儒門事親を写した高島信章と同人ではなからうか。跋にかう云つてある。「右丹波康頼医心方廿本。借之多紀氏聿脩堂。友人島武為余影鈔。如其旁訓朱点。乃余手鈔写焉。以青筆者。桂山先生之標記也。以朱筆抹旁者。余自便於捜閲人名与書目也。」わたくしはこれを読んで、蘭軒に「集書家」の目《もく》を与ふることの或は妥《おだやか》ならざるべきを思ふ。蘭軒は書を集むるを以て能事畢るとなしたものではない。その校讐に労すること此の如くであつた。しかも所謂校讐は意義ある校讐であつた。又其書を活用せむがための校讐であつた。
此年文政三年の夏、集中に詩四首が載せてあつて、其二は福山に還る人を送る作である。一は鈴木圭輔《すゞきけいすけ》、一は馬屋原伯孝《まいばらはくかう》である。
「送鈴木先生圭輔還福山」の詩はかうである。「分手不須歎索居。帰程行装寵栄余。芸窓占静校新誌。華館侍閑講尚書。月朗鴨川涼夜色。濤高榛海素秋初。到来応是推儒吏。恰似倪寛得美誉。」圭輔が儒を以て阿部家に仕へたものであることは、詩が既に自ら語つてゐる。
しかしわたくしは圭輔の事を今少し精《くは》しく知りたく思つた。菅茶山の集には鈴圭輔《れいけいほ》と書してある。渡辺修次郎さんの阿部正弘事蹟には、「正精《まさきよ》の時、村上清次郎、菅太仲、鈴木圭輔、北条譲四郎(中略)皆藩の儒員たり」と記してある。只それだけである。わたくしは浜野知三郎さんを煩はして検してもらつた。
鈴木圭、字《あざな》は君璧《くんへき》、宜山《ぎざん》と号した。通称は初め圭雲、中ごろ圭輔、後徳輔である。天明八年「儒医之場へ被召出、弘道館学術世話取並御屋形御講釈、」寛政二年「御医師本科、」七年「眼科兼、」十年「儒医、」享和二年「上下格《かみしもかく》御儒者、」文化六年「奥詰、」十年「御使番格、」文政二年「江戸在番、」三年「大御目付被仰付、奥詰並御家中学問世話是迄之通、」七年「御儒者、」十年「奥詰、」天保二年「江戸在番、」以上が官歴の略である。
圭輔の召し出されたのは天明八年、茶山は寛政四年である。府志の編纂、阿部神社の造営は、二人が共に勤めた。
圭輔は江戸在番を命ぜらるること二度であつた。初は文政二年に入府し、三年に大目附にせられて在番を免ぜられた。「六月十七日帰郷之御目見」と云つてある。これが蘭軒の詩を贈つた時である。後の入府は天保二年で、三年に帰つた。
圭輔は天保五年九月二十六日に、六十三歳で歿した。墓は東町洞林寺にあつて、篠崎小竹が銘してゐる、子卓介が後《のち》を襲《つ》いだ。後|秉之助《へいのすけ》と云ふ。名は秉、字は師揚《しやう》、号は篁翁《くわうをう》、小竹の門人である。明治十七年一月十二日に歿した。
次に「馬屋原伯孝将還福山、因示一絶」の詩はかうである。「読書万巻一要醇。学不如斯医不神。斗火盤冰方是癖。勝於岐路逐羊人。」馬屋原伯孝《まいばらはくかう》の何人なるかは、わたくしは毫も知らぬので、これも亦浜野氏に質《たゞ》した。そして伯孝の蘭軒の門人であるべきことが略《ほゞ》明なるに至つた。蘭軒が贈るに訓誨の語を以てした所以であらう。
その百九
此年文政三年の夏、鈴木|宜山《ぎざん》に次いで、江戸から福山へ帰つたものに、馬屋原伯孝があつて、蘭軒がこれにも贈言《ぞうげん》したことは、前に云つた如くである。
わたくしは手許にある文書を検した。そして蘭軒の門人録に一の馬屋原|周迪《しうてき》があることを発見した。伯孝と周迪とは均《ひと》しく馬屋原を氏として、均しく蘭軒に接触した人である。しかも伯孝は福山に帰つた人で、周迪の名の下《しも》にも福山と註してある。わたくしはその或は同一の人物なるべきを推した。
しかしわたくしは既に羮《あつもの》に懲りてゐる。曩《さき》にわたくしは太田孟昌の名を蘭軒の集中に見、又伊沢氏の口碑に太田|方《はう》の狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の門人なることを錯《あやま》り伝へてゐるのを聞いて、二者の或は同一人物なるべきを思つた。然るに方、字《あざな》は叔亀《しゆくき》は父で、周、字は孟昌は子であつた。それゆゑわたくしは過を弐《ふたゝ》びせざらむがために、浜野知三郎さんを労するに至つた。浜野氏のわたくしに教ふる所は下の如くであつた。
菅茶山等の編した福山志料第十二巻神農廟の条にかう云ふ記事がある。「福山の町医馬屋原|玄益《げんえき》なるもの、享保廿一年神農の像を彫刻し、封内の医師五十人と相はかり再建し侍り。」これが医師馬屋原氏の書籍に記載せられた始である。
阿部家の医官馬屋原氏は世《よゝ》玄益
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