三本各成其用。無復遺憾也。宜矣蔵書所以貴多也。古人曰。天下無粋白之狐。而有粋白之裘。余於此書亦云。」
此年蘭軒は四十一歳、妻益は三十五歳、子女は榛軒十四、常三郎十三、柏軒八つ、長四つであつた。
その百三
文政元年の元旦は立春の節であつた。菅茶山が「閑叟更加※[#「聰のつくり」、7巻−209−下−12]劇事、一時迎歳又迎春」と云つた日である。蘭軒は偶《たま/\》心身爽快を覚えて酒を飲んだ。「戊寅元旦作」二首の一にかう云つてある。「君恩常覚官途坦。園趣方添吟味滋。椒酒一醺歌一曲。三年独醒笑吾痴。」自註に「余病後休酒三年、此日初把杯、故末句及之」と云つてある。
正月二日に蘭軒の庶子良吉が夭した。先霊名録二日の下《もと》に、「馨烈童子、芳桜軒妾腹之男也、名良吉、母佐藤氏、墓在本郷栄福寺、文化十五年戊寅正月」と記してある。即ち側室さよの生んだ子である。生日はわからぬが、恐くは生後直に夭したのであらう。
人日《じんじつ》に蘭軒は自ら医範一部を写した。医範は素《もと》蘭軒の父|信階大升《のぶしなたいしよう》が嘗て千|金方《きんはう》より鈔出したものである。蘭軒手写の本は現に伊沢|徳《めぐむ》さんが蔵してゐる。又此手写本に就いて門人|鼓常時《つゝみつねとき》の複写したものは富士川游さんが蔵してゐる。
医範九章の末に下《しも》の文がある。「右医範九章。家大人所撮写千金方中。毎旦誦読以自戒也。夫孫真人世以為仙医。固応無所拘束。而有如斯戒律。則凡為医者。豈可不謹慎勉励邪。家大人直取以為我家医範。其有旨哉。恬今手鈔。以与信厚信重二児。爾輩謹守之。文化十五年戊寅人日、伊沢信恬記。」富士川本には此下に、「文政十一年三月念九日鼓常時謹写」と書してある。按ずるに孫思※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]《そんしばく》は旧新唐書に伝がある。旧唐書に拠るに、歿年は高宗の永淳元年だとしてある。そして年齢が載せてない。癸酉の歳に廬照隣《ろせうりん》と云ふものが孫の家に寓してゐた。癸酉は高宗の咸享四年であらう。廬の聞いた所がかう記してある。「思※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]自曰。開帝辛酉歳生。至今年九十三矣。」試に癸酉から九十三年溯つて見ると隋の開皇元年辛丑となるらしい。そして永淳元年には百零二歳であつた筈である。しかし「経月余、顔貌不改、挙屍就木、猶空衣」と云ふを見れば、奇蹟である。年齢の知り難いのも怪むに足らない。蘭軒も亦「世以為仙医」と書してゐる。
此春蘭軒は大田南畝の七十を寿した。恐くは三月三日の誕辰に於てしたことであらう。「寿南畝大田先生七十。避世金門一老仙。却将文史被人伝。詼諧亦比東方朔。甲子三千政有縁。」詩は梅を詠ずる作と瞿麦《なでしこ》を詠ずる作との間に介《はさ》まつてゐる。
次で夏より秋に至つて、詩八首がある。其中人名のあるものを摘記することとする。原来此種の記載は無用に属するかも知れぬが、或は他書を併せ考ふるに及んで、有用のものとなるかも知れない。わたくしは此の如き楽天観に住して、甘んじて点簿の労に服する。
先づ真野父子がある。前《さき》に冬旭《とうきよく》とその善書《ぜんしよ》の子とがあつたが、今又|竹亭松宇《ちくていしようう》の父子を見る。居る所を陶後園と云ふ。松宇は当時官吏であつた。蘭軒の集に此家の瞿麦と菊との詩がある。「真野松宇宅集、園中瞿麦花盛開、云是先人竹亭先生遺愛之種、因賦一絶為贈。種藝従来向客誇。山園開遍洛陽花。渾為千片斑爛錦。遺愛芳滋孝子家。又。真野松宇陶後園菊花盛開、贈主人。菊花満圃気清高。堪償栽培一歳労。幽事不妨官事劇。君家隠趣大於陶。」
次に福山の人小野|士遠《しゑん》がある。蘭軒は五律を作つてその郷に帰るを送つた。「送小野士遠還福山」として、其五六に「祗役添詩興、躋勝酬素情」と云つてある。
その百四
次に戊寅夏秋の詩に出てゐる人物は長谷川雪旦である。雪旦、名は宗秀、又|厳嶽《げんがく》、一陽庵等の号がある。此年四十一歳で、肥前国唐津の城主小笠原|主殿頭長昌《とのものかみながまさ》に聘せられて九州に往つた。「送画師長谷川雪旦従駕之唐津。移封初臨瀕海城。※[#「馬+芻」、第4水準2−93−2]騎隊裏虎頭行。大藩如是編新誌。佳境総依彩筆成。又。使君五馬経瑤浦。揮筆応誇清舶商。為説画家唐宋法。真伝存在我東方。」小笠原長昌は前年九月十四日に陸奥国棚倉より徙《うつ》された。それゆゑ「移封初臨」と云つてある。此移封は井上河内守|正甫《まさもと》の貶黜《へんちゆつ》に附帯して起つた。正甫は奏者番を勤めてゐて、四谷附近の農婦を姦した。これに依つて職を免じ、遠江国浜松より棚倉へ徙された。水野左近将監忠邦は唐津より来つて其後を襲《つ》ぎ、長昌は又忠邦の後を襲いだ。活版本続徳川実記に左近将監忠邦の傍《かたはら》に「恐和泉守之誤」と註してある。しかし和泉守忠光は忠邦の父で、忠邦は部屋住の時式部と云ひ、叙爵せられて左近将監と云つた。傍註が誤であらう。長谷川雪旦は長昌が唐津城に赴く時、※[#「馬+芻」、第4水準2−93−2]騎隊裏《すうきたいり》の「虎頭」となつて、筆を載せて行つたのである。
次に松石双古堂の詩がある。これは蘭軒が狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に代つて作つたものである。「遙寄題松石双古堂。拝石詞臣已作顛。愛松隠士漸将仙。高園双種殊堪賞。鎮壌凌雲二百年。」「遙寄題」と云ふから、園は江戸では無かつただらう。園の主人の誰なるを知らない。
冬に入つては十月十八日に「雪日」の七絶二首があるのみである。わたくしは詩集以外に於て、十二月二十三日に蘭軒が医術申合会頭たる故を以て、例年の賞を受けたことを見出した。集には歳杪《さいせう》の作が無い。これに反して菅茶山は吉村大夫の遠く白河関の図を寄するに会した。「歳杪得吉村大夫寄恵白河関図、賦此以謝」の七律に、「七十一齢年欲尽、三千余里夢還新」の一聯がある。吉村氏、名は宣猷《せんいう》、又右衛門と称した。白川の大夫である。
此年戊寅は茶山の京阪に遊んだ年である。吉野から江戸の岡本花亭に詩を寄せた。「誰知当此夜。身在此山中。想君亦尋花。歩月墨水東。月自照両処。花香不相通。恰如心相思。遊迹不可同。」何ぞ料《はか》らむ、これは花亭が書を上《たてまつ》つて職を罷めた三月であつた。
頼氏では此年山陽が西遊稿を留めた。茶山と山陽との友|登々庵武元質《とうとうあんたけもとしつ》が二月二十四日に歿した。これは茶山の輙《すなは》ち信ずることを欲せざる凶報であつた。「遠郷恐有伝言誤。将就親朋看訃音。」
此年蘭軒は四十二歳、妻益は三十六歳、子女は榛軒十五、常三郎十四、柏軒九つ、長五つであつた。
文政二年の元旦には、蘭軒は江戸にあつて、子弟門生の集つて笑語するを楽み、茶山は神辺にあつて、閭里故旧の漸く稀になり行くを悲んだ。蘭軒の「己卯元日」はかうである。「山靄初晴旭日紅。纔斟椒酒意和融。未聞黄鳥新歌曲。春色已生人語中。」茶山の「元日口号」はかうである。「村閭相慶往来頻。老眼偏驚少識人。政爾陽和帰四野。誰回身上旧青春。」
九日は江戸の気候が稍《やゝ》暖《あたゝか》であつたものか。蘭軒の「草堂小集」には「梅発初蘇凍縮身」、「数曲鶯歌在翠※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]」等の句がある。茶山の「人日」は錯愕の語を作《な》してある。「無端玉暦入青春。宿雪終風未覚新。七種菜羮香迸案。計来今日已為人。」第四の韻脚は「限韻」の註を得て首肯せられる。更におもふに蘭軒の梅花鶯語は必ずしも実に拠らなかつたかも知れない。「花朝」の詩には、「閏年寒威奈難消、一半春光属寂寥」とも云つてあるからである。己卯には閏《じゆん》四月があつた。
春の詩と夏の詩との間に、「奉寿養安院曲直瀬先生七十、代山本恭庭」の七絶がある。武鑑を検すれば、奥医師に「養安院法印、千九百石、きじはし通小川町」があり、奥詰医師に「曲直瀬正隆、父養安院、二十人扶持、きじはし通」がある。若し前《さき》に云つた如く恭庭即宗英法眼だとすると、恭庭は同僚を寿せむがために蘭軒の作を索《もと》めたのである。
その百五
蘭軒の集には、此年己卯に夏の詩が二首あつて、其末に題画が一首ある。並に人名地名を載せない。次に秋の詩が六首あつて、其中に詠史が一首入つてゐる。史上の人物は和気清麿で、蘭軒は此公に慊《あきたら》ざるものがあつたやうである。「奉神忽破托神策。何知従来不巧機。」
秋の詩の中に蘭軒が旧友西脇棠園といふものに訪はれた七律がある。詩の引には「中秋前一日雨、草堂小集、時棠園西脇翁過訪、余与翁不相見、十余年於此、故詩中及之」と云つてある。「冷雨凄風林葉鳴、笠簑相伴訪柴荊」の句がある。棠園、名は簡《かん》、通称は総右衛門、此年五十七歳であつた。十余年前の相識と云ふからは、文化初年の友であつただらう。西脇は多く聞かぬ氏族である。わたくしは五山堂詩話中に於て唯一の西脇|薪斎《しんさい》を見出した。薪斎は福島の士である。薪斎と棠園との縁故ありや否を知らない。
中秋には余語天錫《よごてんせき》の家に詩会があつて、蘭軒はこれに※[#「くさかんむり/(さんずい+位)」、第3水準1−91−13]《のぞ》んだ。其夜は月蝕があつたので、「幸将丹竈君家術、理取嫦娥病裏顔」の句がある。菅茶山にも亦「中秋有食」の詩があつた。「去歳既被雲陰厄、今年又逢此虫食」は其七古中の一解である。
次に冬の詩が四首あるが、其中には伝記に補入すべきものを見ない。わたくしは詩巻を掩うて勤向覚書を繙《ひもと》く。そしてそこに蘭軒の身上に重要なる事のあるのを見出す。
阿部侯|正精《まさきよ》は此年文政二年十一月二十七日に、遂に蘭軒をして儒にして医を兼ぬるものたらしめたのである。「十一月廿六日私儀明廿七日被為召候所、足痛に付名代皆川周安差出候段御届申上候。廿七日、前文之通周安差出候所、私儀御儒者被仰付候、医業只今迄之通と被仰付候。月並御講釈、学文所出席は御用捨被成下候。」一旦表医師となつて雌伏した蘭軒が、今や儒官となつて雄飛するに至つた。慣例を重んずる当時にあつては、異数と謂はなくてはなるまい。
十二月二十三日に蘭軒は例に依つて医術申合会頭としての賞を受けた。
此年伊沢宗家の主人|信美《しんび》が歿した。伊沢|徳《めぐむ》さんの繕写する所の系図には、四月二十一日歿すとしてある。蘭軒手記の勤向覚書には、閏《じゆん》四月六日に伊沢玄安が歿したために忌引をすると云つてある。玄安は信美の通称で、その終焉の日を殊にするは、分家が阿部家に届けた日と、宗家が黒田家に届けた日との差ではなからうか。
わたくしは伊沢信平さんに請うて宗家の過去帳を検してもらつた。「御申越しにより過去帳取調候処、左之通に御座候。五代目玄安、称仙軒徳山信美居士、文政二年己卯年四月廿二日卒。」名は信美、通称は玄安で、歿日は四月二十二日とするものに従ふべきであらう。
小島氏では此年宝素|尚質《なほかた》の妻山本氏が六月十九日に歿した。尋で尚質の納れた継室が一色氏で、即ち春沂《しゆんき》の母である。
頼氏では山陽が四十歳になつた。「平頭四十驚吾老、何況明朝又一年」は其除夜の詩句である。田能村竹田が此秋江戸に来た。
此年蘭軒四十三歳、妻益三十七歳、榛軒十六歳、常三郎十五歳、柏軒十歳、長六歳であつた。
その百六
文政三年春は江戸が特に暖であつたらしい。前年の十二月中雪が一度も降らなかつたことが、蘭軒の「庚辰元旦」の詩に見えてゐる。「三冬無雪自軽暄。今歳元旦春色繁。計得出遊宜火急。梅荘恐没一花存。」雪は正月の初に降つた。元旦と人日《じんじつ》との詩の間に、「雪日偶成」の作が介《はさ》まつてゐる。神辺の元旦はこれに反して雪後であつた。茶山の律詩に叙景の聯がある。「流漸汨々野渠漲。残雪輝々林日斜。」
此年の初には蘭軒は殆《ほとんど》戸外に出でずにゐたらしい。「豆日草堂小集」の詩に、「春至未趨城市間、梅花鳥哢一
前へ
次へ
全114ページ中35ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング