泉荘於南渓。挾粉白。擁黛緑。日会諸友。大張宴楽。糸竹争発。猜拳賭酒。既酔則倒置冠履。※[#「にんべん+差」、7巻−203−下−7]々起舞。」要するに才を恃《たの》み気を負ふもので、此種の人は必ずしも長者を敬重するものではない。
梅泉は江戸にも来たことがある。それは五山堂詩話に見えてゐる。補遺の巻《けんの》一である。中井董堂が五山に語つた董堂と江芸閣《こううんかく》との応酬の事が即是で、梅泉が其間に立つて介者となつてゐるのである。
その百
菊池五山はかう云つてゐる。「董堂来語云。崎陽舌官劉梅泉者客歳以事出都。書画風流。一見如旧。臨去飲餞蕊雲楼上。酒間贈別云。水拍欄干明鏡光。荷亭月浄浴清涼。離歌一曲人千里。間却鴛鴦夢裏香。今春劉寄書至。書中云。前年見贈高作。伝示之芸閣。芸閣云。董堂先生。書法遒美。神逼玄宰。余亦学董者。雖阻万里。猶是同社。我当和韵以贈。乃援筆書絹上。今此奉呈。其詩云。亭々波影悦容光。占得暁風一味涼。曾溌鴛鴦翻細雨。十分廉潔十分香。末署十二瑤台使者江芸閣稿。」
詩話に所謂《いはゆる》「客歳」とは何《いづ》れの年であらうか。同じ補遺の巻《けんの》一に女詩人大崎氏|小窓《せうさう》の死を記して、「女子文姫以今年戊寅病亡」と云つてある。五山が此巻を草したのは恐くは文政元年であらう。果して然らば劉梅泉の江戸に来たのは文化十四年丁丑で、神辺に宿したのと同じ年であらう。
詩話の文に拠れば、梅泉は江戸に来て、其年に又江戸を去つた。蕊雲楼《ずゐうんらう》の祖筵は其月日を載せぬが、「水拍欄干明鏡光、荷亭月浄浴清涼」の句は、叙する所の景が夏秋の交なることを示してゐる。祖筵の所も亦文飾のために知り難くなつてゐるが、必ずや池の端あたりであらう。
次に梅泉が神辺に宿したのは何時であらうか。菅茶山の書牘を見るに、事は書を裁した年にあつて、書を裁した日の前にあると知られるのみである。即ち文化十四年の初より八月七日に至るまでの間に、梅泉は神辺に来て泊つたのである。若し夏秋の交に江戸を去つたとすると、春夏の月日をば長崎より江戸に至る往路、江戸に於ける淹留に費したとしなくてはならない。わたくしは梅泉が丁丑の初に江戸に来り、夏秋の交に江戸を去り、帰途神辺に宿したものと見て、大過なからうとおもふ。
わたくしは既に梅泉の生歿年を明にし、又|略《ほゞ》その江戸に来去した月日を推度《すゐたく》した。わたくしは猶此に梅泉の画を江稼圃《こうかほ》に学んだ年に就いて附記して置きたい。
梅泉は長崎の人である。稼圃が来り航した時、恐くは多く居諸《きよしよ》を過すことなく従学したであらう。田能村竹田の山中人饒舌に「己巳歳江大来稼圃者至」と書してある。己巳は文化六年である。梅泉は恐くは文化六年に二十四歳で稼圃の門人となつたのであらう。
然るに此に一異説がある。それは稼圃の長崎に来たのを聞いて直に入門したと云ふ人の言《こと》を伝へたものである。森敬浩《もりけいかう》さんは川村雨谷を識つてゐた。雨谷の師は木下逸雲である。雨谷は毎《つね》に云つた。逸雲と僧鉄翁との江が門に入つたのは、逸雲が十八歳の時であつたと云つた。逸雲は慶応二年に江戸より長崎に帰る途次、難船して歿した。年は六十七歳であつた。此より推せば、逸雲は寛政十二年生で、其十八歳は文化十四年であつた。逸雲と鉄翁との江が門に入つた年が果して江の来た年だとすると、江は文化十四年に至つて纔《わづか》に来航したこととなるのである。
しかし此両説は相悖《あひもと》らぬかも知れない。何故と云ふに長崎にゐた清人《しんひと》は来去数度に及んだ例がある。文化六年に江が初て来た時は、逸雲は猶|穉《をさな》かつた。それゆゑ十四年に江が再び至るを俟《ま》つて始て従遊したかも知れない。只わたくしは江の幾たび来去したかを詳《つまびらか》にしない。或は津田繁二さんの許《もと》にはこれを徴するに足る文書があらうか。
わたくしは此《かく》の如く記し畢つた時、市河氏の書を得た。梅泉の市河米庵に与ふる書、並に大田南畝の長崎にあつて人に与へた書に拠れば、稼圃が初度の来航は文化元年甲子の冬であつたさうである。梅泉が其時従学したとすると、年正に十九であつた。
その百一
劉梅泉が文政二年の八月に歿してから七年経て、九年の冬田能村竹田は長崎に往つた。そして梅泉の母に逢つた。「有母仍在。為予説平生。且道。毎口予名弗措。説未畢。老涙双下。」
按ずるに母は游竜市兵衛の妻ではなくて、彭城《さかき》仁兵衛の妻であらう。養母ではなくて実母であらう。そして若し更に墓石に就いて検したなら、実母の名、其歿年、その竹田と語つた時の齢《よはひ》をも知ることが出来るであらう。
竹田と梅泉とは恐くは未見の友であつただらう。竹田は「屡蒙寄贈、且促予遊崎」と云つてゐる。わたくしは此「屡蒙寄贈」の四字から、梅泉が竹田に好《よしみ》を通じて、音問贈遺《いんもんぞうゐ》をなしながら、未だ相見るに及ばなかつたものと推するのである。二人は未見の友であつただらう。そして菅茶山が神辺にあつて狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の江戸より至るを待つた如くに、梅泉は長崎にあつて竹田の竹田《たけだ》より至るを待つたものと見える。しかし茶山はながらへてゐて、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎を黄葉夕陽村舎に留めて宿せしむることを得、梅泉は早く歿して、竹田の至つた時泉下の人となつてゐた。
竹田は梅泉の母に逢つて亡友の平生を問ひ、又諸友に就いて其行事の詳《つまびらか》なるを質《たゞ》した。竹田たるもの感慨なきことを得なかつたであらう。
或日竹田は郊外に遊んで、偶《たま/\》南渓に至り、所謂《いはゆる》梅泉荘の遺址を見た。梅泉の壮時、「挾粉白、擁黛緑、日会諸友、大張宴楽」の処が即此荘であつた。屋舎の名は吟香館で、江稼圃《こうかほ》と大田南畝との題※[#「匚<扁」、第4水準2−3−48]《だいへん》が現に野口孝太郎さんの許《もと》に存してゐる。竹田のこれを記した文は人をして読み去つて惻然たらしむるものがある。
「予与秋琴。一日郊遊。晩過一廃園。垣墻破壊。門※[#「戸の旧字/炯のつくり」、第3水準1−84−68]欹側。満池荒涼。只見瓦礫数堆耳。秋琴乃指曰。昔之梅泉荘是也。予愴然顧視。老梅数株。朽余僅存。有寒泉一条。潺々従樹下流出。其声嗚咽。似泣而訴怨者。植杖移※[#「日/咎」、第3水準1−85−32]。眉月方挂。如視梅泉之精爽。髣髴現出于前也。躊躇久之。冷風襲衣。仍不忍去。」
竹田が倶《とも》に郊外に遊んだ秋琴とは誰か。恐くは熊《ゆう》秋琴であらう。名は勇《ゆう》、字《あざな》は半圭《はんけい》、諸熊《もろくま》氏、通称は作大夫である。長崎の波止場に近い処に支那風の家を構へて住んでゐた。竹田は長崎にゐた一年足らずの月日を、多く熊の家に過したさうである。「出入相伴、同遊莫逆」とも云つてゐる。
秋琴も亦、木下逸雲、僧鉄翁と同じく、江稼圃の門人であつた。又梅泉が梅泉荘を有してゐた如くに、秋琴は睡紅園を有してゐた。
別に清客張秋琴があつて、蘭軒がこれに書を与へて清朝考証の学を論じたことは上《かみ》に云つたが、これは文化三年十一月|晦《みそか》に長崎に来て、蘭軒は翌年二月にこれと会見したのである。想ふに竹田の長崎に遊んだ頃は既に去つてゐたことであらう。
その百二
菅茶山の丁丑八月七日の書には、猶落合敬介と云ふ人が見えてゐる。敬助は諸国を遍歴して、偶然茶山の曾遊の跡を踏んで行つた。そして毎《つね》に茶山去後に其地に到つた。蘭軒は茶山に、その現に江戸にあつて、大田と同居し、数《しば/\》己を訪ふことを報じた。敬助は文章を善くした。茶山は評して富麗に過ぐと云ひ、蘭軒をしてその冗を去り簡に就くことを勧めしめむとしてゐる。
落合|※[#「庚/貝」、第3水準1−92−25]《かう》、字《あざな》は子載、初《はじめ》鉄五郎、後敬助と称し、※[#「隻+隻」、7巻−207−下−10]石と号した。日向国|飫肥《おび》の人である。※[#「隻+隻」、7巻−207−下−11]石の事は三村清三郎、井上通泰、日高無外、清水右衛門七の諸家の教に拠つて記す。
此年文化十四年八月二十五日に、阿部|正精《まさきよ》は所謂《いはゆる》加判の列に入つた。富士川游さんの所蔵の蘭軒随筆二巻がある。これは後明治七年に森|枳園《きゑん》が蘭軒遺藁一巻として印行したものの原本である。此随筆中「洗浴発汗」と云ふ条《くだり》を書きさして、蘭軒は突然|下《しも》の如く大書した。「今日殿様被蒙仰御老中恐悦至極なり。文化十四年八月二十五日記。」
十二月に至つて、蘭軒は阿部家に移転を願つた。丸山邸内に於ける移転である。勤向覚書にかう云つてある。「文化十四年丁丑十二月九日、高木轍跡屋敷御用にも無御座候はば、拝領仕度奉願上候。同月十七日、前文願之通被仰付候。同十七日、願之通屋敷拝領被仰付候に付、並之通拝借金被成下候。同月廿日、拝領屋敷え引移申候段御達申上候。」即ち移転の日は二十日であつた。
わたくしの考ふる所を以てすれば、伊沢分家が後文久二年に至るまで住んでゐたのは此家であらう。此高木某の故宅であらう。伊沢|徳《めぐむ》さんは現に此家の平面図を蔵してゐる。其間取は大凡《おほよそ》下《しも》の如くである。「玄関三畳。薬室六畳。座敷九畳。書斎四畳半。茶室四畳半。居間六畳。婦人控室四畳半。食堂二畳。浄楽院部屋四畳半。幼年生室二箇所各二畳。女中部屋二畳。下男部屋二畳。裁縫室二畳。塾生室二十五畳。浴室一箇所。別構正宗院部屋二箇所四畳五畳。浴室一箇所。土蔵一棟。薪炭置場一箇所。」此部屋割は後年の記に係るので、榛軒の継室浄楽院飯田氏の名がある。又|正宗院《しやうそうゐん》は蘭軒の姉|幾勢《きせ》である。しかし房数席数は初より此《かく》の如くであつたかとおもはれる。
二十三日に蘭軒は医術|申合会頭《まうしあはせくわいとう》たるを以て賞を受けた。勤向覚書に云く。「廿三日御談御用御座候所、長病に付名代山田玄升差出候。医術申合会頭出精仕候為御褒美金五百疋被成下候旨、関半左衛門殿被仰渡候。」
冬至の日に蘭軒は蘇沈良方《そちんりやうはう》の跋を書いた。蘇沈良方は古本が佚亡した。そして当時三種の本があつた。一は皇国旧伝本で寛政中|伊良子光通《いらこくわうつう》の刻する所である。一は呉省蘭《ごせいらん》本で嘉慶中に藝海珠塵《げいかいしゆぢん》に収刻せられた。一は鮑廷博《はうていはく》本で乾隆中に知不足斎《ちふそくさい》叢書に収刻せられた。鮑本は程永培《ていえいばい》本を底本となし、館本を以て補足した。皇国本は程本と一致して、間《まゝ》これに優つてゐる。呉本は鮑の所謂《いはゆる》館本である。蘭軒は三本を比較して、皇国本第一、呉本第二、鮑本第三と品定した。
蘭軒は一々証拠を挙げて論じてゐるが、わたくしは此に蘭軒が鮑本|香※[#「くさかんむり/需」、第4水準2−87−3]散《かうじゆさん》の条《くだり》を論ずる一節を抄出する。「香※[#「くさかんむり/需」、第4水準2−87−3]散犬が飜《こぼ》して雲の峰。」これは世俗の知る所の薬名だからである。「神聖香※[#「くさかんむり/需」、第4水準2−87−3]散。注(鮑本注)云。程本作香茸。方中同。疑誤。今遵館本。按。(蘭軒按。)図経本草曰。香※[#「くさかんむり/需」、第4水準2−87−3]一作香※[#「くさかんむり/矛/木」、7巻−209−上−14]。俗呼香葺。程本茸。即葺之訛。宋板書中。有作香茸者。其訛体亦従来已久。則改作※[#「くさかんむり/需」、第4水準2−87−3]者。妄断耳。」所謂宋板の書は宋板百|川学海《せんがくかい》、又本草綱目引く所の食療本草で、皆|茸《じよう》に作つてある。蘭軒は鮑廷博の妄に古書を改むるに慊《あきたら》ぬのである。蘭軒の跋は下《しも》の如く結んである。「嗚呼無皇国本。則不能見其旧式。無呉本。則不能校其字句。無鮑本。則不能知二家之別。
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