ある。
しかし茶山が書牘の「※[#「「卅」にさらに縦棒を一本付け加える」、7巻−197−上−14]年前」「三十年前」は、二箇所共に字画鮮明である。わたくしの読みあやまりではない。三十年前は分明に老茶山の記憶の誤である。啻《たゞ》に書の尽《ことごと》く信ずべからざるのみではない。古文書と雖、尽く信ずることは出来ない。※[#「さんずい+章」、第3水準1−87−8]州の牽牛花の種子は何年に誰から誰に伝はつても事に妨《さまたげ》は無い。わたくしの如き間人の間事業が偶《たま/\》これを追窮するに過ぎない。しかし史家の史料の採択を慎まざるべからざることは、此に由つても知るべきである。
わたくしは前《さき》に山陽の未亡人里恵の書牘に拠つて、山陽|再娶《さいしゆ》の年を定めた。しかし女子が己の人に嫁した年を記すると、老人が園卉種子《ゑんきしゆし》の授受を記するとは、其間に逕庭があらうとおもふ。
その九十七
菅茶山の朝貌《あさがほ》の話は、流暢な語気が殆どトリヰアルに近い所まで到つてゐる。想ふに茶山は平素語を秤盤《しようはん》に上《のぼ》せて後に、口に発する如き人ではなかつただらう。其坐談には諧謔を交ふることをも嫌はなかつただらう。わたくしは田能村竹田《たのむらちくでん》が茶山の笑談《せうだん》として記してゐた事をおもひ出す。それは頼|杏坪《きやうへい》を評した語であつた。「万四郎は馬鹿にてござる。此頃は蚊の歌百首を作る。又此頃はいつものむづかしき詩を寄せ示す。其中には三ずゐに糞と云ふ字までも作りてござる。」糞は独り糞穢《ふんくわい》のみでは無い。張華は「三尺以上為糞、三尺以下為地」とも云つてゐる。※[#「さんずい+糞」、7巻−198−上−7]《ふん》も亦|爾雅《じが》に「※[#「さんずい+糞」、7巻−198−上−7]大出尾下」と云つてある。註疏を検すれば、刑※[#「日/丙」、第3水準1−85−16]《けいへい》は「尾猶底也」「其源深出於底下者名※[#「さんずい+糞」、7巻−198−上−9]、※[#「さんずい+糞」、7巻−198−上−9]猶灑散也」などと云つてゐる。今謂ふ地底水であらう。郭璞《くわくぼく》は「人壅其流以為陂、種稲、呼其本出処、為※[#「さんずい+糞」、7巻−198−上−11]魁」と云つてゐる。即ち水源の謂で、ゐのかしらなどの語と相類してゐる。要するに必ずしも避くべき字では無い。茶山は戯謔《けぎやく》したに過ぎない。
茶山は朝顔の奇品を栽培してゐたが、人に種子《たね》を与へて惜まなかつたので、種子が遂に※[#「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2−84−70]《つ》きた。「はやらぬ時はあり。はやる時はなし。晋帥骨相之屯もおもふべし。」これは六三の「即鹿无虞」あたりから屯《じゆん》に説き到つたのであらう。
江戸の流行は十五六年にして京都に及び、京都の流行は十五六年にして江戸に及ぶ。「この蕣《あさがほ》は両地共一度也。いかなることや。」こゝまでは猶可である。重厚の風減じ、軽薄の俗長ず。「何さま昌平之化、可仰可感候。」これは余りに廉価なるイロニイである。
僧|混外《こんげ》も亦茶山の此書牘に見えてゐて、石田、岡本、田内、土屋の四人の名がこれに連繋して出てゐる。これは前年丙子の秋以来蘭軒が混外と往来するに至つた事を指して言つたものである。蘭軒が混外を評した中に僧の三瑕と云ふことがあつた。其一の「美僧はうけがたく候」と茶山が答へた。蘭軒が混外と相会した時、石田梧堂がこれを介したらしい。それゆゑ茶山は「梧堂つてにて御逢被成しや」と云つてゐる。蘭軒は前年初見の時の同行者として、梧堂を除く外、成田成章、大田農人、皆川叔茂を挙げてゐて、岡本、田内、土屋は与《あづか》らなかつた。或は再三往訪した時のつれか。茶山は岡本以下の知人が蘭軒と偕《とも》に金輪寺《こんりんじ》を訪うたのに、それを報ぜなかつたことを慊《あきたら》ずおもつた。「皆私知音之人、金輪へ参候時何之沙汰もなく残念に候。」
岡本忠次郎、名は成、字《あざな》は子省である。本近江から出た家で、父|政苗《まさたね》が幕府の勘定方を勤むるに至つた後の子である。忠次郎は南宮大湫《なんぐうたいしう》に学んだ。韓使のために客館が対馬に造られた時、忠次郎は董工のために往つてゐて、文化八年に江戸に還つた。茶山の手紙に書かれた時は職を罷める前年で、五十歳になつてゐた。
安中《あんなか》侯節山板倉勝明撰の墓碑銘に、忠次郎の道号として、豊洲、花亭、醒翁、詩癡、又|括嚢《くわつなう》道人が挙げてある。此中で豊洲、花亭、醒翁の号が茶山の集に見えてゐる。既に老後醒翁と号したとすれば、茶山のために竜華寺《りうげじ》の勝を説いた岡本醒廬も或は同人ではなからうか。
その九十八
菅茶山の蘭軒に与へた丁丑八月七日の書牘に、王子金輪寺の混外《こんげ》が事に連繋して出てゐる人物の中、わたくしは既に石田梧堂と岡本豊洲とを挙げた。剰す所は田内|主税《ちから》と土屋七郎とである。
田内は茶山が書を裁するに当つて、はつきり其氏をおもひ浮べることが出来なかつたと見えて、「か川」の傍註が施してある。田内か田川かとおもひまどつたのである。しかし田内の事は茶山集にも山陽集にも、詩題詩註に散見してゐる。始終茶山と太《はなは》だ疎《うと》くは無かつたのである。一説に田内は「でんない」と呼ぶべきであらうと云ふ。しかし茶山が田内か田川かとおもひまどつたとすると、当時少くも茶山はでんないとは呼んでゐなかつたらしい。
然らば菅頼二家の集は何事を載せてゐるかと云ふに、それは殆ど云ふに足らない。田内主税、名は輔《ほ》、月堂と号す、会津の人だと云ふのみである。わたくしは嘗て正堂の一号をも見たことがある。市河三陽さんに聞けば、輔は親輔の省で、字《あざな》は子友であつたと云ふ。幼《いとけな》い時から白川楽翁侯に近侍してゐた人である。南天荘主は頃日《このごろ》田内の裏書のある楽翁侯の歌の掛幅《くわいふく》を獲たさうである。
土屋七郎は殆ど他書に見えぬやうである。唯一つ頼|元鼎《げんてい》の新甫遺詩の中に、「要江戸土屋七郎会牛山園亭」と云ふ詩がある。「雨過新樹蔵山骨。燕子銜来泥尚滑。何計同人于野同。深欣発夕履予発。四海弟兄此邀君。三春風物纔半月。地偏無物充供給。独有隣翁分紫蕨。」土屋が江戸の人で安藝に往つてゐたことは、これに由つて知られる。後にわたくしは偶然此人の歿年を知ることを得たが、それは他日書き足すこととする。以上が混外に連繋した人物である。
茶山の書牘に又游竜の名が見えてゐる。游竜は神辺に来て旅宿にゐたので、茶山が訪はうとおもつた。此人の学殖があつて、画を善くするのを知つてゐたからである。しかるに茶山は病臥してゐて果さなかつた。游竜は門人か従者かをして茶山を訪はしめた。茶山はこれを引見して語を交へた。書牘の云ふ所は、凡《おほよそ》此《かく》の如くである。
茶山は単に「長崎游竜」と記してゐる。山陽、霞亭等の事を言ふ時と違つて、恰も蘭軒が既に其名を聞いてゐることを期したるが如くに見える。
わたくしは游竜の誰なるを知らなかつたので、大村西崖さんに問ひに遣つた。そしてかう云ふ答を得た。「御問合の游竜は続長崎画人伝に見ゆ。長崎の人なるべし。姓|不詳《つまびらかならず》。諱《いみな》は俊良、字《あざな》は基昌、梅泉又浣花道人とも号す。通称彦二郎。来舶清人|稼圃江大来《かほこうたいらい》に学び、親しく其法を伝ふ。歿年闕く。右不取敢御返事申上候。」
梅泉の一号が忽ちわたくしの目を惹いた。長崎の梅泉は竹田荘師友画録にも五山堂詩話補遺にも見えてゐて、わたくしは其人を詳にせむと欲してゐたからである。若し三書の謂ふ所の梅泉が同一の人ならば、游竜は劉氏であらう。長崎の劉氏は多くは大通事|彭城《さかき》氏の族である。游竜は彭城彦二郎と称してゐたものではなからうか。
さて游竜の歿年であるが、果して游竜が劉梅泉だとすると、多少の手がかりがないでもない。竹田は「丙戌冬到崎、時梅泉歿後経数歳」と云つてゐる。即ち文政九年より数年前に歿したのである。
わたくしは此の如くに思量して、長崎の津田繁二さんに問ひに遣つた。津田さんは長崎の劉氏の事を探らむがために、既に一たび崇福寺の彭城氏の墓地を訪うたことのある人である。
書は既に発した。わたくしは市河三陽さんの書の忽ち到るに会した。「劉梅泉は彭城彦二郎、游竜彦二郎とも称し候。頼|杏坪《きやうへい》とも会面したる旨、寛斎宛同人書翰に見え居候。彭城東閣の裔かと愚考仕候。」
わたくしの推測はあまり正鵠をはづれてはゐなかつたらしい。東閣は彭城仁左衛門|宣義《のりよし》である。「万治二亥年十月大通事被仰付、元禄八亥年九月十九日御暇御免、同九月二十一日病死、行年六十三。」津田さんは嘗てわたくしのために墓碑の文字をも写してくれた。「正面。故考広福院殿道詮徳明劉府君之墓。向左。元禄八年歳次乙亥季秋吉旦。孝男市郎左衛門恒道。継右衛門善聡同百拝立。向右。訳士俗名彭城仁左衛門宣義。」
その九十九
長崎の津田繁二さんはわたくしの書を得て、直に諸書を渉猟し、又崇福寺の墓を訪うて答へた。大要は下《しも》の如くである。
彦次郎の実父を彭城《さかき》仁兵衛と云つた。文書に「享和三亥年二月十日|小通事並《せうつうじなみ》被仰付」とあり、又「文化二丑年五月十六日より銀四貫目」とある。仁兵衛に二子があつて、長を儀十郎と云ひ、次を彦次郎と云つた。儀十郎が家を継いだ。「文化十五寅年六月十二日小通事並被仰付」とある。
次男彦次郎は出でて游竜市兵衛の後を襲いだ。市兵衛は素《もと》林氏であつた。昔林道栄が官梅を氏とした故事に傚《なら》つて游竜を氏とし、役向其他にもこれを称した。長崎の人は游を促音に唱へて、「ゆりう」と云ふ。しかし市兵衛の本姓は劉であるので、安永四年に名を梅卿と改めてからは、劉梅卿とも称してゐた。
彦次郎の官歴は下の如くである。「享和元酉年七月廿七日稽古通事被仰付。文化七午年十二月十二日小通事末席被仰付。文政二卯年四月二十七日小通事並被仰付。」
墓は崇福寺にある。「正面。吟香院浣花梅泉劉公居士、翠雲院蘭室至誠貞順大姉。向右。天明六年丙午八月廿日誕、文政二年己卯八月初四日逝、游竜彦次郎俊良、行年三十四歳。向左。文化九年壬申十月廿五日逝、游竜彦次郎妻俗名須美。」
是に由つて観れば、彦次郎は天明六年に生れ、享和元年に十六歳で稽古通事になり、文化七年に二十五歳で小通事末席になり、九年に二十七歳で妻を喪ひ、文政二年に三十四歳で小通事並になり、其年に歿した。神辺《かんなべ》に宿つてゐて菅茶山の筆に上《のぼ》せられたのは三十二歳即歿前二載、田能村竹田に老母を訪はれたのは歿後七載であつた。竹田が「年殆四十、忽然有省、折節読書」と云つてゐるのは、語つて詳《つまびらか》ならざるものがある。職を罷めて辛島塩井《からしまえんせい》に従学しようと思つてゐながら、病に罹つて死んだのは事実であらう。
茶山の書牘に拠るに、梅泉は神辺に往つた時、茶山を訪はなかつた。そして「門人か※[#「にんべん+慊のつくり」、第3水準1−14−36]か」と見える漢子《かんし》を差遣した。茶山はこれを引見して話を聞いた。そして我より往いて訪ふべきではあつたが、病のために果さなかつたと云つてゐる。
茶山は梅泉の学問をも技藝をも認めてゐた。然るに其人が神辺にゐて来り訪はぬのである。茶山がいかに温藉の人であつたとしても、自ら屈して其旅舎に候《うかが》ふべきではあるまい。茶山の会見を果さなかつたのは、啻《たゞ》に病の故のみではあるまい。
わたくしは梅泉が頗る倨傲であつたのではないかと疑ふ。竹田の社友に聞いた所の如きも、わたくしの此疑を散ずるには足らぬのである。「蓋其人才気英発。風趣横生。超出物外。不可拘束。非尋常庸碌之徒也。聞平日所居。房槞華潔。簾幕深邃。衣服清楚。飲食豊盛。異書万巻。及名人書画。陳列左右。坐則煮茗插花。出則照鏡薫衣。置梅
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