同居にてたび/\御逢被成候よし、如仰好人物也。詩文はよく候へども富麗に過候。最早あの位に出来候へば、取きめて冗雑《じようざつ》ならぬ様に被致かしと奉存候。このこと被仰可被下候。」
「長崎游竜見え候時、不快に而其宿へ得参不申候。門人か※[#「にんべん+慊のつくり」、第3水準1−14−36]《けん》か見え候故、しばらく話し申候。寝てゐる程の事にもあらず候。這《この》漢《かん》学問もあり画もよく候。逢不申残念に御坐候。私気色は春よりいろ/\あしく候。然ども浪食もとのごとくに候。今年七十に候へば、元来の病人|衰旄《すゐばう》は其所也。」
「金輪《こんりん》上人度々御逢被成候よし、御次《おんついで》に宜奉願上候。三瑕之内美僧はうけがたく候。梧堂つてにて御逢被成候ひしや。其外岡本忠次郎君、田内(か川)主税《ちから》、土屋七郎なども参候よし、みな私知音之人、金輪へ参候時何の沙汰もなく残念に候。」
その九十四
此年文化十四年八月七日に、菅茶山の蘭軒に与へた書は、文長くして未だ尽きざるゆゑ、此に写し続ぐ。
「牽牛花《あさがほ》大にはやり候よし、近年上方にてもはやり候。去年大坂にて之番附坐下に有之、懸御目申候。ことしのも参候へども此頃見え不申候。江戸書画角力は相識の貌《かほ》もあり、此|蕣角力《あさがほすまふ》は名のりを見てもしらぬ花にてをかしからず候。前年御話申候や、わたくし家に久しく※[#「さんずい+章」、第3水準1−87−8]州《しやうしう》だねの牽牛花《けんぎうくわ》あり。もと長崎|土宜《みやげ》に人がくれ候。※[#「「卅」にさらに縦棒を一本付け加える」、7巻−192−上−12]年前也。花大に色ふかく、陰りたる日は晩までも萎《しぼ》まず。あさがほの名にこそたてれ此花は露のひるまもしをれざりけりとよみ候。其たねつたへて景樹《かげき》といふうたよみの処にゆきたれば、かかるたねあること知らで朝顔をはかなきものとおもひけるかなとよみ候よし。私はしる人にあらず、伝へゆきしなり。これは三十年前のこと也。さて其たね牽牛花《あさがほ》はやるにつき段々人にもらはれ、めつたにやりたれば、此年は其たねつきたり。はやらぬ時はあり。はやる時はなし。晋帥《しんすゐ》骨相之屯《こつさうのじゆん》もおもふべし。呵々。扨高作は妙也。申分なし。段々上達可思也。曾てきく。上方にはやること、大抵十五六年して江戸へゆき、江戸にはやること亦十五六年して上方へ来ると云。この蕣《あさがほ》は両地一度也。いかなる事や。重厚之風段々減じ、軽薄之俗次第に長ずるにはあらずや。何さま昌平之化可仰可感候。」
「梧堂より両度書状、今以返事いたさず、畳表之便をまち申候。其内先此一首にて、王子と両方への御断也。御届け可被下候。」
「※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎隠居之譚とくより承候。あたらしく被仰下候而物わすれは老人のみにあらずと、差彊人意《やゝじんいをつようし》候。書中に御坐候。松崎ほめ候へ共、簾《れん》はいまだ知音を不得候よし申参候。千載の知己をまつの外せんすべなかるべし。この松崎は旧知識也。在都中不逢候を遺恨に覚え候。御逢被成候はば宜御つたへ被下よと、御申可被下候。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎西遊之志御坐候よし、これは何卒晋帥が墓にならぬうちに被成よと、御申可被下候。長崎は一とほり見ておきたき所也。私も志ありしかども縁なし。何卒御すすめ可被下候。市野のわる口は前書にあり。此不贅《こゝにぜいせず》。八月七日。是日|別而《べつして》暑甚し。これまでは涼しきにこまりたり。菅太中晋帥。伊沢辞安様。落合敬介漂流のうち、ここかしこ、いづくもわたくし相しれる所へ参られ候は奇也。別而宜しく御伝可被下候。御地久しく雨ふらず候よし、※[#「敝/犬」、7巻−193−上−13]郷も亦同じ。五六日ふりしのち此|比《ごろ》までふらず、此比三度少し宛《づつ》ふりたれども、地泥《ちでい》をなすにいたらず。然れども此上ふりてはまたあしし。これにてよき程也。これは※[#「敝/犬」、7巻−193−上−16]郷に宜《よろし》。土地によるべし。」
「尚々古庵様、服部氏、市川先生、凡私を存候人々へ宜奉願上候。別而御内政様、両|令郎《れいらう》は勿論、おさよどのまで不残奉願上候。ふしぎは今年蛇蚊蛙すくなく、燕はいつも春晴桃紅《しゆんせいももくれなゐ》に梅雨柳くらき比軒ばに来り、※[#「口+尼」、第4水準2−3−73]喃《ぢなん》かまびすしきに、ことしは三日に一度、五日に一度くらゐ稀に見申候。此比虫語常年のごとし。」
此手紙は長さ五尺|許《ばかり》の半紙の巻紙に細字で書いてある。分註あり行間の書入あり、原本のままには写しにくいので、文意を害せざる限は、本文につづけてしまつた。但「※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎翁」の下《もと》にある填註のみは括弧内に入れた。
その九十五
菅茶山の書牘に許多《あまた》の人名の見えてゐることは、上《かみ》に写し出した此年文化十四年八月七日の書に於ても亦同じである。
狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は此|比《ころ》隠居した。恐くは此年隠居したと云つても好からう。わたくしは世に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎詳伝のありやなしやを知らない。わたくしの知る所は只松崎|慊堂《かうだう》の墓碣銘《ぼけつめい》のみである。慊堂はかう云つてゐる。「翁年四十余。謂曰。児已長。能治家。我将休矣。遂卜築浅草以居。扁曰常関書院。署其室曰実事求是書屋。又号※[#「虫+覃」、第4水準2−87−88]翁。皆表其志也。」所謂《いはゆる》「年四十余」は年四十三に作つて可なることが、此書牘に徴して知られるのである。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の退隠の年を明にすると云ふことは、わたくしの以て大に意義ありとなす所である。若し別に詳伝がないとすると、これも亦一の発見である。
湯島の狩谷の店には懐之《くわいし》、字《あざな》は少卿《せうけい》が津軽屋三右衛門の称を襲《つ》いですわつたのであらう。慊堂が「風度気象能肖父」と云つてゐるから、立派な若主人であつたかとおもふ。しかし年は僅に十四であつた。安政三年に五十三歳で歿した人だからである。
書牘には論語を送られた礼を※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎にも伝へてくれと云つてある。論語は市野迷庵の覆刻した論語集解であらう。迷庵の所謂「六朝経書、其伝者世無幾」ものであらう。蘭軒は初め短い手紙を添へて茶山に此本を見せに遣つた。尋《つい》で「あれは献上する」と云つて遣つた。茶山は蘭軒に其礼を言つて、同時に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎にも礼を言つてくれと云つておこせたのである。わたくしは此間の消息を明にするために、覆刻本の序跋を読んで見たくおもふ。しかし其書を有せない。わたくしは市野|光孝《くわうかう》さんの許《もと》で其書を繙閲して、刻本の字体を記憶してゐるのみである。想ふにこれも亦所謂珍本に属するものであらう。
今一つ注目すべきは※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の辛巳西遊の端緒が、早く此年文化十四年に於て見《あらは》れてゐる事である。茶山は「晋帥が墓にならぬうちに被成よ」と云つて催促してゐる。此より後四年にして※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は始て志を遂げ、茶山を神辺に訪ふことを得た。
次に松崎慊堂の名が茶山の此書牘に見えてゐる。しかも其事は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に連繋してゐる。此所の文は少し晦渋である。「書中に御坐候。松崎ほめ候へ共、簾はいまだ知音を得ず候よし申参候。千載の知己をまつの外せむすべなかるべし。」茶山は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に院之荘の簾を贈つた。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の書中に此簾の事が言つてある。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は簾を実事求是《じつじきうし》書屋に懸けて客に誇示してゐる。しかし慊堂一人がこれを歎美したのみで、簾は人の称讚を得ないと云つてある。然らば簾は知己を千載の下《しも》に待つ外あるまい。わたくしは読んで是《かく》の如くに解する。
香川景樹と菅茶山との関係も亦此書牘に由つて知られる。寧関係の無いことが知られると云つた方が当つてゐるかも知れない。頼氏には深く交つた景樹も、菅氏とは相識らなかつたのである。茶山は四十年前に午《ひる》萎《しを》れぬ※[#「さんずい+章」、第3水準1−87−8]州産の牽牛花《けんぎうくわ》を栽培してゐた。景樹が三十年前に其種子を得て植ゑ、歌を詠んだ。茶山は「私はしる人にあらず、伝へゆきしなり」と云つてゐる。
茶山が此逸事を筆に上せたのは、蘭軒が江戸に於ける朝顔の流行を報じたからである。蘭軒はこれを報ずるに当つて、詩を寄示した。集に載する所の「都下盛翫賞牽牛花、一絶以紀其事」の作である。「牽牛奇種家相競。不譲魏姚分紫黄。請看東都富栄盛。万銭購得一朝芳。」
文化十四年より三十年前は天明七年である。朝顔の種子《たね》が菅氏から香川氏に伝はつた時、文字の如く解すれば、茶山が四十歳、景樹が僅に二十歳であつた筈である。しかしわたくしは此推定に甘んぜずに、更に討究して見ようとおもひ立つた。
その九十六
菅茶山の書牘中にある香川景樹の朝顔の歌は、わたくしの素人目を以てしても、分明に桂園調で、しかも第五句の例の「けるかな」さへ用ゐてある。わたくしは景樹の集に就いて此歌を捜さうとおもつた。然るに竹柏園主の家が遠くもない処にある。多く古今の歌を記憶してゐる人である。或はことさらに捜すまでもなく此歌が其記憶中にありはせぬかとおもつた。
わたくしは茶山と景樹との歌を書いて、出典は文化十四年の茶山の消息《せうそこ》と註し、「景樹の此歌他書に見え候ものには無之候や」と問うた。此歌は園主の記憶中には無かつた。後におもへば目に立つべき歌ではなかつたから、園主の記せざるは尤の事であつた。園主は出典の文化十四年と云ふに注目して、文化十年以後の景樹の歌を綿密に検したが、尋ぬる歌は見えなかつた。只文化十四年に景樹が難波人《なにはびと》峰岸某から朝顔の種子《たね》を得た歌を見出したのみであつた。そしてそれは勿論|異歌《ことうた》であつた。
これはわたくしの問ざまが悪かつたのである。書牘は文化十四年の書牘だが、茶山は昔語をしてゐたのである。園主に徒労をさせたのは、問ふもののことばが足らなかつたためである。
書牘の云ふ所に拠るに、茶山は四十年前に※[#「さんずい+章」、第3水準1−87−8]州|牽牛花《けんぎうくわ》の種子を獲たさうである。文化十四年丁丑より四十年前は安永六年丁酉で、茶山は二十九歳、景樹は十歳である。かくて三十年前に至つて、種子は神辺の茶山の家より景樹の許に伝はつたと云ふ。三十年前は天明七年丁未である。茶山四十歳、景樹二十歳の時である。兎に角景樹は既に京都に上つてゐる。わたくしはこれを竹柏園主に告げて、再び探討の労を取らむことを請うた。園主の答は下《しも》の如くであつた。
「拝見。文化十年以後をずつと調べ候ひしに無之、唯今の御状により更に始の方を調べ候に、享和二年|戌《いぬの》四月十六日と十八日との中間に真野敬勝《まのけいしよう》ぬし※[#「さんずい+章」、第3水準1−87−8]州の牽牛花の種を給ひける、こはやまとのとはことにて、夕方までも萎《しぼ》まで花もいとよろしと也、かかる種子あることしらで朝顔をはかなきものとおもひけるかなと有之候を見出、まことに喜ばしく候。茶山のうたは無論無之候。御状の景樹二十歳位とあるは必ず誤と存じ候事にて、三十年前は何か手紙の御よみちがへには無之やと存候。」
問題は此に遺憾なく解決せられた。菅氏の牽牛花の種子は真野敬勝の手を経て景樹の許《もと》に到つた。時は享和二年壬戌であつた。文化十四年より算すれば十五年前で、三十年前では無い。茶山は五十五歳、景樹は三十五歳の時で
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