は門人近藤|玄之《げんし》、佐井|聞庵《ぶんあん》、竹中|文輔《ぶんすけ》の同建にかかる。氏の門人録によれば、近藤は下総の人にして、佐井竹中の両氏は録中にその名を見ず、晩年の門人ならむとおもはる。」檗山錦橋の碑には、建立者三人の氏名を除いては、何も彫《ゑ》つてないのであらうか。わたくしはそれが知りたい。わたくしは此記の誰が手に成れるかを知らぬが、其人は既に錦橋の門人録を閲《けみ》してゐる。贄《し》を執るものに血判せしめた錦橋の門人録は、或は珍奇なる文書ではなからうか。其人は或は池田氏の事に精《くは》しい人ではなからうか。
 嶺松寺の廃せられた後、遺迹の全く亡びたのは京水である。わたくしは最も京水の墓の処分せられ、其誌銘の佚亡に至つたことを惜む。
 爰《こゝ》に吉永卯三郎さんと云ふ人がある。わたくしに書を寄せてかう云ふことを報じてくれた。「嶺松寺及池田氏墓誌銘は江戸黄蘗禅刹記巻第五に記載有之候。右書は帝国図書館に所蔵有之候。其方差支有之候はば、小生も一本を持居候。池田錦橋氏の墓は山城宇治黄蘗山万松岡独立墓の側にも一基有之候。」想ふに禅刹記には必ず錦橋の墓誌が載せてあるであらう。若し京水のものも併せ載せてあつたなら、それは予期せざる幸であらう。若し富士川氏の手抄に偶《たま/\》一節を保存せられた文の全篇が載せてあつたなら、それは予期せざる幸であらう。
 わたくしは蔵書の乏しい癖に、図書館には疎遠である。吉永氏の書を得た後、未だ一訪するに及ばない。識る所の書估の云ふを聞くに、江戸黄蘗禅刹記は所謂《いはゆる》珍本ださうである。買ひ求むることはむづかしさうである。或はわたくしも早晩遂に図書館に趨らざることを得ぬかも知れない。

     その九十一

 小島春庵|尚質《なほかた》が初て妻を娶つたのも、此年文化十三年十一月二十九日である。春庵尚質は春庵|根一《もとかず》の子で、所謂《いはゆる》宝素である。長井金風さんの言《こと》に拠れば、曾て揚上善《やうじやうぜん》の大素経《たいそけい》を獲て、自ら宝素と号したのださうである。尚質の母は蘭学者前野|良沢憙《りやうたくよみす》の女《むすめ》である。憙は老後根岸の隠宅から小島の家に引き取られて終つた。尚質の初の妻は山本|宗英《そうえい》の女である。春沂《しゆんき》を生んだのは此女ではない。此女の歿した後に来た後妻である。
 此年蘭軒は四十歳、妻益は三十四歳、子女は榛軒十三歳、常三郎十二歳、柏軒七歳、長三歳であつた。
 文化十四年には蘭軒が「丁丑新歳作」と題する七律を遺してゐる。「君恩未報抱※[#「さんずい+冗」、第4水準2−78−26]痾。暖飽逸居頭稍※[#「白+番」、7巻−186−下−14]。梅発暄風香戸※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]。靄含春色澹山阿。好文化遍家吟誦。奏雅声調人暢和。新歳不登公館去。椒樽相対一酣歌。」一二七の三句があつて病蘭軒の詩たるに負《そむ》かない。「頭稍※[#「白+番」、7巻−187−上−3]」は恐くは実を記したものであらう。頸聯には自註がある。「註云。我公好学多年。群臣亦大化。他諸侯之国。如我藩者絶少矣。去年来公又以暇日。時或習古楽。有侍臣数人亦学之者。邸中※[#「瓜+炮のつくり」、7巻−187−上−6]竹之声。頗使人融雍。故五六及之。」阿部侯|正精《まさきよ》は丙子の年から雅楽を習ひはじめたと見える。
 菅茶山は此年正月二十一日に蘭軒に与ふる書を作つた。此書も亦饗庭篁村さんの蔵儲中にある。
「新禧|弥《いよ/\》御安祥御迎可被成遙賀仕候。晋帥病懶依然御放念可被下候。去年|下宮大夫《しもみやたいふ》臥病の節は御上屋敷迄も御出之由、忙程之事出来候へば大慶也。追々脚力も復し可申やと奉存候。只私がごとくよりによりたる年浪は立帰る期《ご》なし。御憐察可被下候。」
「扨津軽屋へ約束いたし候院之荘之|古簾《ふるすだれ》、旧冬やう/\と得候故、船廻しに而《て》進《しんじ》候。御届可被下候。後醍醐帝御旅館|某《それがし》が家に、今簾をかけ候。これは須磨などに行在処《あんざいしよ》の跡とてかけ候を見及たるや。即備後三郎が詩を題せし所也。作州津山《さくしうつやまより》四五里|許《ばかり》有之所のよし、院之荘は其地名也。これは十四年前備前之人を頼置候。度々催促すれども得がたし/\と申而居候故、もはやくれぬ事かと思切ゐ申候処、去冬忽然と寄来候。作州より三十里川舟にて岡山へ参、夫より洋舟《なだふね》にて三十里、児島を廻る故遠し、笠岡てふ所へ参、そこより三里私宅へ参候へば、物は軽く候へども、世話は世話也。銭は一文もいらず候。此世話|計《ばかり》をかの十符《とふ》の菅菰《すがごも》之礼と被仰可被下候。」
「扨市野など不相替会合可有之遙想仕候。梧堂はいかが。杳然せうそこなし。其外存候人へ御致声《ごちせい》宜奉願上候。別而《べつして》御内政《ごないせい》様おさよどのへ御祝詞奉願上候。此次《このたび》状多したため腕疲候而やめ申候。春寒御自玉可被成候。恐惶謹言。正月廿一日。菅太中晋帥《くわんたいちゆうしんすゐ》。伊沢辞安様。去年詩画騒動之詩、尺牘とも見申候。番付未参候、あらば御こし可被下候。詩御一笑可被下候。うつさせて梧堂へ御見せ可被下候。」
「尚々卿雲へこたび書状なし。宜御申可被下候。たび/\問屋のやう御頼、所謂《いはゆる》口銭もなし。御面倒奉察候。」

     その九十二

 此丁丑正月の菅茶山の書に所謂「下宮大夫臥病」云々は、前に引いた勤向覚書に見えてゐる往診の事である。大夫下宮、通称は三郎右衛門、神田にある阿部家の上屋敷にゐて病に罹つたので、蘭軒は丸山の中屋敷から往診した。此機会に蘭軒は轎《かご》に乗つて上屋敷に出入する許可を受けたのである。
 院之荘の簾《すだれ》の事は興ある逸話である。狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は茶山に十符《とふ》の菅薦《すがごも》を贈つた。茶山は其|報《むくい》に院之荘の簾を遺《おく》ることを約した。それを遷延して果さなかつたのに、今やう/\求め得て送つたのである。
「去年詩画騒動」とは底事《なにごと》か未だ考へない。当時寛斎、天民、五山、柳湾の詩、文晁、抱一、南嶺、雪旦の画等が並び行はれてゐたので、「番附」などが出来、其序次が公平でなかつたために騒動が起つたとでも云ふ事か。「詩尺牘とも」見たと、茶山は云つてゐるが、※[#「くさかんむり/姦」、7巻−188−下−9]斎《かんさい》詩集にはそれかと思はるる詩も見えない。
 慣例のコンプリマンは簾を得て書を得ざる※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、茶山の詩を見せてもらふ石田梧堂の外、蘭軒の妻妾《さいせふ》に宛《あ》ててある。
 蘭軒の集中には此年元旦の作の後に、春季の詩七首がある。此にその作者の出入起居を窺ふべきものを摘取することとする。蘭軒の例として催す「豆日草堂集」は、恰《あたか》も好し、雪の新に霽れた日であつた。「竹裏数声黄鳥啼。漫呼杖※[#「尸+(彳+婁)」、第4水準2−8−20]到幽棲。恰忻春雪朝来霽。麗日暄風晞路泥。」又「春日即事」の詩に「春困奈斯睡味加、筑炉薩罐煮芳芽」の句がある。筑炉の下《もと》には「家姉之所贈」と註し、薩罐《さつくわん》の下には「家兄之所贈」と註してある。家姉の幾勢《きせ》たるは論なく、家兄は蘭軒の宗家伊沢|信美《しんび》を呼ぶ語であつたことが、此に由つて考へられる。菅茶山が「麻布令兄」と書した所以《ゆゑん》であらう。此春蘭軒は轎《かご》に乗つて上野の花をも見に往つた。「東叡山看花」の絶句に、「劉郎不復曾遊態、扶病漫追芳候来」の句がある。
 長崎に真野遜斎《まのそんさい》と云ふものがあつて、六十の寿筵が開かれたのも此春である。蘭軒の「遙寿長崎遜斎真野翁六十」の詩に、「嚢中碧※[#「竹かんむり/(金+碌のつくり)」、第3水準1−89−79]伝三世、局裏金丹恵衆民」の頷聯があつて、其下に「老人為施薬所主司」と註してある。
 僧|混外《こんげ》が蘭軒に芭蕉を贈つたのも此春である。「清音閣主混外上人見贈芭蕉数根、賦謝」として七絶がある。「懐師方外辱交情。寄贈芭蕉数本清。従此孤吟風雨夕。応思香閣聴渓声。」宥快《いうくわい》は居る所の室を清音閣と云つて、其清音は滝の川の水声を謂つたものと見える。
 其他此春少壮官医中に蘭軒の規箴《きしん》を受けたものがあるらしい。わたくしは「戯呈山本莱園小島尚古二公子」の詩を読んで是《かく》の如くに解する。「方怕芳縁相結得、鮮花香裡不帰来」は、戯《たはぶれ》と称すと雖も、実は規であらう。
 莱園の誰なるかは、わたくしは知らない。或は法眼宗英の家の子弟ではなからうか。尚古《しやうこ》も亦未詳である。海保漁村の経籍訪古志の序に、小島宝素の事を謂つて、「宝素小島君学古」となしてある。尚質《なほかた》の字《あざな》は学古とも尚古とも云つたのではなからうか。尚質は此年二十一歳であつた。
 わたくしは只蘭軒が何故に菅茶山のために寿詞を作らなかつたかを怪む。茶山の七十の寿筵が其誕辰に開かれたとすると、此年二月二日であつた筈である。寛延元年二月二日に菅波喜太郎《すがなみきたらう》として生れたからである。

     その九十三

 菅茶山の七十の誕辰は、行状に「十四年(文化)丁丑、先生年七十、賜金寿之」と書してある。阿部家から金を賜はつたことである。其日の七律の七八に「展観寿頌堆牀上、且喜諸公未我捐」と云つてある。詩集の載する所のみを以てしても、楽翁白川老侯は「寿歌寿杯」を賜はつた。谷文晁は「※[#「石+番」、第4水準2−82−57]※[#「石へん+奚」、第4水準2−82−50]跪餌図」を作つて贈つた。茶山も幸にして病に悩されずに、快く巵《さかづき》を挙げたと見える。「不知身上残齢減。猶且欣々把寿巵。」前にも云つたやうに、わたくしは蘭軒の寿詞の闕けてゐるのを憾とする。
 茶山の家では夏に入つてから後も、祝賀の余波が未だ絶えなかつた。「誕辰後諸君持詩来集」の七律に、「新荷嫩筍回塘夕、微暑軽寒熟麦時」の頸聯がある。祝賀は麦秋《むぎあき》の頃にさへ及んだのである。
 此年の夏以後、蘭軒の集中には僅に四首の詩を存してゐて、しかも其一は題があつて詩が無い。人のために画に題する詩の中で、吉田周斎がためにするものは詩があつて、門人|秦玄民《はたげんみん》がためにするものは詩がないのである。玄民は書家星池の弟で、後に飯田氏を冒したものである。
 旺秋に入つてから、茶山の蘭軒に寄せた書牘が遺つてゐる。是より先七月に茶山は蘭軒の書を得てこれに答へた。次で蘭軒の再度の書が来て、茶山は八月七日に此書牘を作つたのである。これは文淵堂所蔵の花天月地《くわてんげつち》中に収められてゐる。
「先達而《せんだつて》御寸札ならびに論語到来、其御返事先月廿日|比《ごろ》いたし、大坂便にさし出候。今度御書に而は、右本御恵賜被下候由扨々忝奉存候。いよいよ珍蔵可仕候。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎翁へも(隠居故翁と書たり)宜御礼奉願上候。御状も来候へども、此便急に而御返事期他日候。」
「今年御地寒熱之事被仰下、いづかたも同様也。先去冬甚あたたかに、三冬雪を見ず、夫《それ》にしては春寒ながく候ひき。土用中|以外《もつてのほか》ひややかに、初秋になりあつく候。秋はきのふたちぬときけど中々にあつさぞまさる麻のさごろもなどとつぶやき候。此比又冷気多く候処、今日より熱《あつさ》つよく候。いかなる気候に候や。生来不覚位の事也。先冬あたたかに雪なく、夏涼しくて雷なく、凌ぎよき年也。ことに豊年也。世の中も此通ならば旨き物也。諺に夏はあつく冬はさむきがよいと申せばさ様にも無之や。御地土用見廻之人冷気之見廻を申候よし、因而《よつて》憶出候。廿五六年前|一年《ひとゝせ》京にゐ候時、暑甚しく、重陽などことにあつし。今枝某といふ一医生礼にきたり、いつも端午が寒ければ、わたいれの上に帷子《かたびら》を著す、今日は帷子の上にわたいれを著して可然などと申候。」
「落合敬助太田
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