んめつ》したるより生ずるのである。わたくしは抽斎伝中に池田氏の事を叙するに当つて、下《しも》の史料を引用することを得た。一、二世池田瑞仙|直卿《ちよくけい》の撰んだ錦橋の行状。直卿は即村岡善次郎である。瑞仙は錦橋の通称で、後これを世襲した。二、池田氏過去帖。これは三世池田瑞仙|直温《ちよくをん》の自筆本で、池田氏の菩提所向島|嶺松寺《れいしようじ》に納めてあつたものである。わたくしは向島弘福寺主に請うて借閲し、副本を作つて置いた。三、富士川氏の手帳並日本医学史。手帳は富士川游さんが嶺松寺の墓誌銘に就いて抄録したものである。日本医学史には此抄録が用ゐてある。
以上の史料の載する所は頗る不完全であつた。それゆゑわたくしは嶺松寺の墓石の行方を捜索した。墓誌の全文を見むがためである。しかしそれは徒労に帰した。嶺松寺の廃寺となるに当つて、墓石は処分せられた。此墓石の処分といふことは、明治以後盛に東京府下に行れ、今に至つて猶|熄《や》むことなく、金石文字は日々湮滅して行くのである。わたくしに此重大なる事実を知る機会を与へたものは、彼捜索である。
抽斎伝を草し畢つた後、わたくしは池田宗家の末裔と相識ることを得た。三世瑞仙直温は明治八年に歿し、直温の妻窪田清三郎の女《むすめ》啓《けい》が後を襲いだ。これが瑞仙の家の第四世池田啓である。啓の後は啓の仲兄笠原|鐘三郎《しようざぶらう》の子鑑三郎が襲いだ。これが瑞仙の家の第五世池田鑑三郎さんである。
或日鑑三郎は現住所福島市大町から上京して、再従兄《さいじゆうけい》窪田|寛《くわん》さんと共にわたくしの家を訪うた。啓の父清三郎の子が主水《もんど》、主水の子が即寛で、現に下谷仲徒士町《したやなかかちまち》に住してゐる。
わたくしは鑑三郎に問うて、池田宗家累世の墓が儼存してゐることを知つた。嶺松寺が廃寺となつた後、明治三十年に鑑三郎は合墓《がふぼ》を谷中墓地に建てた。合墓には七人の戒名が刻してある。養真院殿元活瑞仙大居士は初代瑞仙錦橋である。芳松院殿縁峰貞操大姉は錦橋の妻|菱谷《ひしたに》氏である。善勝院殿霧渓瑞翁大居士は二世瑞仙直卿である。秋林浄桂大姉は直卿の妾《せふ》である。養寿院殿本如瑞仙大居士は三世瑞仙直温である。保寿院殿浄如貞松大姉は直温の妻にして瑞仙の家第四世の女主啓、窪田氏である。以上の六|諡《し》は正面に彫《ゑ》つてある。梅嶽真英童子は直温の子洪之助である。此一諡だけは左側面に彫つてある。
改葬には二つの方法がある。古墓石を有形《ありがた》の儘に移すこともあり、又別に合墓を立つることもある。森|枳園《きゑん》一族の墓が目白より池袋に遷された如きは前法の例とすべく、池田宗家の墓が向島より谷中に遷された如きは後法の例とすべきである。彼の此に優ることは論を須《ま》たぬが、事は地積に関し費用に関するから、已むを得ずして後法に従ふこともある筈である。わたくしは池田宗家の諸墓が全く痕跡なきに至らなかつたのを喜ぶと同時に、其墓誌銘の佚亡を惜んで已まぬのである。
池田宗家の墓が谷中に徙《うつ》された時、分家京水の一族の墓は廃絶してしまつたらしい。
その八十八
池田氏宗家の末裔鑑三郎さんは、独りわたくしに宗家の墓の現在地を教へたのみではない。又わたくしに重要なる史料を※[#「目+示」、7巻−180−下−11]《しめ》した。わたくしは上《かみ》に云つた如く、直卿《ちよくけい》の撰んだ錦橋の行状、直温の撰んだ過去帖、富士川氏の記載、以上三つのものを使用することを得たに過ぎなかつた。然るにわたくしは鑑三郎と相識るに至つて、窪田|寛《くわん》さんの所蔵の池田氏系図並に先祖書を借ることを得た。これが新に加はつた第四の材料である。
わたくしは此新史料を獲て、最初に京水廃嫡の顛末を検した。先祖書に云く。「善卿総領池田瑞英善直、母は家女、病気に而末々御奉公可相勤体無御座候に付、総領除奉願候処、享和三亥年八月十二日願之通被仰付候。然る処年を経追々丈夫に罷成医業出精仕候に付、文政三辰年三月療治為修行別宅為致度段奉顧候処、願之通被仰付別宅仕罷在候処、天保七申年十一月十四日病死仕候。」
善卿は初代瑞仙の字《あざな》である。先祖書には何故か知らぬが、世々字を以て名乗《なのり》としてある。瑞英善直の京水たることは、過去帖の宗経軒京水瑞英居士と歿年月日を同じくしてゐるのを見れば明である。
是に由つて観れば、錦橋行状の庶子善直が即京水であつたことは、復《また》疑ふべからざることとなつた。行状に云く。「君(錦橋)在于京師時。娶佐井氏。而無子。嘗游于藝華時、妾挙一男二女。男曰善直。多病不能継業。二女皆夭。」
京水は錦橋の庶子であつた。先祖書の文が行状の文と殆全く相符してゐて、唯先祖書に「母は家女」と書してあるのは、公辺に向つての矯飾であつただらう。そして直卿は行状を撰ぶに当つて、信を後世に伝へむがために、此矯飾を除き去つたのであらう。
現存する所の先祖書は、元治元年に三世瑞仙直温の官府に呈したものである。しかし其記事は先々代乃至先代の書上《かきあげ》と一致せしめざることを得ない。他家の書上の例を考ふるに、若しこれを変易するときは、一々拠るところを註せなくてはならない。此故に直温の文中錦橋の履歴は錦橋の自撰と看做すことを得べく、又霧渓直卿の履歴は霧渓の自撰と看做すことを得べきである。
官府に上《たてまつ》る先祖書には、錦橋は京水を以て実子となした。霧渓も亦京水を以て養父錦橋の実子となした。但霧渓は養父の行状を撰ぶに当つて、京水の嫡出にあらざることを言明したに過ぎない。要するに二世瑞仙霧渓の時に至るまでは、京水が錦橋の実子たることに異議を挾《さしはさ》むものはなかつたのである。
降つて三世瑞仙直温の時に及んで、始て異説が筆に上せられた。それは過去帖の「宗経軒京水瑞英居士、五十一歳、初代瑞仙長男、実玄俊信卿男、天保七丙申十一月十四日」といふ文である。然らば京水の実父玄俊とは何人ぞ。同じ過去帖に云く。「憐山院粛徳玄俊居士、信卿、瑞仙弟、京水父、同(寛政)九丁巳八月二日、寺町宗仙寺墓あり、六十歳。光嶽林明大姉、同人妻、京水母、宇野氏、天明六丙午、三十六歳。」即ち京水を以て錦橋の弟玄俊信卿の子、宇野氏の出《しゆつ》となすのである。
わたくしは此より進んで議論することを欲せない。言ふところの臆測に墜ちむことを恐るゝからである。わたくしの京水研究は且《しばら》く此に停止する。今わたくしの知り得た所を約記すれば下《しも》の如き文となる。
「池田京水、初の名は善直、後名は※[#「大/淵」、7巻−182−下−4]《いん》、字《あざな》は河澄《かちよう》、瑞英と称す。父は錦橋独美善卿、母は錦橋の側室某氏なり。天明六年大坂西堀江隆平橋南の家に生る。享和三年八月十二日十八歳にして廃嫡せらる。文政三年三月三十五歳にして分家す。天保七年十一月十四日病歿す。年五十一。一説に京水は錦橋の弟玄俊信卿の子なり。母は宇野氏。錦橋に養はれて嗣子となり、後廃せらる。」
その八十九
わたくしは此年文化十三年に池田錦橋の歿したことを書く次《ついで》に、曾て池田氏の事蹟を探討した経過を語つた。既に先祖書を得た今、わたくしは未だこれを得なかつた昔に比ぶれば、暗中に一|穂《すゐ》の火を点し得た心地がしてゐる。しかし許多《あまた》の疑問はなか/\解決するに至らない。前に挙げた京水出自の事の如きは其一である。
錦橋は此年に歿した。しかしその歿した時の年齢が不明である。わたくしは渋江抽斎の伝に於て、霧渓所撰の錦橋行状に年齢の齟齬を見ることを言つた。そして生年より順算して推定を下さうとした。今先祖書を得た上はこれを覆覈《ふくかく》して見なくてはならない。
行状を見るに、錦橋は「以享保乙卯五月二十二日生」としてある。享保二十年錦橋生れて一歳となる。次に「宝暦壬午春、携母遊于安藝厳島、時年二十八」としてある。宝暦十二年二十八歳となる。次に「安永丁酉冬、(中略)抵于浪華、(中略)年四十」としてある。安永六年四十三歳であるべきに、四十歳と書してある。齟齬は此辺より始まる。次に「寛政壬子秋、游于京師、(中略)年五十五」としてある。寛政四年五十八歳であるべきに、五十五歳と書してある。次に「丁巳正月来于東都、年六十四」としてある。寛政九年六十三歳であるべきに、六十四歳と書してある。最後に「文化丙子九月六日病卒、享年八十有三」としてある。文化十三年八十二歳であるべきに、八十三歳と書してある。要するに安永中より寛政の初に至る間三歳を減じ、寛政の末より一歳を加へ、遂に歿年に一歳を加ふるに至つたのである。そこでわたくしは幹枝《かんし》と年歯との符合するものを重視し、生年に本づいて順算することゝした。即ち歿年は八十三にあらずして八十二となるのである。
然らば直温所撰の過去帖は奈何《いかに》。過去帖は錦橋の父母妻子の齢《よはひ》を具《つぶさ》に載せながら、独り錦橋の齢を載せない。直温は夙《はや》く旧記の矛盾に心付いたので、疑はしきを闕いで置いたのではなからうか。
新に得たる直温所撰の先祖書は奈何。先祖書には、年次若くは干支と年齢とを併せ載せた処が僅に二箇所あるのみである。「八歳之時父(錦橋父)正明病死仕候」と云ひ、「池田杏仙正明、寛保二戌年正月十六日病死」と云ふのが一つである。「同年(文化十三子年)十月晦日病死仕候、年八十三歳」と云ふのが二つである。歿した月日の行状と異つてゐるのは、官府に呈する文書には届出の月日を記したためであらう。
唯二箇所である。而して年次若くは干支と年齢との齟齬は、その二つのものの間にさへ存してゐる。これは直卿撰の行状に影響した或物が、早く善卿撰の先祖書に影響し、延《ひ》いて直温撰の先祖書にも及んだのであらう。先祖書の寛保二年錦橋八歳は享保二十年乙卯生に符合してゐる。これが安永前の記事である。文化十三年八十三歳は生年より推算して一歳の過多を見る。これが安永以後の記事である。先祖書を受理する慕府刀筆の吏も、一々年次と年齢とを験するために算盤を弾きはしなかつたと見える。
以上記する所に就いて考ふるに、錦橋が年齢の牴牾《ていご》は、どうも錦橋自己より出でてゐるらしい。錦橋は江戸に来た比から、毎《つね》に其|齢《よはひ》に一歳を加へて人に告げた。それが自ら作つた先祖書に上り、養子霧渓の撰んだ行状にも入つたのであらう。
その九十
わたくしは池田錦橋の死を語り、又錦橋並に其一族の事蹟に幾多未解決の疑問のあることをも言つた。その主なるものは錦橋の年齢、其廃嫡子京水の出自等である。
錦橋の末裔鑑三郎さんと姻戚窪田寛さんとの、わたくしに借覧を許した先祖書は、此家の事を徴するに足る重要文書たることは勿論である。しかしわたくしは此に由つて一の難路を通過した後、又前面に一の難路の横はつてゐるのを望見するが如き感をなしてゐる。
向島嶺松寺の池田氏の諸墓には、誌銘が刻してあつたさうである。推するに錦橋の墓誌は今存する所の行状と大差なからう。これに反してわたくしの切に見むことを願ふものは京水の墓誌である。曾て富士川游さんは其一部を抄写したが、わたくしは其全文を見むことを欲する。且何人が撰んだかを知らむことを欲する。然るに其碑碣は今亡くなつてしまつたのである。
錦橋の墓は嶺松寺にあつたものが既に滅びても、其名は鑑三郎の建てた合墓《がふぼ》に刻まれてゐる。又黄蘗山にも墓碑を存してゐるさうである。疇昔の日無名氏があつて、わたくしに門司新報の切抜を寄せてくれた。文は何人の草する所なるを知らぬが、想ふに檗山紀勝《はくさんきしよう》の一節であらう。「独立《どくりふ》の塔に隣りて池田錦橋の墓あり。この人は別に檗山に関係あるものにあらねど、氏の祖父は周防国|玖珂郡《くがごほり》通津浦《つづうら》の人にして、岩国に於て独立に就いて痘科の秘訣を伝へて家学とし、氏に至りて幕府の医官たり。独立|化後《けご》その塔は多分氏の建立せしものならむ。氏の墓
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