ば期せなかつたらしい。歳首に作つた五絶数首の中に、「春風病将痊、今年七十一、皇天又何心、馬齢開八秩」と云ふのもあつた。山陽が三十七歳の時の事である。茶山に「聞千秋訃」の作がある。「時賢相継北※[#「亡+おおざと」、第3水準1−92−61]塵。知己乾坤余一人。玉樹今朝又零落。此身雖在有誰親。」山陽が「読至此、廃巻累日」と云つてゐる。
三月十三日に蘭軒は又薬湯の願を呈して、即刻三週の暇を賜はつた。文は例の如くであるから省く。病名は「疝積足痛」と称してある。丙子の三月は小であつたから、三週の賜暇は四月四日に終つた。勤向覚書を検するに、四月六日に二週の追願《おひねがひ》がしてある。此再度の賜暇は十八日に終つた。覚書には十八日より引込保養が願つてある。
わたくしは此年の事迹を考へて、当時の吏風《りふう》が病休中の外遊を妨げなかつたことを知つた。蘭軒は三月二十四日に吉田|菊潭《きくたん》の家の詩会に赴いた。「穀雨前一日、与木村駿卿、狩谷卿雲、及諸公、同集菊潭吉田医官堂、話旧」として七絶二首がある。其一。「書堂往昔数相陪。一月行過四十回。已是三年空病脚。籃輿今日僅尋来。」自註に「往年信恬数詣公夫人。試計至一月四十回云」と云つてある。穀雨は三月二十五日であつた。菊潭医官は誰であらうか。わたくしは未だ確証を得ぬが、吉田仲禎ではなからうかとおもふ。「仲禎、名祥、号長達、東都医官」と蘭軒雑記に記してある。且雑記には享和中※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎長達の二人が蘭軒の心友であつたことを言ひ、一面には※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎と蘭軒と他の一面には長達と蘭軒とは早く相識つてゐて、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎と長達とは享和三年二月二十九日に至つて始て相見たことを言つてある。菊潭は或は此人ではなからうか。しかし当時文化十三年の武鑑には雉子《きじ》橋の吉田法印、本郷菊坂の吉田長禎、両国若松町の吉田快庵、お玉が池の吉田秀伯、三番町の吉田貞順、五番町の吉田策庵があるが、吉田仲禎が無い。或は思ふに仲禎は長禎の族か。
蘭軒は足疾はあつても、心気爽快であつたと見え、初夏より引き続いて出遊することが頻であつた。「会業日、苦雨新晴、乃廃業、与余語天錫、山本恭庭、木村駿卿同遊石浜墨陀諸村途中作、時服部負約」の五律五首、「首夏与余語天錫、山本恭庭、木村駿卿同集石田子道宅」の七絶三首、「初夏過太田孟昌宅」の七絶二首、「再過太田孟昌宅、与余語、山本二医官及木村駿卿同賦」の七律一首等がある。余語《よご》、木村、服部、石田、皆既出の人物である。天錫《てんせき》は恐くは觚庵《こあん》の字《あざな》であらう。太田|孟昌《まうしやう》は茶山の集中に見えてゐる。文化九年壬申の除夜にも、文化十一年甲戌の元旦にも、孟昌は神辺に於て茶山の詩会に列つてゐて、茶山は「江都太田孟昌」と称してゐる。孟昌、名は周、通称は昌太郎である。父名は経方、省いて方とも云ふ。字は叔亀、通称は八郎、全斎と号した。阿部家に仕へて文政十二年六月七十一歳にして歿した。孟昌は家を弟|武群《ぶぐん》、通称信助、後又太郎に譲つて分家した。孟昌が事は浜野知三郎さんが阿部家所蔵の太田家由緒書と川目直《かはめちよく》の校註韓詩外伝題言とに拠つて考証したものである。山本恭庭は蘭軒が時に「恭庭公子」とも称してゐる。恐くは永春院の子法眼宗英であらうか。当時小川町住の奥医師であつた。此夏病蘭軒を乗せた「籃輿」は頗る忙《いそがは》しかつたと見える。
その八十五
此夏文化十三年夏の詩凡て十四首を読過して、わたくしは少し句を摘んで見る。固より佳句を拾ふのでは無い。稍誇張の嫌はあるが、歴史上に意義ある句を取るのである。
石浜《いしばま》墨陀《すみだ》の遊は讐書の業を廃してなしたのである。「好擲讐書課。政謀携酒行。」蘭軒は病中の悶を遣らむがために思ひ立つた。「連歳沈痾子。微吟足自寛。」当時今戸の渡舟は只一人の船頭が漕いで往反してゐた。蘭軒は其人を識つてゐたのに、今舟を行《や》るものは別人であつた。「渡口呼舟至。棹郎非旧知。」自註に「墨水津人文五、与余旧相識、前年已逝」と云つてある。
石田梧堂の詩会で主人に贈つた作がある。「贈子道。駒子村南径路斜。碧叢連圃※[#「士/冖/石/木」、第4水準2−15−30]駝家。柳翁別有栽培術。常発文園錦様花。」駒込村の南の細逕《ほそみち》で、門並植木屋があつたと云ふから、梧堂は籔下辺に住んでゐたのではなからうか。わたくしは今の清大園《せいたいゑん》の近所に「石田巳之介」と云ふ門札《かどふだ》が懸けてあつたやうに想像する。「壁上掛茶山菅先生家園図幅、聊賦一律。謾訪王家竹里館。偶観陶令園中図。双槐影映讐書案。六柳陰迎恣酒徒。池引川流清可掬。軒収山色翠将濡。如今脚疾君休笑。真境曾遊唯是吾。」座上まのあたり黄葉夕陽村舎を見たものは「唯是吾」である。
太田孟昌の家をば二度まで蘭軒が訪うた。「初夏過太田孟昌宅」二絶の一。「喬松独立十余尋。落々臨崖翠影深。下有陶然高士臥。平生相対歳寒心。」次で「再過太田孟昌宅」七律に、「籬連僧寺杉陰老、砌接山崖苔色多」の一聯がある。崖《がい》に臨み寺に隣して、松の大木が立つてゐる。「樹陰泉井一泓清」の句もあるから、松の下には井もあつた。いづれ江戸の下町ではないが、はつきり何所とも定め難い。
五月六日に蘭軒は阿部家に轎《かご》に乗る許を乞うた。勤向覚書にかう云つてある。「五月六日、足痛年月を重候得共全快之程不相見候に付、御屋敷内又は他所より急病人等申越候はば駕籠にて罷越療治仕遣度、仲間共一統奉願上候所、同月十三日無拠病用之節は罷越可申旨被仰付候。」所謂《いはゆる》屋敷内は丸山邸内である。
六月十一日に蘭軒が妻益の姉夫《あねむこ》飯田杏庵が歿した。杏庵、名は履信《りしん》である。先霊名録に従へば、伊勢国薦野の人黒沢退蔵の子であつた。しかし飯田氏系譜に従へば、杏庵は本《もと》立田氏である。父は信濃国松代の城主真田右京大夫幸弘の医官立田玄杏で、杏庵は其四男に生れた。按ずるに立田玄杏は仮親であらうか。杏庵は蘭軒の外舅《ぐわいきう》飯田休菴[#「休菴」は「休庵」の誤記か]に養はれて、長女の婿となり、飯田氏を嗣いだ。杏庵の後を承けて豊後国岡の城主中川修理大夫|久教《ひさのり》に仕へたのは、休甫信謀《きうほしんぼう》である。杏庵は妻飯田氏に子がなかつたので、田辺玄樹の弟休甫を養つて子とし、蘆沢氏の女《ぢよ》を迎へてこれに配した。所謂《いはゆる》取子取婦《とりことりよめ》である。
秋に入つてから勤向覚書に二件の記事がある。一は蘭軒が神田の阿部家上屋敷へも轎《かご》に乗つて往くことを許された事である。一は蘭軒が医術申合会頭の職に就いた事である。此職は山田玄瑞と云ふものの後を襲《つ》いだのであつた。「八月七日、下宮三郎右衛門殿療治仕候に付、御上屋敷内駕籠にて出入御免被仰付候。閏八月十六日、医術申合会頭是迄山田玄瑞仕来候所、此度私え相譲候段御達申上候。」
此秋蘭軒は始て釈混外《しやくこんげ》を王子金輪寺に訪うた。「余与金輪寺混外上人相知五六年於茲、而以病脚在家、未嘗面謁、丙子秋、与石田士道、成田成章、太田農人、皆川叔茂同詣寺、得初謁、乃賦一律。山※[#「敬/手」、第3水準1−84−92]梵宮渓繞山。桂香先認異塵寰。青松凝色懸崖畔。白水有声奔石間。自覚罪根能已滅。漫扶病脚此相攀。陶潜不飲遠公酔。蓮社本来無著関。」自註に、「余病来止酒、而上人尤為大戸」と云つてある。茶山は更に、「病前亦不能多喫」と添加してゐる。果して然らば蘭軒は生来の下戸で、混外はこれに反して大いに別腸を具してゐたのであらう。
その八十六
蘭軒は既に云つた如くに、文化八年の頃より混外《こんげ》と音信を通じてゐて、此年十三年の秋|方《まさ》に纔に王子金輪寺を訪うたのである。わたくしは此五六年間に蘭軒と混外との交が漸く親密になつて、遂に相見ることの已むべからざるに至つたやうに推測する。此年の歳旦に混外が蘭軒に与へた小柬がある。「拙衲は第一、其外世界困窮仕候間、元日之口号誠に御一笑奉願候。丙午元旦口号。藁索疎簾松竹門。家々来往祝三元。寒巌処々猶冰雪。無復人間衣裏温。北郊貧道混外子。」簡牘《かんどく》の散文が詩よりも妙である。拙衲《せつなふ》は第一、其外世界困窮の数語、何等の警抜ぞ。わたくしは乙亥の冬から丙子の春へ掛けて、江戸市中不景気と云ふが如き記事はないかとおもつて、武江年表を検したが、見当らなかつた。此小柬は書估文淵堂主人が所蔵の「花天月地」と題する巻子《くわんし》二軸の中にある。収むる所は皆諸家の蘭軒榛軒父子等に寄せた書牘《しよどく》詩筒《しとう》である。
此年蘭軒に「歳晩偶成」の作がある。「富人競富殆将顛。貧子憂貧亦可憐。有食有衣何所慕。書中楽地送流年。」菅茶山には歳晩の詩がなかつた。
此年幕府の蘭方医官大槻磐水が六十歳になつたので、茶山が寿詩を贈つた。詩は蘭人短命と云ふ処より立意したものであつた。「大槻玄沢六十寿言。君不見西洋諸国奇術多。神医往々出華佗。又不見紅毛之人乏老寿。得及五十比彭祖。我聞上古淳樸時。人無貴賤夭札稀。(中略。)智巧原来非天意。纔鑿七竅渾沌死。先生医学出西洋。自医医人並康強。不亀手方非異薬。運用在心人誰度。吾願先生寿不騫。益錬其術弘其伝。青藍若能播諸域。紅毛亦得享長年。」然るに磐水は此篇を得て喜ばなかつた。次の年に茶山が蘭軒に寄せた書牘に、蘭人の事を言つた紙片が添へてあつた。紙片は今|饗庭篁村《あへばくわうそん》さんの蔵※[#「去/廾」、7巻−177−下−10]《ざうきよ》中にある。其書牘は文淵堂蔵の花天月地中に存するものが或は是であらうか。書牘の事は猶後に記さうとおもふ。
茶山はかう云つてゐる。「去年カピタンが携来《たづさへきた》りし妻は世に稀なる美人にて、日本人が見てもえならず見え、両婢ともにうつくしきこと限なしと、みな人申候。此頃絵すがた来りしに、聞しにかはりてうつくしからず候。先下女はマタルスの女《むすめ》かと見えて鼠色也。都下へはさだめて似づらのよきが参可申と存さし上不申候。去年大槻玄琢老に寿詞をたのまれ、つくり進じ候処、気に入不申候よし、わたくしが蘭人短命より趣向いたし候処、短命は舟にのる人ばかりにて、本国は長寿のよし也。吾兄長崎にひさし、いかがや覧。」
欧洲人を美ならずとなし、短命なりとなす如き菅氏の観察乃至判断が、大槻氏に喜ばれなかつたのは怪むに足らない。美醜の沙汰は姑《しばら》く置く。欧洲人の平均命数の延長したのは十九世紀間の事である。文化中の欧洲人は短命とは称し難いまでも、必ずしも長寿ではなかつたであらう。欧洲人を以て智巧に偏すとなしたのは、固より錯《あやま》つてゐた。偏頗は彼の心に存せずして、我の目に存してゐた。
此年九月六日に池田錦橋が歿し、十一月二十九日に小島宝素が妻を娶《めと》つた。
その八十七
池田錦橋は後に一たび蘭軒の孫女《まごむすめ》の婿となる全安の祖父である。錦橋の子が京水、京水の子が全安である。此故にわたくしは今少しく錦橋の事蹟を補叙して置きたい。その補叙と云ふは、前《さき》に渋江抽斎の伝を草した時、既に一たび錦橋を插叙したことがあるからである。
錦橋は始て公認せられた痘科の医である。本《もと》生田氏、周防国|玖珂郡《くがごほり》通津浦《つづうら》の人である。明の遺民|戴笠《たいりつ》、字《あざな》は曼公《まんこう》が国を去つて長崎に来り、後暫く岩国に寓した時、錦橋の曾祖父|嵩山《すうざん》が笠を師として痘科を受けた。
錦橋は宝暦十二年に広島に徙《うつ》り、安永六年に大坂に徙り、寛政四年に京都に上り、八年に徳川|家斉《いへなり》の聘を受け、九年に江戸に入つた。
錦橋は初め京水を以て嗣子となしてゐて、後にこれを廃し、門人村岡善次郎をして家を襲《つ》がしめた。京水は分家して町医者となつた。
錦橋と其末裔との事には許多《きよた》の疑問がある。疑問は史料の湮滅《い
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