おもひやりつゝ、「あはれ、江戸が備中あたりになればよい」とつぶやいた。しかし此年文化十二年八月既望の小酌は、書を裁した十四日前に予測した如き「独酌」にはならなかつた。「十五夜分得韻侵。去載方舟墨水潯。今宵開閣緑峰陰。浮生不怪浪遊迹。到処還忻同賞心。両度秋期無片翳。孤村社伴此聯吟。明年知与誰人玩。松影斜々露径深。」幸に此|社伴《しやはん》の聯吟があつて、稍以て自ら慰むるに足つたであらう。
 九月には茶山の詩中に臥蓐《ぐわじよく》の語がある。しかし客至れば酒を飲んだ。「斯客斯時能臥蓐。勿笑破禁酒頻傾。」啻《たゞ》に然るのみではない。往々此の如きもの連夜であつた。「月下琴尊動至朝。十三十四一宵宵。」
 十月に入つて茶山は蘭軒の書を獲た。これは丸山に徙《うつ》つたことを報ずる書で、茶山の八月の書と行き違つたものである。十日に茶山は答書を作つた。亦|饗庭篁村《あへばくわうそん》さんの蔵儲中に存してゐる。
「御手教|珍敷《めづらしく》拝見仕候。御気色之事|而已《のみ》案じゐ申候処、足はたたねど御気分はよく候由、先々安心仕候。円山へ御移之由、これは御安堵御事、御内室様もおさよも少々間を得られ可申と奉存候。六右衛門、古庵様など折ふし御出之由、かくべつ寂寥にもあらざめりと悦申候。高作ども御見せ、感吟仕候。売家の詩は妙甚候。拙和《せつわ》ども呈《ていし》申度候へ共、急に副し不申候。とくに一書さし出候へども、いまだ届不申候よし、元来帰国早々可申上候処、日々来客、そのうちに不快(此一字不明)になり、夏中|不勝《すぐれず》、又秋冷にこまり申候而延引如此に御坐候。花瓶《くわへい》は日々坐右におき、今日は杜若《かきつばた》二りんいけゐ申候。四季ざき也。」
「市翁麦飯学者之説、歎服いたし候。麦飯にても学者あればよけれど、麦飯学者もなく候。日々生徒講釈などこまり申候。」
「伊勢之川崎|良佐《りやうさ》、帰路同道、江戸へ二十度もゆき、初両三度ははやくいにたい/\とのみおもひ候。近年にては今しばらくもゐたし、住居してもよしと思候と物がたり候。私もまた参たらば、其気になり可申やと存候へ共、何さま七十に二つたらず、生来病客、いかんともすべからず候。」
「帰路之詩も少々有候へ共、人に見せおき、此便間に合不申候。あとよりさし上可申候。先便少々はさし上候やとも覚申候が、しかと不覚候。」
「狐は時々見え候や承度候。千蔵がいふきつね也。千蔵も広島に小店《こだな》をかり教授とやら申ことに候。帰後はなしとも礫《つぶて》とも不承候。源《げん》十|直卿《ちよくけい》仍旧《きうにより》候。源十軽浮、時々うそをいふこと自若。直卿|依旧《きうにより》候。主計《かぞへ》はとう/\矢代君へ御たのみ被下候よし、忝奉存候。八月には帰ると申こと。舟にて沖をのり、もはや柳里《りうり》(此二字又不明)へ落著と奉存候。服部子いかが。これこそもとよりしげく参らるべし。御次《おんついで》に六右衛門、古庵様などへ、一同宜奉願上候。近作二三醜悪なれども近況を申あぐるためうつさせ候。小山西遊はいかが。十月十日。菅太中晋帥《くわんたいちゆうしんすゐ》。伊沢辞安様。」
「歯痛段々おもり、今は豆腐の外いけ不申候。酒はあとがあしけれど、無聊を医し候ため時々用候。」

     その八十二

 菅茶山の乙亥八月十月の二書は、これを作つた日時が隔絶してをらぬので、文中の境遇も感情も殆ど全く変化してゐない。それゆゑ此二書には重複を免れぬ処がある。紀行の詩を云云するが如きに至つては、自ら前牘《ぜんどく》の字句をさへ踏襲してゐる。
 茶山は旧に依つて江戸を夢みてゐる。前牘に「備中あたりになればよい」と云つた江戸である。茶山は端《はし》なく、漸く江戸に馴れて移住してもよいと云ふ河崎|良佐《りやうさ》と、猶江戸を畏れつゝ往反に艱《なや》む老を歎く自己とを比較して見た。そして到底|奈何《いかん》ともすべからずと云ふに畢《をは》つた。
 わたくしは此に少しく河崎の事を追記したい。これは同時に茶山西帰の行程を追記したいのである。河崎に驥※[#「亡/虫」、7巻−168−下−3]《きばう》日記の著があつたことは既に言つた。しかしわたくしは未だ其書を見るに及ばなかつた。
 頃日《このごろ》わたくしは彼書を蔵するもの二人あることを聞いた。一は京都の藤井|乙男《おとを》さんで、一は東京の三村清三郎さんである。そして二氏皆わたくしに借抄を允《ゆる》さうといふ好意があつて、藤井氏は家弟潤三郎に、三村氏は竹柏園主にこれを語つた。偶《たま/\》藤井氏の蔵本が先づ至つたので、わたくしは此に由つて驥※[#「亡/虫」、7巻−168−下−10]日記のいかなる書なるかを知つた。
 藤井本は半紙の写本で、序跋を併せて二十七|頁《けつ》である。首には亀田鵬斎の叙と既に引いた茶山の叙とがある。末には北条霞亭と立原翠軒との題贈がある。彼は七絶二、此は七絶七である。最後の半頁は著者の嗣子|松《しよう》の跋がこれを填《うづ》めてゐる。
 本文の初に「伊勢河崎敬軒先生著、友人韓※[#「王+王」、第4水準2−80−64]聯玉校」と署してある。河崎良佐が敬軒と号したことが知られる。又敬軒の文政二年己卯五月二十七日に歿したことは、子松の跋に見えてゐる。韓※[#「王+王」、第4水準2−80−64]《かんかく》は山口覚大夫、号|凹巷《あふこう》で、著者校者並に伊勢の人である。
 わたくしの日記に期待した所のものは、主に茶山西帰の行程である。それゆゑ先づこれを抄出する。
「乙亥二月二十六日。雨。発東都。聞都下送者觴茶山先生於品川楼。予与竹田器甫先発。宿程谷駅。」発※[#「車+刄」、第4水準2−89−59]《はつじん》の日は二十六日であつた。河崎竹田は祖筵に陪せずして先発した。竹田|器甫《きほ》は茶山集にも見えてゐて、筑前の人である。
「廿七日。巳後先生至。江原与平及門人豊後甲原玄寿讚岐臼杵直卿従。発装及申。宿戸塚駅。」敬軒等は茶山を程谷《ほどがや》に待ち受け、此より同行した。茶山は二十六日の夜を川崎に過したのである。「云昨留于川崎駅」と書してある。江原与平は茶山の族人である。
「廿八日。放晴。鎌倉之遊得遂矣。経七里浜。至絵島。宿藤沢駅。」鎌倉行は夙約《しゆくやく》があつた。
「廿九日。宿小田原駅。」
「晦。踰函山。畑駅以西。残雪尺許。宿三島駅。」
「三月朔。好晴。宿本駅。」本駅《ほんえき》はもとじゆくか。
「二日。天陰。興津駅雨大至。比至阿陪川放晴。宿岡部駅。」
「三日。済大猪川。宿懸川駅。」
「五日。済荒井湖。宿藤川駅。」
「六日。宿熱田駅。」
「七日。極霽。至佐屋駅。下岐蘇川。宿四日市。明日将別。」
「八日。遂別。宿洞津城。」
「九日。未牌帰家。」
 以上が肉を去り骨を存した紀行である。わたくしは全篇を読んで、記すべき事二件を見出だした。一は敬軒が谷文晃に「茶山鵬斎日本橋邂逅図」を作らせ、鵬斎に詩を題せしめて持ち帰つたことである。「身是関東酔学生。公是西備茶山翁。日本橋上笑相見。共指天外芙蓉峰。都下閧伝為奇事。便入写山画図中。」一は茶山自家が日記を作つてゐたことである。「先生客中日記。名東征暦。」知らず、東征暦は猶存せりや、あらずや。

     その八十三

 蘭軒は菅茶山に告ぐるに、市野三右衛門、狩谷三右衛門、余語古庵《よごこあん》の時々来り訪ふことを以てした。茶山は蘭軒のこれによつて寂寥を免るゝを喜び、乙亥十月の書牘《しよどく》に「六右衛門、古庵様などへ一同宜」しくと云つてゐる。
 蘭軒は又茶山に迷庵三右衛門の麦飯学者の説と云ふものを伝へた。わたくしはその奈何《いか》なる説なるかを知らぬが、茶山は「歎服いたし候」と挨拶してゐる。世間に若し此説を見聞した人があるなら、わたくしは其人に垂教を乞ひたい。
 茶山の此書を読んで、わたくしは頼|竹里《ちくり》が此年文化十二年に江戸より広島へ帰り、※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]居して徒《と》に授けたことを知る。頃日《このごろ》わたくしに無名の葉書を投じた人がある。消印の模糊たるがために、わたくしは発信者の居処をだに知ることが出来ない。葉書は単に鉛筆を用《もつ》て頼氏の略系を写し出したものである。此に竹里の直接尊卑属を挙ぐれば、「伝五郎惟宣、千蔵公遷、常太綱」であつて、諸書の載する所と何の異なる所も無い。しかし此三人の下《もと》には各《おの/\》道号が註してある。即ち惟宣《ゐせん》は融巌《ゆうがん》、公遷は竹里、綱《かう》は立斎である。思ふにわたくしに竹里の公遷たることを教へむと欲したものであらうか。惜むらくは無名氏のわたくしに捷径を示したのは、わたくしが迂路に疲れた後であつた。
 茶山の書には猶数人の名が見えてゐる。直卿は初め臼杵《うすき》氏、後牧氏、讚岐の人で、茶山の集に見えてゐる。其他軽浮にして「時々うそをいふ」源十、矢代某に世話を頼んでもらつた主計《かぞへ》、次に竹里に狐の渾名《あだな》をつけられた某である。此等源十以下の人々は皆|輙《たやす》く考ふることが出来ない。
 此年十二月十九日に、蘭軒は阿部|正精《まさきよ》に請ふに間職に就くことを以てし、二十五日に奥医師より表医師に遷された。「十二月十九日、私儀去六月下旬より疝積其上足痛相煩引込罷在候而、急に出勤可仕体無御坐候に付、御機嫌之程奉恐入候、依之此上之以御慈悲、御番勤御免被下、尚又保養仕度奉願候所、同月廿五日此度願之趣無拠義被思召、御表医師被仰付候。」これが勤向覚書の記する所である。
 奥医師より表医師に遷るは左遷である。阿部侯は蘭軒の請によつて已むことを得ずして裁可した。しかし蘭軒を遇することは旧に依つて渥《あつ》かつたのである。翌年元旦の詩の引に、蘭軒はかう書いてゐる。「乙亥十二月請免侍医。即聴補外医。藩人凡以病免職者。俸有減制。余特有恩命。而免減制云。」
 此年の暮るゝに至るまで、蘭軒は復《また》詩を作らなかつた。茶山には数首の作があつて、其中に古賀精里に寄する畳韻の七律三首等があり、又|除夕《ぢよせき》の五古がある。「一堂蝋梅気、環坐到天明」は後者末解の二句である。
 頼氏の此年の事は、春水遺稿の干支の下に最も簡明に註せられてゐる。「乙亥元鼎夭。以孫元協代嗣。君時七十。」夭したのは春風|惟疆《ゐきやう》の長子で、養はれて春水の嗣子となつてゐた権次郎|元鼎新甫《げんていしんほ》である。これに代つたのは山陽が前妻御園氏に生ませた余一|元協承緒《げんけふしようちよ》、号は聿庵《いつあん》である。春水は病衰の身であるが、其病は小康の状をなしてゐた。除夕五律の五六にかう云つてある。「奇薬春回早。虚名棺闔遅。」
 此年蘭軒は年三十九、妻益は三十三、榛軒は十二、常三郎は十一、柏軒は六つ、長は二つ、黒田家に仕へてゐる蘭軒の姉幾勢は四十七である。

     その八十四

 文化十三年には、蘭軒は新に賜はつた丸山の邸宅にあつて平穏な春を迎へた。表医師に転じ、復《また》宿直の順番に名を列することもなく、心やすくなつたことであらう。「丙子元日作。朝賀人声侵暁寒。病夫眠寤日三竿。常慚難報君恩渥。却是強年乞散官。」題の下に自註して躄痿《へきゐ》の事を言ひ、遷任の事を言つてゐるが、既に引いてあるから省く。
 茶山も亦同じ歳首の詩に同じ間中の趣を語つてゐる。年歯の差は殆三十年を算したのであるが、足疾のために早く老いた伊沢の感情は、将に古稀に達せむとする菅の感情と相近似することを得たのである。「元日。彩画屏前碧澗阿。新禧両歳境如何。暁趨路寝栄堪恋。夜会郷親興亦多。」江戸にあつて阿部侯に謁した前年と、神辺《かんなべ》にある今年とを較べたのである。
 尋で蘭軒に「豆日草堂集」の詩があれば、茶山に「人日同諸子賦」の詩がある。わたくしは此に蘭軒の五律の三四だけを抄する。それは千|金方《きんはう》を講じたことに言及してゐるからである。「恰迎蘭薫客。倶披華表経。」
 二月十九日に広島で頼春水が歿した。年七十一である。前年の暮から悪候が退《しりぞ》いて、春水自身も此の如く急に世を辞することを
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