なればよいとのみ痴想いたし候。滞留中何かと御懇意は申つくしがたく、これはいはぬはいふにまさると思召可被下候。定て卿雲、市野、古庵様、服部、小山、市川あたり、日日|聚話《しうわ》可有之、御羨敷奉存候。」
「扨私宅に志摩人北条譲四郎と申もの留守をたのみおき候。此人よくよみ候故、私|女姪《ぢよてつ》二十六七になり候寡婦御坐候にめあはせ、菅《くわん》三と申|姪孫《てつそん》生長迄の中継にいたし候積、姑《しばらく》思案仕候。」
「私は歯痛今以|不※[#「やまいだれ+謬のつくり」、第4水準2−81−69]《いえず》、豆腐ばかりくひ申候。酒は少々いけ候へども、老境御垂憐可被下候。姉御様も御障なく御勤被成候覧。御餞《おんはなむけ》之御礼つど/\御申可被下候。金柚《きんいう》は時々|※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]合《いんがふ》(此七字不明)一興をそへ申候。此よしも御申つたへ可被下候。何ぞさし上申度候へ共なし。豊が絵御入用候はばまたさし上可申と御伝可被下候。豊は尾道|女画史《ぢよぐわし》也。花生《はないけ》は日々坐右におき、いまに草花たえずいけ申候。活花は袁中郎《ゑんちゆうらう》が瓶史《へいし》により候。御一笑可被下候。これよりも又備前やき陶尊《たうそん》一つ進申候。これまた案左《あんさ》にて御插可被下候。山陽近邦何のかはり候事もなく候。ことしも豊年と見え候。」
「扨去年の月はすみだ川、ことしの花はあらし山、無此上候。此秋はいかがいたし可申哉。独酌むしを聞候外いたしかたなく候。御憐察可被下候。花生は舟にて廻し候へば遅かるべし。帰路詩歌少し御坐候へ共、どうもえうつさせ不申候。いつにてもさし上可申候。先書状延引御断|旁《かた/″\》早々申上残候。恐惶謹言。八月二日。菅太中晋帥《くわんたいちゆうしんすゐ》。伊沢辞安様。」
「令郎《れいらう》様追々御|生立《おひたち》想像仕候。たんと御叱被成まじく候。あまりはやく成就いたさぬ様に御したて可被成候。くれ/″\も吾兄御近状にても御もらし可被下候。」
「又。」
「さて御いとま乞に参候せつ御目にかかり不申今に心あしく候。辞安様追々御こゝろよく御坐候哉。せつかく御いたはりなさるべく候。まことにたいりう中はかぎりなく御せわなし下され、わすれがたくぞんじ上候。只々御目にかからず帰候こと御のこり多く御坐候。ずゐぶん御身御よう心御わづらひなさらず候へかしといのり申候。かしこ。右御おくさま。太中。」
「おさよどのへ申候。たび/\参候ていろ/\さしつかひ候御せわのだん申つくしがたく候。ずゐぶん御すこやかに御せわなさるべく候。」
「又。」
「麻布令兄御|女子《によし》御両処へ宜奉願上候。」
「又。」
「古庵様、卿雲、市野、服部、小山諸君へ御会合之度に宜御申可被下候。市川は別に一書あり。」
以上長四尺|許《ばかり》の半紙の巻紙に書いた書牘《しよどく》の全文である。蠧蝕《としよく》の処が少しあるが、幸に文字を損ずること甚しきに至つてゐない。
その七十九
此書牘、文化乙亥の茶山の第一書に、主要なる人物として北条譲四郎の出て来たのは、恰《あたか》も庚午の書に頼久太郎の出て来たと同じである。わたくしは第一書と云ふ。これは此歳の初冬には茶山が更に第二書を蘭軒に寄せたからである。
北条譲、字《あざな》は子譲《しじやう》又景陽、霞亭、天放等の号がある。志摩国|的屋《まとや》の医師道有の子に生れた。弟|立敬《りつけい》に父の業を襲《つ》がせて儒となつた。乙亥には三十六歳になつてゐた。
茶山が前年の夏より此年の春に至るまで、江戸に旅寝をした間、北条を神辺《かんなべ》の留守居に置いたことは、黄葉夕陽村舎詩にも見えてゐる。百|川楼《せんろう》に勝田|鹿谷《ろくこく》の寿筵があつた。茶山は遅く往つた。すると途上で楼を出て来た男が茶山を捉へて、「お前さんは菅茶山ぢやないか、わしは亀田|鵬斎《ぼうさい》だ」と云つた。二人は曾《かつ》て相見たことはないのである。鵬斎は茶山を伴つて、再び楼に登つた。茶山は留守居の北条が鵬斎を識つてゐるので、自ら鵬斎に贈る詩を賦し、鵬斎の詩をも索《もと》めて、北条に併せ送つた。「陌上憧々人馬間。瞥見知余定何縁。明鑑却勝※[#「ころもへん+楮のつくり」、第3水準1−91−82]季野。歴相始得孟万年。拏手入筵誇奇遇。満堂属目共歓然。儒侠之名旧在耳。草卒深忻遂宿攀。吾郷有客与君善。遙知思我復思君。余将一書報斯事。空函乞君附瑤篇。」拏手《たしゆ》筵《えん》に入るの十四字、儒侠文左衛門の面目が躍如としてゐる。読んで快と呼ぶものは、独り此詩筒を得た留守居の北条のみではあるまい。
鵬斎が茶山を通衢上《つうくじやう》に捉へて放さなかつた如く、茶山は霞亭を諸生間に抜いて縦《はな》つまいとした。「わたくし女姪二十六七になりし寡婦御坐候にめあはせ、菅三と申姪孫生長迄の中継にいたし候積」と云つてある。行状を参照すれば、「二弟曰汝※[#「木+便」、第4水準2−15−14]、(中略)曰晋葆、(中略)無後、汝※[#「木+便」、第4水準2−15−14]亦夭、有子曰万年、(中略)亦夭、有子曰惟繩、称三郎、於先生為姪孫、今嗣菅氏、(中略)又延志摩人北条譲、為廉塾都講、以妹女井上氏妻焉」と云つてある。茶山は女姪《ぢよてつ》井上氏を以て霞亭に妻《めあは》せ、徐《しづか》に菅三万年《くわんさんまんねん》の長ずるを待たうとした。即ち「中継」である。
茶山は前《さき》に久太郎を抑止しようとした時は後住《ごぢゆう》と云ひ、今譲四郎を拘係《くけい》しようとする時は仲継と云ふ。その俗簡を作るに臨んでも、字を下すこと的確動すべからざるものがある。わたくしは其印象の鮮明にして、銭《ぜに》の新に模《ぼ》を出でたるが如くなるを見て、いまさらのやうに茶山の天成の文人であつたことを思ふのである。
北条霞亭よりして外、茶山の此書は今一人の新人物を蘭軒に紹介してゐる。それは女である。「尾道女画史」豊《とよ》である。
蘭軒の姉、黒田家の奥女中|幾勢《きせ》は茶山に餞《はなむけ》をした。所謂《いはゆる》餞は前に引いた短簡に見えてゐる茶碗かも知れない。わたくしは此餞を云々した条《くだり》の下《しも》に、不明な七字があると云つた。此所には蠧蝕《としよく》は無い。読み難いのは茶山の艸体である。蘭軒の姉は彼餞以外に別に何物をか茶山に贈つた。茶山は帰後時々それを用《も》つて興を添へると云つてゐる。其物は「金柚」と書してある如くである。柚は橘柚《きついう》か。果して然らば疑問は本草の疑問である。兎に角茶山は此種々の贈遺に酬いむと欲した。茶山は嘗て豊が絵を幾勢に与へたことがある。そこで「御入用候はばまたさし上可申」と云ふのである。
その八十
菅茶山は嘗て蘭軒の姉|幾勢《きせ》に尾道の女画史《ぢよぐわし》豊《とよ》が画を贈つたことがあつて、今又重て贈るべしや否やを問うてゐる。豊とは何人であらうか。
わたくしは豊は玉蘊《ぎよくうん》の名ではないかと推測した。竹田荘師友画録にかう云つてある。「玉蘊。平田氏。尾路人。売画養其母。名聞于時。居処多種鉄蕉。扁其屋曰鳳尾蕉軒。画出於京派。専写生※[#「令+栩のつくり」、第3水準1−90−30]毛花卉。用筆設色倶妍麗。又画人物。観関壮穆像。頗雄偉。女史阿箏語予曰。玉蘊容姿※[#「梟」の「木」に代えて「衣」、第3水準1−91−74]娜。其指繊而秀。如削玉肪。其画之妙宜哉。常愛古鏡。襲蔵十数枚。茶山杏坪諸老及山陽各有題贈。」竹田は氏を書して名を書せない。しかし茶山集に「玉蘊女画史」と称してゐるのを見て、柬牘《かんどく》の尾道女画史におもひくらべ、玉蘊の平田豊なるべきを推測したのである。
わたくしは師友画録を読んで、今一つ推測を逞しうした。それは玉蘊は或は草香孟慎《くさかまうしん》の族ではなからうかと云ふことである。竹田の記する所に拠れば、玉蘊は居る所に※[#「匚<扁」、第4水準2−3−48]して鳳尾蕉軒《ほうびせうけん》と曰つたさうである。然るに頼春水の集壬子の詩に、「春尽過尾路題草香生鳳尾蕉軒」の絶句がある。玉蘊と孟慎とは、同じく尾道の人であつて、皆鳳尾蕉軒に棲んでゐた。若し居る所が偶《たま/\》其名を同じうするのでないとすると、二人の間に縁故があるとも看られるのである。
此段を書し畢《をは》つた後に、わたくしは林中将太郎さんの蔵する玉蘊の画幅に「平田氏之女豊」の印があることを聞いた。玉蘊の名は果して豊であつた。次でわたくしは茶山集中に「草香孟慎墓」の五律があるのを見出した。其七八に「遺編托女甥、猶足慰竜鍾」とある。女甥《ぢよせい》は豊ではなからうか。
茶山は此書を作るに当つて、蘭軒の親族のために一々言ふ所があつた。
先づ榛軒がためには、父蘭軒に子を教ふる法を説いてゐる。「たんと御叱被成まじく候。あまりはやく成就いたさぬ様に御したて可被成候。」至言である。茶山は十二歳の棠助《たうすけ》のためにこれを発した。
飯田氏|益《ます》に対しては、茶山は謝辞を反復して悃※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]《こんくわん》を尽してゐる。江戸を発する前に、まのあたり告別することを得なかつたと見える。
側室さよに対しては、「さしつかひ候御せわ」を謝し、又「御すこやかに御せわなさるべく」と嘱してゐる。前の世話は客を※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]待する謂《いひ》、後の世話は善く主人を視る謂である。「さしつかひ候」は耳に疎《うと》い感がある。或は当時の語か。
「麻布令兄様御女子御両処へ宜奉願上候。」此句を見てわたくしは少く惑ふ。しかし麻布は鳥居坂の伊沢宗家を斥《さ》して言つたのであらう。令兄は信美《しんび》であらう。蘭軒の父|信階《のぶしな》の養父|信栄《しんえい》の実子が即ち信美である。家系上より言へば蘭軒の叔父《しゆくふ》に当る。蘭軒には姉があつて兄が無かつた筈である。わたくしは姑《しばら》く茶山が信美と其|女《ぢよ》とを識つてゐたものと看る。
以上は茶山が蘭軒の家眷宗族のために言つたのである。次に蘭軒の交る所の人々の中、茶山の筆に上つたものが六人ある。
余語古庵《よごこあん》をば特に「古庵様」と称してある。大府の御医師として尊敬したものか。「卿雲」は狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、「市野」は迷庵、「服部」は栗陰《りついん》[#ルビの「りついん」は底本では「りつりん」]、「小山」は吉人《きつじん》か。中にも卿雲吉人には、茶山が蘭軒に代つて書牘《しよどく》を作つて貰はうとした。独り稍不明なのは書中に所謂《いはゆる》「市川」である。
わたくしは市川は市河であらうかと推する。寛斎若くは米庵であらうかと推する。市河を市川に作つた例は、現に刻本山陽遺稿中にもあるのである。此年寛斎は六十七歳、米庵は三十七歳であつた。
その八十一
菅茶山と市河寛斎父子との交は、偶《たま/\》茶山集中に父子との応酬を載せぬが、之れを菊池五山、大窪天民との交に比して、決して薄くはなかつたらしい。茶山の五山との伊勢の邂逅は、五山が自ら説いてゐる。その五山及天民との応酬は多く集に載せてある。山陽の所謂「同功一体」の三人中、茶山が独り寛斎に薄かつたものとはおもはれない。市河三陽さんの云ふを聞くに、文化元年に茶山の江戸に来た時、米庵は長崎にゐた。帰途頼春水を訪うて、山陽と初て相見た時の事である。米庵は神辺に茶山の留守を訪うた。此年文化十一年の事は市河氏の書牘《しよどく》にかう云つてある。「這次は寛斎崎に祗役して帰途茶山の留守に一泊、山陽と邂逅致申候。茶山未去、江戸に帰来して、三人一坐に歓候事、寛斎遺稿の茶山序中に見え居候。」蘭軒に至つては、既に鏑木雲潭《かぶらきうんたん》と親善であつた。多分其兄米庵をも、其父寛斎をも識つてゐたことであらう。
老いたる茶山は神辺に住み、豆腐を下物《げぶつ》にして月下に小酌し、耳を夜叢の鳴虫に傾け、遙に江戸に於ける諸友聚談の状を
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