先賦此詩。以充乗韋、附泉蔵往之。穉梅知是帯栄光。特地駄来千里強。縦使盆栽難耐久。斯情百歳鎮芬芳。」当時の白川侯は松平越中守定永であつたので、楽翁公定信を老公と書してある。泉蔵は備中国長尾村の人小野|櫟翁《れきをう》の弟である。
その七十五
蘭軒には「送茶山菅先生還神辺」の七絶五首がある。此に其三を録する。「其一。新誌編成三十多。収毫帰去旧山阿。賢侯恩遇尤優渥。放使烟霞養老痾。其二。西遊昔日過君園。翠柳蔭池山映軒。佳境十年猶在目。方知帰計値春繁。其三。詞壇赤幟鎮山陽。藝頼已降筑亀惶。※[#「馬+芻」、第4水準2−93−2]騎一千時満巷。門徒七十日升堂。」第三の藝頼《げいらい》は安藝の頼春水、筑亀《ちくき》は筑前の亀井南溟である。此一首は頗る大家の気象に乏しく、蘭軒はその好む所に阿《おもね》つて、語に分寸あること能はざるに至つたと見える。わたくしがことさらに此詩を取るのは、蘭軒の菅に太《はなは》だ親しく頼に稍|疎《うと》かつたことを知るべき資料たるが故である。
蘭軒は又茶山に花瓶《くわへい》を贈つた。前詩の次に「同前贈一花瓶」として一絶がある。「天涯別後奈相思。駅使梅花有謝期。今日贈君小瓶子。插芳幾歳侍吟帷。」
蘭軒は既に茶山を送るに詩を以てして足らず、恵《けい》は更に其同行者にも及んだ。「送臼杵直卿甲原元寿従菅先生帰。追師負笈促帰行。不遠山河千里程。幾歳琢磨一※[#「隻+隻」、7巻−154−下−13]璞。底為照乗底連城。」
茶山は文化十二年二月某日昧爽に、小川町の阿部|第《てい》を発した。友人等は送つて品川の料理店に至つて別を告げた。茶山の留別の詞に「長相思二※[#「門<癸」、第3水準1−93−53]がある。「風軽軽。雨軽軽。雨歇風恬鳥乱鳴。此朝発武城。人含情。我含情。再会何年笑相迎。撫躬更自驚。」これが其一である。
東海道中の諸作は具《つぶさ》に集に載せてある。河崎良佐は始終|轎《かご》を並べて行つた。二人が袂を分つたのは四日市である。「一発東都幾日程。与君毎並竹輿行。」驥※[#「亡/虫」、7巻−155−上−6]《きばう》日記は恐くは品川より四日市に至る間の事を叙したものであらう。
東海道を行つた間、月日を詳《つまびらか》にすべきものは、先づ三月二日に竜華寺《りうげじ》の対岸を過ぎたことである。「岡本醒廬勧余過竜華寺曰。風景為東海道第一。三月二日過其対岸。而風雨晦冥。遂不果遊。」
三日には大井川を渡り、佐夜の中山を過ぎ、菊川で良佐と小酌した。集に「上巳渉大猪水作、懐伊勢藤子文」の長古がある。「帰程忽及大猪水、水阻始通灘猶駛、渉夫出没如鳧※[#「翳」の「羽」に代えて「鳥」、第4水準2−94−37]、須臾出険免万死」の初四句は、当時|渉河《せふか》の光景を写し出して、広重の図巻を展《の》ぶるが如くである。末解《まつかい》はかうである。「吾願造觴大如舟。盛以鵞黄泛前頭。乗此酔中絶洋海。直到李九門前流。」佐藤子文は伊勢国五十鈴川の上《ほとり》に住んでゐた。遠江国とは海を隔てて相対してゐたので、此の如く著想したのである。
良佐は茶山への附合に、舟を同じうして佐屋川に棹《さをさ》した。「数派春流一短篷。喜君迂路此相同。」上《かみ》に云つたとほり、訣別したのは四日市である。
茶山は大坂に著いて蘭軒に書を寄せた。其書は今伝はつてゐない。只添へてあつた片紙が饗庭篁村《あへばくわうそん》さんの蔵儲中に遺つてゐる。
「三月三日道中にて。けふといへば心にうかぶすみだ川わがおもふ人やながすさかづき。大井川をわたりて。大井川ながるゝ花を盃とみなしてわたるけふにもあるかな。このたびは花見てこえぬこれも又いのちなりけりさやの中山。池田の宿にてゆやが事をおもひ出しとき江戸の人に文つかはすことありしそのはしに。古塚をもる人あらばまつち山まつらむ友にわかれはてめや。さく花をなどよそに見むわれもはた今をさかりとおもふ身ならば。かかる事どもいうてかへり候。此|次《ついで》におもひ出候。浜臣《はまおみ》のうた卿雲に約し候。おそきつぐのひにたんともらひたく候。御取もち可被下候。」
茶山は清水浜臣に歌を書いて貰ふことを、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に頼んで置いた。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が久しく約を果さぬから、怠状の代には多く書かせて貰ひたいと云ふのである。浜臣は此年四十歳であつた。
その七十六
菅茶山は京都で嵐山の花を看、雨中に高瀬川を下つた。大坂では篠崎小竹、中井履軒を訪うた。就中《なかんづく》「訪履軒先生、既辞賦此」の五古は、茶山と履軒との平生の交を徴するに足るものである。「毎過浪華府。無不酔君堂。此度君在蓐。亦能共伝觴。(中略。)我齢垂古稀。君則八旬強。明日復修程。後期信茫茫。」履軒は当時八十歳、兄竹山を喪つてから十一年を経てゐた。茶山は六十八歳であつた。
茶山は神辺《かんなべ》に還つた後、「帰後入城途上」の作がある。「官駅三十五日程。鶯花随処逐春晴。今朝微雨家林路。筍※[#「竹かんむり/擧」、7巻−156−下−8]徐穿暗緑行。」頃は三月の末か四月の初であつただらう。
蘭軒は夏の初に長崎の劉夢沢《りうむたく》がために、其母の六十を寿する詩を作つた。「時節南薫好、開筵鶴浦干」云々の五律である。夢沢、名は大基、字《あざな》は君美《くんび》、既出の人物である。長崎通司にして劉姓なるものには、猶田能村竹田の文政九年に弔した劉梅泉と云ふものがある。「時梅泉歿後経数歳、有母仍在」と記してある。わたくしは母を寿した夢沢と母に先だつて死んだ梅泉とを較べて思つて見た。わたくしは此等の諸劉の上を知らむことを願つてゐる。長崎|舌人《ぜつじん》の事跡に精《くわ》しい人の教を得たい。
此年文化十二年五月に入つて、伊沢分家には又移居の事が起つた。これは蘭軒一族の存活上に、頗る重大なる意義があつたらしい。
勤向覚書にかう云つてある。「文化十二年乙亥五月七日、私儀是迄外宅仕罷在候所、去六月中より疝積、其上足痛相煩、引込罷在、種々療治仕候得共、兎角聢と不仕、兼而難渋之上、久々不相勝、別而物入多に而、此上取続無覚束奉存候間、何卒御長屋拝借仕度奉存候得共、病気引込中奉願上候も奉恐入候、依而仲間共一統奉顧上候所、願之通被仰付候。」移転は町住ひを去つて屋敷住ひに就くのである。阿部家に請うて本郷丸山の中屋敷内に邸宅を賜ることになつたのである。按ずるに願書に謂ふところの難渋は、必ずしも字の如くに読むべきではあるまい。しかし当時伊沢分家が家政整理を行つたものと見たならば、過誤なきに庶幾《ちか》からう。
覚書には次で下《しも》の三条の記事が載せてある。「同月廿一日。丸山御屋敷に而御長屋拝借被仰付候」と云ふのが其一である。「六月十六日、拝借御長屋附之品々、御払直段に而頂戴仕度段奉願上候所、同月十九日願之通被仰付候」と云ふのが其二である。又七月の記事中に、「同月廿二日、丸山御屋敷拝借御長屋え今日引移申候段御達申上候」と云ふのが其三である。
蘭軒の一家は七月二十二日に、本郷真砂町桜木天神附近の住ひから、本郷丸山阿部家中屋敷の住ひに徙《うつ》つた。
旧宅は人に売つたのである。「売家。天下猶非一人有。売過何惜小園林。担頭挑得図書去。此是凡夫執著心。」蘭軒のわたましが主に書籍のわたましであつたことは想像するに余がある。「同前呈後主人。構得軒窓雖不優。却宜酔月詠花遊。竟来貧至兌銭去。在後主人莫効尤。」わたくしは此首に於て蘭軒の善謔を見る。偶《たま/\》来つて蘭軒の故宅を買ふものが、争《いか》でか蘭軒の徳風に式《のつと》ることを得よう。
その七十七
「君恩優渥満家財。況賜新居爽※[#「土へん+豈」、7巻−158−上−7]開。公宴不陪朝不坐。沈痾却作偸間媒。」これは蘭軒が「移居於丸山邸中」の詩である。所謂《いはゆる》丸山邸は即ち今の本郷西片町十番地の阿部邸である。蘭軒の一家は一たび此に移されてより、文久二年三月に至るまで此邸内に居つた。
「公宴不陪朝不坐」の句は大いに意義がある。阿部侯が宴を設けて群臣を召しても、独り蘭軒は趨《おもむ》くことを要せなかつた。わたくしはこれを読んでビスマルクの事を憶ひ起す。渠《かれ》は一切の燕席に列せざることを得た。わたくしは彼国に居つたが、いかなる公会に※[#「くさかんむり/(さんずい+位)」、第3水準1−91−13]《のぞ》んでも、鉄血宰相の面《おもて》を見ることを得なかつた。これを見むと欲すれば、議院に往くより外無かつたのである。渠は此の如くにして※[#「燮」の「又」に代えて「火」、第3水準1−87−67]理《せふり》の任を全うした。蘭軒は同一の自由を允《ゆる》されてゐて、此に由つて校讐の業に専《もつぱら》にした。人は或は此|言《こと》を聞いて、比擬《ひぎ》の当らざるを嗤《わら》ふであらう。しかし新邦の興隆を謀《はか》るのも人間の一事業である。古典の保存を謀るのも亦人間の一事業である。ホオヘンツオルレルン家の名相に同情するも、阿部家の躄儒《へきじゆ》に同情するも、固よりわたくしの自由である。
「朝不坐」も亦阿部侯の蘭軒に与へた特典である。初め蘭軒は病後に館に上つた時、玄関から匍匐して進んだ。既にして輦《てぐるま》に乗ることを許された。後には蘭軒の轎《かご》が玄関に到ると、侍数人が轎の前に集り、円い座布団の上に胡坐《こざ》してゐる蘭軒を、布団籠《ふとんごめ》に手舁《てがき》にして君前に進み、そこに安置した。此の如くにして蘭軒は或は侯の病を診し、或は侯のために書を講じた。蘭軒は平生より褌《こん》を著くることを嫌つた。そして久しく侯の前にあつて、時に衣の鬆開《そうかい》したのを暁《さと》らずにゐた。侯は特に一種の蔽膝《へいしつ》を裁せしめて与へたさうである。座布団と蔽膝との事は曾能子《そのこ》刀自の語る所に従つて記す。
蘭軒は阿部邸に徙《うつ》るために、長屋を借ることを願つた。しかし阿部家では所謂《いはゆる》石取《こくどり》の臣を真の長屋には居かなかつた。此年に伊沢氏の移つた家も儼乎たる一|構《かまへ》をなしてゐたらしい。伊沢分家の人々は後に文久中に至るまで住んだ家が即ち当時の家だと云つてゐるが、勤向覚書を閲《けみ》するに、文化十四年に蘭軒は同邸内の他の家に移つた。高木氏の故宅と云ふのがそれである。今分家に平面図を蔵してゐる家屋は、恐くは彼高木氏の故宅であらう。平面図の事は猶後に記さうとおもふ。兎に角丸山邸内に於ける初の居所は、二年後に徙《うつ》つた後の居所に比すれば、幾分か狭隘であつたのだらう。蘭軒の高木氏の故宅に移つたのは、特に請うて移つたのである。
菅茶山は此年文化十二年二月に江戸を発して、三月の末若くは四月の初に神辺に帰つた。途中で大坂から蘭軒に書を寄せたが、其書は佚亡してしまつて、只大井川其他の歌を記した紙片が遺つてゐる。次で茶山は秋の半に至るまで消息を絶つてゐた。
大坂より送つた書には、江戸を発して伊勢に抵《いた》るまでの旅況が細叙してあつた筈である。茶山は秋に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》つて又筆を把つた時、最早伊勢より備後に至る間の旅況を叙することの煩はしきに堪へなかつた。そこで旅物語を廃めてしまつた。此間の事情は八月二日に茶山の蘭軒に与へた書に就いて悉《つく》すことが出来る。これも亦|饗庭篁村《あへばくわうそん》さんの所蔵である。
その七十八
茶山が此年文化十二年秋の半に蘭軒に与へた書はかうである。
「大坂より一書いせ迄のひざくりげ申上候。相達可申候。其後御病気いかが、入湯いかが、御案じ申候。物かくに御難義ならば、卿雲見え候節代筆御たのみ御容子御申こし可被下候。小山にてもよし。扨帰後早速に何か可申上候処、私も病気こゝかしこあしくなり、漸《やうやく》此比把筆出来候仕合、延引御断も無御坐候。」
「事ふり候へば道中はいせ限にてやめ可申候。帰後はをかしき咄もきかず、日々東望いたし、あはれ、江戸が備中あたりに
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