翌七日に茶山の蘭軒に寄せた書も、亦|饗庭篁村《あへばくわうそん》さんの所蔵の中にある。下《しも》に其全文を写す。
「夜前の襦袢もたせ上申候。袖は少しやぶれ絹をつけてもよし、あたたかにさへあれば宜候。奥様まかせに可仕候。鱈かへると草々たべ申候。潔味《けつみ》私が口に適候而悦申候。いれもの重箱やきもの提燈御かへし申候。みそとくしこ入候はとゞめおき申候。早々。十二月七日。太中。辞安様。枯髏《ころ》一|塊《くわい》下《しも》三字急に出不申候。出候はば可申上候。詩集二つ懸御目申候。」
 文中「くしこ」は串海鼠《くしこ》であらうか。「枯髏一塊」云云はわたくしはかう考へる。当時大森某と云ふものがあつて、所蔵の髑髏の図のために題詩を諸家に求めた。茶山は早く既に一絶を作つて与へた。「題髑髏図、応大森子索。古来誰信死生同。只笑荘叟弄筆工。至竟狐狸猶不顧。※[#「骨+堯」、第4水準2−93−14]然百歳坐枯蓬。」蘭軒も亦嘱を受けて構思してゐると、茶山の来るに会した。そこで枯髏一塊の下三字を求めたのである。しかし蘭軒は後に枯髏一塊の句を抛棄して、別に一首を成した。「髑髏図。枯骨長依狐兎逕。誰知昔日辱与栄。寄言世計営々客。不若別求身後名。」二詩は二家の集にある。
 此冬山本|去害《きよがい》と云ふものが江戸を立つて小田原に往つた。蘭軒のこれを送つた五律がある。尋で去害が小田原から七律を寄せたので、蘭軒は又次韻して答へた。去害は市河三陽さんの考証に拠るに、伊豆の三島の人山本|井蛙《せいあ》の子である。井蛙、名は義質、字は孺礼《じゆれい》、甚兵衛と称した。商家にして屋号を丸屋と云つた。其子が順、字《あざな》は去害、通称は豊輔《とよすけ》である。享和三年九月三日に、市河米庵が吉原に宿つたとき、去害が三島から送つて来てゐたことが西遊日記に見えてゐる。蘭軒の「君家清尚襲箕裘」の句に、「其先人亦脱俗韻士、遊賞没世」と註してあるのを見れば、丸屋は芸香《うんかう》ある家であつた。去害が医師にして古書を好んだことは、蘭軒に似てゐた。「学医術将仙」と云ひ、「玉笥蔵書古」と云ふを見てこれを知る。年は既に老いてゐた。「似僧頭已禿」と云ふを見てこれを知る。小田原行は遊賞のためで、仕宦のためではなかつた。「応識間中官爵貴、探幽使者酔郷侯」と云ふを見てこれを知る。
 同時の茶山の応酬は、交遊の範囲が頗る広くて、一一挙ぐるに勝《た》へぬが、此に其人の境遇に変易を見たもののみを記して置く。其一は井上四明である。四明|初《はじめ》戸口氏、名は潜、字は仲竜、居る所を佩弦堂と云つた。井上蘭台の後を承けて、備前の文学になつてゐたが、此冬致仕して町ずまひの身となつた。茶山は「四明先生告老、藩主加賜以金、燕喜之辰、余亦与会、賦此奉呈」として七律を作つた。其一二に「賜金不必買青山、心静城居即竹関」と云つてある。藩主は松平上総介|斉政《なりまさ》である。
 其二は大田南畝である。南畝は文化七年に幕府の職を辞して、閑散の身となつてゐた。茶山の此冬の作に、「蜀山人移家于学宮対岸、扁曰緇林、命余詩之」とした七絶がある。「杏壇相対是緇林。吏隠風流寓旨深。毎唱一歌人競賞。有誰聴取濯纓心。」学宮対岸の家は即ち駿河台|紅梅坂《こうばいざか》大田姫稲荷前の家であらう。南畝は小石川小日向金剛寺坂から此に移つたのであらう。

     その七十三

 頼氏では此年文化十一年に春水が六十九歳になつた。「累霑位禄愧逢衣。霜鬢明朝忽古稀。」京都では山陽が後妻を娶《めと》つた。小石元瑞の養女、近江国|仁正寺《にんしやうじ》の人某氏の女《ぢよ》里恵《りゑ》である。後藤松陰は脩して梨影と書した。通途《つうづ》の説には、此婚嫁が翌年乙亥の事だとなつてゐるやうである。しかし天保三年|閏《じゆん》十一月二十五日に、新に夫を喪つた里恵が赤馬関の広江秋水の妻に与へた書にかう云つてある。「わたくしも十九年が間そばにをり候。誠にふつづか不てうはふに候へとも、あとの所、ゆゐごん、何も/\私にいたし置くれられ、私におきまして、誠にありがたく、十九年の間に候へども、あのくらゐな人ををつとにもち、其所存なか/\出来ぬ事と有りがたく存候。」女が夫を持つた年を誤ると云ふことは殆ど無からう。山陽の九月に歿した天保三年を一年と算し、十八年溯れば、文化十一年となる。
 田能村竹田は秋水が此書を出して示した時の事を記して、「去年壬辰九月廿三日に頼山陽物故す、此年の閏十一月に内人(りゑといふ)より秋水の夫人におくられたる書を、秋水出ししめす」と云つてゐる。率《にはか》に読めば「去年」と「此年」とは別年の如くにも見える。若し別年とするときは、里恵が書を裁して寄せたのは天保四年癸巳である。癸巳より算する十九年間は文化十二年乙亥に始まる。即ち通途の説に合する。
 しかし果して此《かく》の如しとすると、「十九年が間そばにをり候」とは云はれぬ筈である。かく云ふには天保三年壬辰より算せざることを得ない。且|所謂《いはゆる》「此年」は即ち前の「去年壬辰」を斥《さ》して云つたもので、秋水が書を出し示した四年癸巳より見れば去年も此年も均《ひと》しく一年前でなくてはならない。何故と云ふに、里恵の書には単に「閏月廿五日」としてあるが、天保四年癸巳には閏月は無く、閏月のあるは只三年壬辰の十一月のみだからである。
 里恵の墓は松陰が其文を撰んだが、但「頼山陽先生入京、娶為継室」と書して、婚嫁の年を言はない。山陽自家の詩文を検するに、只文政三年庚辰の詩引に「余娶婦、未幾丁艱」と云つてあるのみである。「丁艱」とは文化十三年二月十九日に父春水を喪つたことを斥す語である。未幾《いまだいくばくならず》は一年とも見られ、二年とも見られる。此故にわたくしは里恵の云ふ所を以て拠るべしとする。
 此年蘭軒は三十八歳であつた。「歳晩偶成」の七律が「歳華卅八属駒馳、筆硯仍慚立策遅」を以て起してある。此語を味へば初より著述はせぬと意を決してゐたのではないかも知れない。妻益は三十二歳、榛軒十一歳、柏軒五歳、長《ちやう》一歳であつた。
 文化十二年の元旦には、茶山が猶江戸に留まつてゐたので、蘭軒茶山二人の集に江戸の新年の作が並び存してゐる。
 蘭軒の七絶二首の中、其一を此に録する。「夏葛冬裘君寵光。痴夫身計不知忙。更将長物誇人道。梅有新香書古香。」先づ梅花と共に念頭に浮ぶものは、旧に依つて儲書《ちよしよ》の富である。茶山の七律は頷聯に「蒲柳幸将齢七十、枌楡猶且路三千」と云ひ、七八に「自笑樵夫寓朱邸、謾班群彦拝新年」と云つてある。
 蘭軒は元旦の詩に梅と書とを点出した。わたくしは其梅の詩を今一つ写し出して置きたい。それは前年の暮に新井白石の容奇《ゆき》の詩に倣つて作つたものである。「詠梅、傚白石容奇詩体。陽春自入難波調。已与桜花兄弟分。枝古瑤箏絃上曲。色濃※[#「丹+彡」、第3水準1−84−29]管巻中文。嬌娘拒詔安禽宿。壮士飛英立戦勲。尤美菅公遺愛樹。追随千里護芳芬。」
 自註は煩を憚つて省く。一は王仁《わに》、四は紫式部、五は紀内侍、六は梶原影季、七八は菅原道真である。

     その七十四

 此春、文化十二年の春となつてから、菅茶山が初て蘭軒を訪うたのは、伊沢家に於て例として客を会する豆日草堂集《とうじつさうだうしふ》の日であつたらしい。「豆日草堂集、茶山先生来、服栗陰長嘯絶妙、前聯及之。野鶯呼客到茅堂。忽使病夫起臥牀。錦里先生詩調逸。蘇門高士嘯声揚。一窓麗日疎梅影。半嶺流霞過雁行。自愧畦蔬村酒薄。難酬満室友情芳。」
 錦里先生は茶山を斥《さ》し、蘇門の高士は栗陰《りついん》を斥したのである。服は服部だとして、服部栗陰の何人なるかは未だ考へない。蘇門服天遊に嘯翁《せうをう》の号があり、嘯台余響、嘯台遺響の著述さへあつたから、善嘯の栗陰を以てこれに擬したのであらう。天遊は明和六年に歿した人である。扨栗陰とは誰か。栗斎服保《りつさいふくはう》は号に栗字があるが、寛政十二年に歿してゐる。蘭軒の門人に服部良醇がゐるが、此客ではなからう。
 二月六日に茶山は又招かれて蘭軒の家に来た。「二月六日菅茶山、大田南畝、久保筑水、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、石田梧堂集於草堂、時河原林春塘携酒。簷外鵲飛報喜声。恰迎佳客値新晴。林風稍定衣裳暖。泥路初晞杖※[#「尸+(彳+婁)」、第4水準2−8−20]軽。席上珍多詩好句。尊中酒満友芳情。酔来春昼猶無永。夕月到窓梅影横。」
 茶山の相伴として招かれた客の中で南畝、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、梧堂の三人は既出の人物である。そして南畝が蘭軒の家に来たことは、始て此に記載せられてゐる。
 新に出た人物は筑水と春塘とである。久保愛、字《あざな》は君節《くんせつ》、筑水と号した。通称は荘左衛門であつた。荀子増註の序、標注|准南子《ゑなんし》の序等の自署に拠るに、信濃の人で、一説に安藝の人だとするは疑はしい。天保六年|閏《じゆん》七月十三日に歿したとすると、此時五十七歳であつた筈である。序《ついで》に云ふ。青柳東里《あをやぎとうり》の続諸家人物誌には村卜総《そんぼくそう》の次に此人を載せてゐながら、目次に脱逸してゐる。河原林《かはらばやし》春塘は未だ考へない。
 茶山は此月の中に帰途に上つた。行状に「十二年乙亥在東邸、増俸十口、二月帰国」と書してある。「簡合春川」の詩に「漸迫帰程発※[#「車+刄」、第4水準2−89−59]期、江城梅落鳥鳴時」と云ひ、「留別真野先生」の詩に「帰期已及百花辰、恨負都門行楽春」と云つてある。「釣伯園集」は茶山のために設けた別宴であらう。其詩には「名墅清遊二月春、島声花影午晴新」と云つてある。わたくしは只茶山の江戸を去つた時の二月なるを知つて、何日なるを知らない。「真野先生」は或は真野冬旭《まのとうきよく》か。
 茶山の此旅には少くも同行者の紀行があつた筈である。一行の中には豊後の甲原《かふはら》玄寿があり、讚岐の臼杵《うすき》直卿があつた。玄寿、名は義、漁荘と号した。杵築《きつき》吉広村の医玄易の子である。直卿、名は古愚、通称は唯助、黙庵と号した。後牧氏に更《あらた》めた。此甲原臼杵二氏の外に、又伊勢の河崎良佐があつた。所謂《いはゆる》「驥※[#「亡/虫」、7巻−153−上−10]日記」を著した人である。後に茶山がこれに序した。大意はかうである。河崎は自ら※[#「亡/虫」、7巻−153−上−12]《ばう》に比して、我を驥にした。敢て当らぬが、主客の辞となして視れば差支なからう。しかし河崎がためには此路は熟路である。我は既に曾遊の跡を忘れてゐる。「則其尋名勝、訪故迹、問奇石、看異木、唯良佐之尾是視、則良佐固驥、而余之為※[#「亡/虫」、7巻−153−下−1]也再矣」と云ふのである。此記にして有らば、茶山の江戸を発した日を知ることが出来よう。わたくしは未だ其書を見るに及ばない。
 茶山が江戸にある間、諸侯の宴を張つて饗したものが多かつた中に、白川楽翁公は酒間梅を折つて賜はつた。茶山は阿部邸に帰つた後、※[#「士/冖/石/木」、第4水準2−15−30]駝師《たくだし》をして盆梅に接木せしめた。枝は幸にして生きた。茶山は纔《わづか》に生きた接木の、途次に傷《やぶ》られむことを恐れて、此盆栽の梅を石田梧堂に託した。梧堂は後三年にして文政紀元に、茶山が京都に客たる時、小野梅舎をして梅を茶山に還さしめた。茶山は下の如く記してゐる。「歳乙亥、余※[#「禾+砥のつくり」、7巻−153−下−12]役江戸邸、一日趨白川老公招飲、酒間公手親折梅一枝、又作和歌并以賜余、余捧持而退、置于几上、翌日隣舎郎来云、賢侯之賜、宜接換移栽故園、不容徒委萎※[#「くさかんむり/爾」、7巻−153−下−15]、余従其言、及帰留托友人石子道、以佗日郵致、越戊寅春、余在京、会備中人小野梅舎至自江戸、訪余僑居、携一盆卉、視之乃曩所留者也、余驚且喜、梅舎与余、無半面之識、而千里帯来、其意一何厚也、既帰欲遺一物以表謝意、至今未果、頃友人泉蔵来話及其事、意似譴魯皐、因
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