ある。亦此正月の作である。わたくしは其引の叙事を読んで奇とし、此に採録することとした。二絶の引は素《もと》分割して書してあつたが、今写し出すに臨んで連接せしめる。「初春小女輩。取※[#「木+患」、第3水準1−86−5]子一顆。植鳥羽三四葉於顆上。以一小板。従下逆撃上之。降則又撃。升降数十。久不落地者為巧。名曰羽子戯。蓋清俗見※[#「足へん+易」、第4水準2−89−38]之類。又数伴交互撃一羽子。一人至数撃者為勝。失手而落者為負。名曰逐羽子戯。」其詩はかうである。「街頭日夕淡烟通。何処梅香月影朧。嬉笑女郎三両伴。数声羽子競春風。」「春意一場娘子軍。羽児争打各成群。女兄失算因含態。小妹軽※[#「にんべん+票」、第4水準2−1−84]却立勲。」
 正月の末に足の痛が少しく治したので、蘭軒は又出でて事を視ようとしたと見える。そこで二十三日に歩行願と云ふものを呈した。勤向覚書に云く。「文化十一年甲戌正月二十三日足痛追々全快には御座候得共、未聢と不仕候間、歩行仕度奉願上候所、即刻願之通被仰付候。」次で二月三日に、蘭軒は出でて事を視た。覚書に云く。「二月二日、明三日より出勤御番入仕候段御届申上候。」
 蘭軒は此《かく》の如く猶時々起行を試みた。そして起行し得る毎に公事に服した。後に至つて両脚全く廃したが、蘭軒は職を罷められなかつた。或は匐行《ふくかう》して主に謁し、或は舁《か》かれて庁に上つたのである。
 二月二十一日に阿部|正倫《まさとも》の未亡人津軽氏比佐子が六十一歳で、蘭軒の治を受けて卒した。比佐子の父は津軽越中守|信寧《のぶやす》であつた。勤向覚書に「廿五日霊台院様御霊前え献備物願置候所、勝手次第と被仰付候」と記してある。霊台院は即比佐子である。
 ※[#「くさかんむり/姦」、7巻−142−下−4]斎《かんさい》詩集に剰す所の春の詩数首がある。わたくしは其中に就いて神童水田某を褒めた作と、児に示した作とを取る。
 水田某は幼い詩人であつた。「水田氏神童善賦詩、格調流暢、日進可想、聊記一賞。撥除竹馬紙鳶嬉。筆硯間銷春日遅。可識鳳雛毛五彩。驚人時発一声奇。」
 蘭軒が児に示す詩は病中偶作の詩の後に附してある。「病中偶作。上寿長生莫漫求。百年畢竟一春秋。彭殤雖異為何事。花月笑歌風雨愁。」「同前示二児。富貴功名不可論。只要文種永相存。能教誦読声無断。便是吾家好子孫。」
 此詩題に二児と云つてあるは注目すべき事である。当時蘭軒三十八歳、妻益三十二歳で、子供は榛軒の棠助十一歳、常三郎十歳、柏軒の鉄三郎五歳であつた。わたくしは初め読んだとき、二児とは稍長じてゐた棠助、常三郎を斥して言つたので、幼い鉄三郎は第《しばら》く措いて問はなかつたのだらうとおもつた。既にして伊沢分家の人々の常三郎が事跡を語るを聞いて、憮然たること久しかつた。
 常三郎は生れて幾《いくばく》もあらぬに失明した。しかのみならず虚弱にして物学《ものまなび》も出来なかつた。それゆゑ常に怏々として楽まず、動《やゝ》もすれば日夜悲泣して息《や》まなかつた。某《それ》の年の大晦《おほつごもり》に常三郎の心疾が作《おこ》つて、母益は慰撫のために琴を弾じて夜闌《やらん》に及んだことさへあるさうである。
 詩に謂ふ二児は、即ち十一歳の榛軒と五歳の柏軒とで、常三郎は与《あづか》らなかつたのである。
 夏に入つて四月八日に、蘭軒の三女が生れた。頃日《このごろ》伊沢分家に質《たゞ》して知り得たる所に従へば、蘭軒の長女は天津《てつ》で、文化二年に夭した。其生年月を詳《つまびらか》にしない。二女智貌童女は文化九年中生れて七日にして夭した。三女は今生れたものが即是である。名を長《ちやう》と云ふ。以上皆嫡出である。そして長が独り長育することを得た。勤向覚書に云く。「四月八日妻安産仕、女子出生仕候、依之御定式之血忌引仕候段御達申上候、同月十一日血忌引御免被仰付候、明十二日御番入仕候段御達申上候。」
 此月二十一日蘭軒に金三百疋を賜つた。「霊台院様御病中出精相勤候に付」と云ふ賞賜である。上《かみ》に云つた如く、霊台院殿信誉自然現成大姉は津軽氏比佐子で、墓は浅草西福寺にある。比佐子夫人の事は岡田|吉顕《よしあき》さんに請うて阿部家の記録を検してもらつた。

     その七十

 此年文化十一年五月に菅茶山が又東役の命を受けた。行状に「十一年甲戌五月又召赴東都」と書してある。所謂《いはゆる》「七十老翁欲何求、復載※[#「さんずい+冗」、第4水準2−78−26]痾向武州」の旅である。紀行などもあるか知らぬが、わたくしの手元には只詩集があるのみである。五月になつてから命を承けたのではあるが、「午日諸子来餞」の午日は四日の初午であらう。「梅天初霽石榴紅、何限離情一酔中」の句に、節物が点出せられてゐる。
 茶山は岡山、伊部、舞子、尼崎、石場、勢田、石部、桜川、大野、関、木曾川、万場、油井、薩陀峠、箱根山、六郷、大森等に鴻爪《かうさう》の痕を留めて東する。伊部を過ぎては「白髪満頭非故我、記不当日旧牛医」と云ひ、尼崎を過ぎては「輦下故人零落尽、蘭交唯有旧青山」と云ひ、又富士を望んでは「但為奇雲群在側、使人頻拭老眸看」と云ふ。到処今昔の感に堪へぬのであつた。旧牛医《きうぎうい》は嘗て牛医と錯《あやま》り認められたことがあつたのを謂ふ。此間江戸にある蘭軒は病のため引込保養をしてゐた。「六月廿日疝積相煩候所、兎角不相勝候に付、明日より引込保養仕候段御達申上候」と、勤向覚書に云つてある。足疾のために消化を害せられてゐたのであらう。
 茶山が江戸に抵《いた》る比《ころほひ》には、蘭軒の疝積《せんしやく》も稍おこたつてゐた。「扶病歩園。従来遊戯作生涯。酔歩吟行少在家。病脚連旬堪自笑。扶※[#「竹かんむり/(エ+おおざと)」、第3水準1−89−61]纔看薬欄花。」園《その》に百日紅《さるすべり》がさいてゐたので、蘭軒は折らせて阿部邸の茶山が許に送つた。「園中紫薇花盛開、乃折数枝、贈菅先生。紫薇花発横斜影。寄贈満枝朝露多。百日紅葩能得称。輸君終歳酔顔※[#「酉+它」、第4水準2−90−34]。」
 七月に蘭軒は病中ながら月代《さかやき》をした。「七月九日疝積追々快方には御座候得共、未聢と不仕候間、月代仕度奉願上候所、早速願之趣被仰付候」と、覚書に云つてある。
 茶山は此月に鵜川|子醇《しじゆん》等を伴つて、不忍池へ蓮を看に往つて、帰途に蘭軒の病牀を訪うた。前にわたくしは蘭軒が家を湖上に移したことを言つたが、それは一時の仮寓であつたと見えて、此時は又本郷にゐたらしい。鵜川子醇、通称は純二、茶山の旧相識である。前度文化紀元の在府中に茶山が此人のために詩を作つたことがある。「関帝、応鵜川純二需」の七絶が即是である。「茶山菅先生携鵜川子醇及諸子、看荷花於篠池、帰路訪余、余時臥病、喜而賦一絶、昔年余亦従二君同看、今已為隔世之想云。十歳重携旧酒徒、荷花時節小西湖。酔帰猶有芳情在。満袖清香襲病夫。」
 次韻は茶山の集中江戸に於ける最初の詩である。「七月看小西湖荷花、帰路訪伊沢憺父、余与憺父狩谷卿雲諸子、曾作此賞、距今十一年矣、憺夫有詩、次韻以答。此間佳麗世間無。十里芙蓉花満湖。不料旗亭雲錦裏。尊前重著旧樵夫。」
 嘗て茶山が蘭軒の疎濶《そくわつ》を責めた後、わたくしは二人の間にいかなる書信の往復があつたかを知らない。茶山と江戸にあつた井上四明との応酬に徴するに、茶山の東命は期せずして至つたらしいから、必ずや茶山は相見る日を待たずして屡《しば/\》報復を促し、蘭軒は遂に一たび断えたコレスポンダンスの緒を継いだことであらう。
 此初度の訪問は何日であつたか知らぬが、少くも十四日よりは早かつたらしい。次で雨の日が続いた。蘭軒に「秋霖」の二絶がある。此間勤番暮しの茶山は、衣食何くれとなく不自由な事がある毎に、救を蘭軒に求めた。就中《なかんづく》茶山は菜蔬を嗜《たし》んだので、其買入を伊沢の家に託した。本郷の伊沢の家と、神田の阿部邸との間には、始終使の往反が絶えなかつたのである。

     その七十一

 此秋文化十一年の雨の中元に、蘭軒は菅茶山を家に招いた。当時宴を張つて茶山を請ずるものは甚多かつたので、茶山はこれがために忙殺せられてゐたが、遠慮のいらぬ故人の案内に応ずるのは苦にはならなかつたであらう。
 茶山が此案内を受けた時の返事が、偶《たま/\》わたくしの饗庭篁村《あへばくわうそん》さんに借りた一束の書牘《しよどく》の中に遺つてゐた。これを見て茶山と蘭軒との間の隔なき交のさまが窺はれる。
「盆前とて所謂《いはゆる》書出してふ物|被遣《つかはされ》、帖面なしのかけ取など御使にわたし申候。此中ののこりをさへに御受取可被下候。」
「十六日辱奉存候。外にすこし約束ありかけ候其方をのべさせ可申候。只今状かき初申候。のべ候はば参可申候。いづれこれより可申上候。」
「八百屋物の代銭百文先さき金に奥様へ御わたし申候。あとは追々さし上可申候。御買おき可被下候。部屋番とりにさし上可申候。其品は いも なすび ふぢ豆の類なににてもよし かいわり菜(備後方言まびき菜) 外名をしらず きらひもの たうなす さつまいも ぼうふら(南瓜) 太中。辞安様。」
 十六日の請待は延びて十七日となつた。そして此日に幸に雨が霽れた。茶山の詩の自註にかう云つてある。「十五夜圃公舟遊。十六夜卿雲別業集。並阻雨不果。是日訪憺父病。」圃公《ほこう》は中村圃公である。茶山が蘭軒に招かれた故を以て、会期を延すことを交渉した相手が狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎であつたのは意外である。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の催を蘭軒の知らなかつたのは意外である。しかし※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎は会期を病褥にある蘭軒に告げなかつたのであらう。
 茶山は蘭軒を訪うた帰途「茗渓即事」の二絶を得た。これは蘭軒の本郷にゐた証に充《み》つべきであらう。「中元時節雨霏霏。両夜遊期各処違。此日無端問人病。長橋独踏月光帰。」「林頭月走夜雲忙。数店燈毬閃閃光。茗水橋辺行客少。満街風露進新涼。」
 茶山の集を繙閲《はんえつ》すれば、宴飲の盛なることは秋冬の交が尤甚しかつた。此時に当つて綻びた衣《きぬ》の繕《つくろひ》、朝夕の飲饌の世話などは、蘭軒の家が主としてこれに当つてゐたらしい。伊沢氏は詞場に酣戦してゐる茶山がために兵站の用をなしてゐたらしい。
 菜蔬は蘭軒の妻が常に店頭《てんとう》の物を買つて送つたが、或日それに自園の大根を雑へて、蘭軒の詩を添へて遣つた。「園蔬頗肥、贈菅先生、誇其美云。学圃近来術不疎。肥※[#「酉+農」、7巻−147−上−10]自愛満畦蔬。贈君莱※[#「くさかんむり/服」、第4水準2−86−29]尤佳味。却勝市門店上魚。」
 十一月には茶山の官事が稍忙しくなつたらしい。「霜月廿九日」とした手紙に、「此頃府誌いそがしく他出むづかしく候」と云つてある。府誌とは福山地志か。此書は文化六年に成つて上《たてまつ》つたものである。更に筆削などを命ぜられたものであらうか。
 同じ書に「御姉様よりめづらしき御茶碗御恵被下、私かねて望候物、別而難有奉存候」と云ひ、又「下著御仕たて被下、奥方様へ御世話の御礼宜御申可被下候」と云つてある。「御姉様」は黒田家に仕へてゐた蘭軒の姉|幾勢《きせ》か。幾勢には茶碗の礼、益《ます》には下著の礼が言つてある。

     その七十二

 此冬文化十一年の冬の間に、菅茶山は幾度蘭軒をおとづれたか不明である。しかし前に引いた十一月二十九日の書にも「其内|偸間《とうかん》可申候」と云つてある。
 十二月六日に至つて、茶山は果して夕方に蘭軒を訪うた。蘭軒夫妻は厚くもてなし、主客の間には種々の打明話も交換せられた。茶山は襦袢が薄くて寒《さぶ》さに耐へぬと云つて、益に繕ふことを頼んだ。又部屋の庖厨の不行届を話したので、蘭軒夫妻は下物《げぶつ》飯菜の幾種かを貽《おく》つた。茶山は夜更《よふ》けて、其品々を持ち、提灯を借りて神田の阿部邸に還つた。

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