から、早く年初若くは前年より東遊せずにゐたのであらうか。頼氏の事に明るい人の教を受けたい。
倉成|竜渚《りゆうしよ》の歿したのは前年文化九年十二月十日で、齢は六十五であつた。名は※[#「經のつくり」、第4水準2−8−75]《けい》であつたらしい。鉛字《えんじ》の世となつてから、経と書し茎《かう》と書し、諸書|区々《まち/\》になつてゐる。字《あざな》は善卿、通称は善司であつた。豊前国字佐郡の人で、同国中津の城主奥平大膳大夫昌高に仕へた。初め京都に入つて古義堂を敲き、後|世子《せいし》昌暢《まさのぶ》の侍読となつて江戸に来り、紀平洲等と交つた。寛政八年藩校進脩館の興るに当つて、竜渚はこれが教授となつた。諸書に見えてゐる此人の伝は、主に樺島石梁の墓表に本づいてゐるらしい。
尾藤二洲の病免は前々年文化八年十二月十日で、当時六十七歳であつた。春水遺稿の詩引に所謂《いはゆる》「製小車逍遙」も暫しの間の事で、此手紙に書かれた年の十二月四日には、六十九歳で歿したのである。
手紙の「用事」と題した箇条書の首《はじめ》に、巾着の註文がある。そして此巾着はわたくしに重要な事を教へる。わたくしは蚤《はや》く蘭軒と茶山との交通はいつ始まつたかと云ふ問を発した。此交通は寛政四年に茶山が阿部家に召し抱へられた後に始まつただらうとは、わたくしの第一の断案であつた。次でわたくしは文化元年二月に小川町の阿部邸に病臥してゐる茶山の許へ、蘭軒が菜の花を送つた事実を見出だし、これを認めて「記載せられたる最初の交通」となし、二人の相待つに故人を以てしてゐたことを明にした。これを第二の断案とする。さて今此巾着の註文を見るに、「十年前御買被下候とのゐものゝ形なり」と云つてある。文化十年より溯つて十年前とすれば、享和三年である。蘭軒は享和三年に巾着を買つて茶山に送つたのである。蘭軒と茶山との間には、既に亨和三年に親交があつたのである。享和三年は文化紀元に先だつこと僅に一年ではあるが、わたくしがためには此小発見も亦重要である。
次に黄葉夕陽村舎集が始て発行せられた時の事が言つてある。当初此集に悪本と善本とが市に上つた。悪本は「書物屋うりいそぎをいたし校正せぬさきにうり出し候」と云ふ本である。後に校正済の善本が出た。わたくしはこれを読んで独り自ら笑つた。文化の昔も大正の今も、学者は学者、商人は商人である。世態人情古今同帰である。茶山は蘭軒に善悪二本を鑑別する法を授けた。それは巻尾に登々庵《とう/\あん》の五古を載せたものが善本だと云ふのである。「読恥庵集書感」の詩で、「垂老空掻首、人間鎮寥※[#「門<貝」、第4水準2−91−57]」を以て結んであるのが即是である。
次は狩谷|※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎《えきさい》の店津軽屋と筑前船との事、塙保己《はなはほき》一から取り寄せる書籍の残の事、蠣崎波響《かきざきはきやう》へ文通の事である。初わたくしは前に引いた書に波響だけが「君」と書してあり、又此書にも「殿」と書してあるのを何故かと疑つた。既にして詩集の「蠣崎公子」「蠣公子」「波響公子」等の称呼に想ひ及んで、わたくしの疑は一層の深きを加へた。そこで五山堂詩話を検すると、波響は「松前侯族」だとしてある。又茶山自家の文中「題六如上人手写詩巻首」にも「公子従政于国」と云つてある。わたくしは此に至つて波響が松前若狭守|章広《あきひろ》の親戚であることを知つた。わたくしは進んでどう云ふ筋の親戚かと云ふことをも知りたくなつた。数日の後の事である。偶然六|如《によ》の詩集を飜して見てゐると、「寄題波響楼」の長古が目に触れた。題の下《もと》にはかう云ふ自註がある。「松前人源広年。字世※[#「示+古」、第3水準1−89−26]。別号波響。今藩主親弟。出嗣大夫家。冒姓蠣崎氏。(中略。)所居有楼。前臨大洋。名以波響。因亦自号焉。」是に由つて観れば、波響広年は美作守道広の弟であつたと見える。わたくしは始て釈然とした。茶山|書牘《しよどく》の波響の条には猶犬塚|印南《いんなん》の名も出てゐる。印南も亦此書に名を列した文化十年の十一月十二日に歿した。茶山の友人は次第に凋落して行くのであつた。
その六十七
此年文化十年の秋に入つてから、集中に詩十二首があつて、其七首は「晩秋病中雑詠」である。爾余は野遊の七律一、菊と楓《もみぢ》との七絶各一、柳橋を過ぐる七絶一、木村|定良《さだよし》に訪はれた五律一である。
菊の詩は巣鴨の造菊《つくりぎく》を嘲《あざけ》つたものである。武江年表に拠れば、巣鴨の造菊は前年文化九年九月に始まつて、十三年に至るまで行はれた。「巣鴨村有藝戸数十、毎戸栽菊、培養頗精、有高丈許、枝亦数尺者、繊竹構※[#「木+宣」、7巻−137−下−9]、巧造人物禽獣山水楼閣舟車之状、至花時、都人看者為群、漫賦一絶。菊花種法戸争新。衒世巧粧妙入神。不奈逸然彭沢令。強為郷里折腰人。」茶山の評に云く。「十一年前余在都下。菊月歴観諸藝戸。未見奇巧如此者。人巧日競。天真漸微。読此詩亦発一慨。」序に楓の詩をも録する。「看楓。菊花看尽又看楓。村路吟行暖似※[#「火+共」、第3水準1−87−42]。猶是秋光有深浅。半渓未染半渓紅。」看楓の地は滝の川か。「野遊」の律も亦恐くは同じ時の作であらう。「黄葉林間茶店榻、黄蘆岸上酒家旗」の聯がある。
柳橋を過ぐる詩と橿園《かしぞの》に訪はれた詩とには、稍衰残の気象が見える。「過柳橋。嘗酔江辺春酒楼。如今袖手過橋頭。杜娘何去韋娘老。岸柳条々餞暮秋。」茶山の評に云く。「昨日少年今白頭。」橿園に訪はれた詩には、蘭軒が自ら白髪を語つてゐる。「秋日木駿卿来訪、閑談至夕。竹門風政柝。熟客不驚禽。新醸香猶浅。旧歓談自深。数茎看白髪。十載想青衿。開口宜共笑。天公定有心。」三四の下《もと》に茶山が「字法」の二字を著けてゐる。
此秋の蘭軒が病は例の足疾であつた。勤向覚書に下《しも》の如き記事がある。「九月十九日足痛相煩候に付、引込保養仕候段御達申上候。」
「晩秋病中雑詠」七首の中、わたくしは此に其二を採録する。「琴尊已廃復休茶。薬鼎風炉病子家。新得奇書三両種。幽忻猶且向人誇。」「禍福自然応有時。風花雲月各相宜。古人言尽人間事。推枕軒中聴雨詩。」前詩を見れば蘭軒は翅《たゞ》に酒を廃するのみならず、又茶を廃したらしい。しかし猶奇書を獲て自ら慰めてゐる。後詩は元人の「人間万事塞翁馬、推枕軒中聴雨眠」を用ゐてゐる。後に冢子《ちようし》榛軒《しんけん》は此語より推枕軒《すゐちんけん》の号を取つた。
此冬は集に十首の詩がある。皆病中の消遣若くは応酬の作である。病が漸く重く、戸外に出ることが出来なかつたのであらう。
十月の小春|日向《びより》に、先づ「愛閑」の五律がある。其一二は「五風将十雨、暖日小春天、」五六は「文章元戯楽、安逸是因縁」である。「冬晴」二絶の一は例の愛書の癖を忘れない。「新霜頃日染幽叢。橘柚金黄楓錦紅。童子亦遭乃公役。拾銀杏葉挾書中。」覚書にはかう云つてある。「十月二十三日足痛追々快方には御座候得共、未聢と不仕、且月代仕度段奉願上候処、即刻願之通被仰付候。」所謂《いはゆる》快方は痛が退いて心が爽になつたので、足疾が愈《い》えたのではなかつたらしい。
蘭軒は此冬よりして漸く起行することが難渋になつた。躄《あしなへ》になりかかつたのである。其証拠をばわたくしが三年後の詩引中より見出だした。文化十三年の歳首の詩の引に、「丙子元日作、余今年四十、以脚疾不能起坐已三年」云々と云つてある。
蘭軒は医である。自らプログノジスの隻眼を具してゐる。嘗て茶山に「死なぬ疾《やまひ》」を報じたやうに、今又起行の期し難きを暁《さと》つたであらう。其胸臆を忖度《そんたく》すれば、真に愍むべきである。「病中口占。丈夫居世当雄飛。多病近来心事違。五十生涯三十七。数年贏得亦何為。」
その六十八
尋で此年文化十年の冬の詩中に、二三の留意すべき応酬がある。其一つは「酬真野冬旭見贈之作※[#「庚/貝」、第3水準1−92−25]韻」の七律である。頷聯の「元知郢国音難和、況復鳳雛毛有文」に父子が称へてあつて、三は冬旭の詩を言ひ、四は其子の書を言ふ。「其男善書、甫九歳」と自註してある。頸聯の「竜土烟霞連海気、神田草樹映城雲」は、わたくしをして冬旭が麻布竜土町辺に住んでゐたかを思はしめるが、さるにても神田は何故に点出せられてゐるだらうか。
次に「茶山菅先生之在江戸、一日犬冢印南、今川槐庵、及恬、同陪先生、為墨水舟遊、先生帰郷、十年於此、而今年犬冢今川倶逝、頃先生集刻成、至読其詩慨然」として、七絶が載せてある。「吟船尋柳更聴鶯。二客已為泉下行。往事欲談君只在。黄薇二百里余程。」茶山は「感愴」と云つてゐる。
犬冢印南《いぬづかいんなん》は此年十一月十二日に歿した。今川槐庵が此年に歿したことは蘭軒の詩に由つて知られるのみで、其終焉の月日は未詳である。二人の相|踵《つ》いで木に就いた時、蘭軒は始て黄葉夕陽村舎詩の刻本を手にすることを得、甲子の旧遊を想起して此を賦したのである。
次に「雪日余語古庵、木村文河、小山吉人来訪」の七絶がある。「雪花一日満園春。修竹無風伏復伸。回艇戴門交素薄。笠簑訪我客三人。」余語《よご》、木村は前に見えてゐる。小山|吉人《きつじん》は初出であるが、未だ考へない。蘭軒の及門人名録《きふもんじんめいろく》に小山|良哉《りやうさい》がある。吉人は或は良哉若くは其族人か。
勤向覚書を見るに、蘭軒は十二月十一日に例の湯島の薬湯に往つた。「十二月十一日足痛追々全快には御座候得共、未聢と不仕候間、湯島天神下薬湯え三廻り罷越度奉願上候処、即刻願之通被仰付候。」余語等三人を引見したのは、自宅に於てしたらしくも聞えるが、或は天神下に舎《やど》つた後の事であつたかも知れない。
蘭軒は此年病の為に困窮に陥つて、蔵書をさへ沽《う》らなくてはならぬ程であつた。そこで知友が胥謀《あひはか》つて、頼母子《たのもし》講様の社を結んで救つた。彼の茶山に疎懶《そらん》を怪まれたのも、勝手の不如意が一因をなしてゐたのではなからうか。「癸酉終歳臥病、家貲頗乏、数人為結義社、仮与金若干、記喜。経年常負債。一歳総投痾。窮鬼難駆逐。儲書将典過。東西人倶眷。黄白術相和。政是逢江激。轍魚帰海波。」蘭軒がためには「儲書将典過」が、シヤイロツクに心の臓を刳《ゑぐ》り取られるより苦しかつたであらう。
蘭軒は此《かく》の如く病と貧とに苦められて、感慨なきこと能はず、歳暮に「自責」の詩を作つた。「官路幸過疎放身。一家暖飽十余人。従来無手労耕織。不説君恩却説貧。」
此年尾藤二洲、犬冢印南、今川槐庵の亡くなつたことは上《かみ》に云ふ所の如くである。
頼氏では此年春水が陞等《しようとう》加禄の喜に遇つたが、冬より「水飲病」を得て、終身|全愈《ぜんゆ》するに至らなかつた。山陽は一たび父を京都の家に舎すことを得て、此に亡命事件の落著を見た。春水は山陽を訪ふとき、養嗣子|聿庵《いつあん》を伴つて往つた。即ち山陽の実子|御園《みその》氏の出|元協《げんけふ》である。
此年蘭軒は三十七歳、妻益三十一歳、三児中榛軒十歳、常三郎九歳、柏軒四歳であつた。
文化十一年の元旦は臘月願済の湯治日限の内であつた。これは前年の十二月が大であつたことを顧慮して算しても、亦同じである。しかし一日を遅くすることが養痾に利があるわけでもないから、除夜には蘭軒は家に帰つてゐたであらう。
「甲戌早春。嚢※[#「士/冖/石/木」、第4水準2−15−30]掃空餞臘来。辛盤椒酒是余財。逢喧脚疾漸除却。杖※[#「尸+(彳+婁)」、第4水準2−8−20]遍尋郊野梅。」当時蘭軒の病候《びやうこう》には消長があつて、時に或は起行を試みたことは、記載の徴すべきものがある。しかし「杖※[#「尸+(彳+婁)」、第4水準2−8−20]遍尋」は恐くは誇張を免れぬであらう。
その六十九
甲戌早春の詩の後に、羽子《はご》、追羽子の二絶が
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