と見える。覚書にかう云つてある。「二月二十五日頭風追々全快仕候に付、月代仕、薬湯え三廻り罷越度段奉願上候処、即刻願之通被仰付候段、山岡治左衛門殿被仰渡候。」月代《さかやき》はしても猶湯治中で、職には服してをらぬのである。
然るに詩集には春游の七律があつて、其起には「東風送歩到江塘、翠浪白砂花亦香」と云つてある。又「上巳与余語觚庵犬冢吉人、有泛舟之約、雨不果、賦贈」の七絶さへある。「雨不果」と云つて、「病不果」とは云はない。春游の詩は実を記したので無いとも見られようが、舟を泛ぶる約は必ずあつたのであらう。或は想ふに、当時養痾中の外游などは甚しく忌まなかつたものであらうか。
余語《よご》氏は世《よゝ》古庵の号を襲《つ》いだものである。古庵一に觚庵にも作つたか。当時の武鑑には、「五百石、奥詰御医師、余語良仙、本郷弓町」として載せてある。
犬冢吉人《いぬづかきつじん》は印南《いんなん》か、又は其族人か。印南は此年文化十年十一月十二日に歿したと、老樗軒《らうちよけん》の墓所一覧に云つてある。若し舟遊の約をしたのが印南だとすると、それは冬死ぬべき年の春の事であつた。序に云ふ。老樗軒はわたくしは「らうちよけん」と訓んでゐたが、今これを筆にするに当つて疑を生じ、手近な字典を見、更に説文《せつもん》をも出して見た。説文に樗《くわ》は「从木※[#「樗のつくり」、第3水準1−93−68]声、読若華」、※[#「木+罅のつくり」、7巻−130−上−2]《ちよ》は「从木※[#「罅のつくり」、第4水準2−87−26]声」と云つてある。字典は樗の下《もと》に集韻を引いて「又作※[#「木へん+罅のつくり」、7巻−130−上−3]、丑居切」と云ひ、※[#「木+罅のつくり」、7巻−130−上−3]の下には只「同樗」と云つてゐる。文字を知つた人の教を受けたい。
覚書と詩集とには此《かく》の如き牴牾《ていご》があるが、蘭軒が病なくして病と称したのでないことは明である。集に「病中偶成」の五律がある。「時節頃来好。抱痾倦日長。晴山鳩穀々。春社鼓※[#「金+堂」、第4水準2−91−34]々。盃酒将忘味。薬湯頻換方。花期看自過。昏夢繞池塘。」茶山は「医人之病、往々如此、詩則妙」と評してゐる。
春の詩の後に白氏文集の善本を獲た時の作がある。「余蔵白氏集活字版本、旧年売却、頃書肆英平吉携来一本、即旧架物也、購得記喜。物帰所好不関貧。得失従来如有神。富子蔵書都記印。奇書自属愛書人。」経籍訪古志に、「白氏文集七十一巻、元和戊午那波道円活字刊本」と云つてあるのは是か。訪吉志は「戊午」を「戊半」と誤つてゐるが、後文に「戊午七月」と云つてある。此にも酌源堂蔵とは註して無い。
わたくしは前の戦国策と云ひ、此白氏文集と云ひ、伊沢氏酌源堂の蔵※[#「去/廾」、7巻−130−下−5]《ざうきよ》と覚しきものが、皆其所在の記註を闕いでゐるのを見て、心これを怪まざることを得ない。和田万吉さんは「集書家伊沢蘭軒翁略伝」にかう云つてゐる。「経籍訪古志本文中酌源堂の蔵儲を採録せるは僅に六七種に過ぎず、之を求古楼、崇蘭館、宝素堂等の所蔵に比べて、珍本良書の数量上に著き遜色あるが如く見ゆるは怪むべし」と云つてゐる。惟《おも》ふにわたくしの彼疑が釈《と》けたら、随つて和田さんの此疑も釈けるのではなからうか。多く古書の聚散遷移の迹を識つてゐる人の教を乞ひたい。
その六十四
わたくしは前年文化九年に蘭軒が詩を作らなかつたことを怪んだ。然るに此年文化十年にも亦怪むべき事がある。上《かみ》に引いた春の詩数首は茶山の批閲を経たものが多い。批閲は後に加へたものである。これに反して茶山は春以来|屡《しば/\》書を蘭軒に寄せたのに、蘭軒は久しくこれに答へなかつた。蘭軒は病んではゐたが、其病は書を裁することを礙《さまた》ぐる程のものではなかつたらしい。前年|吟哦《ぎんが》を絶つてゐた故が不審である如く、此年に不沙汰をした故も亦不審である。
茶山は六月十二日に今川槐庵に書を与へた。これは槐庵をして蘭軒の報復を促さしめようとしたのである。此書はわたくしが饗庭篁村《あへばくわうそん》さんに借りた茶山|手柬《しゆかん》の中の一通である。
わたくしは茶山の書の全文を此に写出する。
「大暑の候|愈《いよ/\》御安祥御勤被成候由、奥様にも定而《さだめて》御安祥、恐悦奉賀候。先頃は新様封皮《しんやうほうひ》沢山に御恵被下、忝奉存候。御蔵版に御座候而又も可被下旨、別而《べつして》雀躍仕候。近比は御多事に御座候由、御推察申上候。」
「伊沢いく度状遣候も、一字隻言之返事もなく候。此人今は壮健之由可賀候。」
「蘇州府の柳を※[#「口+羅」、第3水準1−15−31]《もらひ》、庭前にさしおき、活し申候。大《おほき》になり、枝をきられ候時に至候はば進上可致候やと御伝へ可被下候。柳は早き物に候。来年あたりは被贈可申候。徳見茂四郎より※[#「口+羅」、第3水準1−15−31]申候。」
「伊沢正月金子入書状之返事も無御座候而、頼遣し候ことも、なしとも礫《つぶて》とも無之候。これらのことちと御尋被下度奉希候。御忙劇之中へかかること申上候、これも伊沢返事なき故也。這漢《このかん》を御しかり可被下候。」
「先達而《せんだつて》伊沢話に、津軽屋へ便御座候家、大坂筑前屋と申に御座候由、某島《それがししま》とやら承候而忘れ申候。只今も其家より便御座候はば、伊沢より被申下候様御頼可被下候。近比御便すくなく、ちと大なる封などはいたしかたなく候。筑前あき長門等之御参勤をまち候へども、儀衛中に知音無之ときは夫も出来不申こまり申候。御面倒之御事伊沢と御一緒に御覧、彼方より申参候様御頼可被下候。恐惶謹言。六月十二日。菅太中晋帥《くわんたいちゆうしんすゐ》。今川剛八様侍史。筑前屋より津軽屋へ之便一年にいくたび御座候やいつ比《ごろ》御座候やも奉願上候。」
此書を読めば、蘭軒が数回の茶山の書に答へずにゐたことが知られる。就中《なかんづく》正月に発した金子入の書は、茶山が必ず報復を得ることを期してゐたのに、蘭軒はこれにさへ答へずにゐた。蘭軒がかくまで通信を怠つてゐたのは何故か不審である。
茶山が徳見に託して西湖の柳を取り寄せようとしてゐたことは前にも見えてゐた。茶山は柳の来るを待ち兼ねて、蘭軒をして徳見に書を遣つて督促せしめようとしたのである。此書を見るに、柳は既に来た。そして茶山は蘭軒に其枝を分たうと云つてゐる。山田|方谷《はうこく》が茶山の家の此柳を詠んだ和歌がある。「西湖柳。もろこしのたねとしきけど日の本の風にもなびく糸やなぎかな。」当時長崎から柳を得たものは、独り茶山のみではなかつたと見えて、石原某の如きもこれを栽ゑて柳庵と号し、頼春水に詩を索めた。「石原柳庵得西湖柳、以名其庵、索詩。分得西湖堤上翠。併烟移植読書槞。春風応引蘇公夢。万里来遊日本東。」
当時福山と江戸との間の運輸通信がいかに難渋であつたかは、此書に由つて知られる。茶山が蘭軒に不満であつたのも、此難渋に堪へずして焦燥した余の事である。そして茶山が其不満を説いて露骨を嫌はず、「這漢《このかん》を御しかり可被下候」と云ふに至つたのは、偶《たま/\》以て二人の交の甚深かつたことを証するに足るのである。
その六十五
茶山は書を槐庵に与へた後、又一箇月の間忍んで蘭軒の信書を俟《ま》つてゐた。気の毒な事にはそれはそらだのめであつた。然るに此年文化十年七月下旬に偶《たま/\》江戸への便があつたので、茶山は更に直接に書を蘭軒に寄せた。即ち七月二十二日附の書で、亦わたくしが饗庭篁村《あへばくわうそん》さんに借りた一括の尺牘《せきどく》の中にある。わたくしはこれをも省略せずに此に挙げる。
「春来一再書状差上候へ共、漠然として御返事もなし。如何《いかに》と人に尋候へば、辞安も今は尋常的の医になりし故、儒者めけるものの文通などは面倒に思候覧などと申候。我辞安其|体《てい》には有御座間布《ござあるまじく》、大かたは医を行《おこなひ》いそがしき事ならむと奉存候。しかしたとひ閙敷《いそがしく》とも、折節寸札御返事は奉希《こひねがひたてまつり》候。只今にては江戸之時事一向にしれ不申、隔世之様に被思候。これは万四郎などといふものの往来なく、倉成善司(奥平家儒官)卒去、尾藤先生老衰隠去と申様之事にて候。しかるを我辞安行路之人のごとくにては、外に手蔓無之こまり申候。何分今度は御返事可被下候。こりてもこりず又々用事申上候。」
「用事。一、御腰に下げられ候巾著、わたくしへも十年前御買被下候とのゐものの形なり。価《あたひ》十匁と申を九つか十か御こし被下度候。これは人にたのまれ候。皆心やすき人也。金子は此度之便遣しがたく候。よき便の時さし上可申候。直段《ねだん》少々|上《のぼ》り而《て》も不苦候。必々奉願上候。」
「私詩集東都へ参申候哉。書物屋うりいそぎをいたし、校正せぬさきにすり出し候も有之候。もし御覧被下候はば、末梢頭《まつせうとう》に五言古詩の長き作入候本|宜《よろしく》候。(登々庵武元質《とう/\あんぶげんしつ》と申人の跋の心にいれたる詩也。)これのなき方ははじめ之本に候。」
「津軽屋へ出入候筑前船之便に而、津軽屋へ頼遣候へば、慥に届申候由、前年御書中に被仰下候大阪えびすじま筑前屋新兵衛とやら、慥には無之覚ゐ申候。向後頼候而も不苦候哉。只今は星移《ほしうつり》物換《ものかはり》候事也。此事も承はり度奉存候。此御返事早く奉願候。」
「一、塙《はなは》へ之頼之本少々のこり候品、何卒可相成候はば早く御越奉願上候。これも熱のさめぬうちに非ざれば出来不申候もの也。」
「一、前年|蠣崎将監《かきざきしやうげん》殿へ遣候書状御頼申候。其後は便所《びんしよ》も出来候事に御座候哉。又々書状遣度候へ共、よき便所を得不申候。犬塚翁などへ、通路も御座候や御聞合可被下候。是亦奉願上候。」
「得意ざきへ物買に行ごとく、用事|計《ばかり》申上候事、思召も恥入候。然ども外にはいたしかた無之、無拠《よんどころなく》御頼申上候。これまた前世より之|業《ごふ》などと思召、御|辨《わきまへ》被下度奉願上候。」
「御内上様へ次《ついで》に宜奉願上候。敬白。七月廿二日。菅太中晋帥《くわんたいちゆうしんすゐ》。伊沢辞安様侍史。猶々妻も自私《わたくしより》宜申上候へと申托《まをしたくし》候。」
茶山は蘭軒の返信を促すに、一たび間接の手段を取つて、書を今川槐庵に与へたが、又|故《もと》の直接の手段に立ち戻つて此書を蘭軒に寄せた。神辺にあつて江戸の消息を知るには、蘭軒に頼《よ》る外に途が無かつたのである。
茶山は頼|杏坪《きやうへい》が江戸に往来しなくなつたり、倉成|竜渚《りゆうしよ》が死んだり、尾藤二洲が引退したりしたと云ふやうな江戸の時事が知れぬのに困ると云つてゐる。要するに茶山の知らむと欲するは騒壇の消息であつて、遺憾なくこれを茶山に報ずることを得るものは、蘭軒を除いては其人を得難かつたのであらう。江戸の騒壇は暫く顧みずにゐると、人をして隔世の想をなさしめる。これを知らぬものは※[#「にんべん+倉」、第4水準2−1−77]夫《さうふ》になつてしまふ。これは茶山の忍ぶこと能はざる所であつた。そこで「儒者めけるものの文通は面倒に思候覧」と人が云ふと云ひ、「行路之人のごとく」になられては困ると云つて、不平を漏らしたのである。
その六十六
頼|杏坪《きやうへい》は此年文化十年に五十八歳になつてゐた筈である。わたくしは特に杏坪の事をしらべてをらぬが、これは天保五年に七十九歳で歿したとして逆算したのである。しかし竹田は文政九年丙戌に七十二歳だと書してゐる。若し竹田に従ふと一歳を加へなくてはならない。わたくしが通途《つうづ》の説に従ふのは、蘭軒が春水父子の齢を誤つた如く、竹田も杏坪の齢を誤つたかと疑ふからである。
杏坪が江戸に往反《わうへん》しなくなつたのは何故であらうか。郡奉行《こほりぶぎやう》にせられたのが此年の七月ださうだ
前へ
次へ
全114ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング