浅野家に呈した覚書には「稽古場教授相譲申度趣」と云つてあるが、後住の語は当時|數《しば/\》茶山の口にし筆にした所であつて、山陽自己も慥にこれを聞いてゐた。それは山陽が築山捧盈《つきやまほうえい》に与へた書に、「学統相続と申て寺の後住の様のものと申事」と云つてあるのに徴して知られる。
 又「養子にてもなしに」の句も等間看過すべからざる句である。前に云つた春水の覚書にも「尤先方家続養子に相成、他姓名乗様の儀には無之」とことわつてある。
 要するに家塾を譲ると云ふことと、菅氏を名乗らせて阿部家に仕へさせると云ふこととの間には、初より劃然とした差別《しやべつ》がしであつた。後に至つて山陽の「上菅茶山先生書」に見えたやうな問題の起つたのは、福山側の望蜀の念に本づく。
 茶山が山陽を如何に観てゐたかと云ふことは、事新しく言ふことを須《もち》ゐない。此書は既に提供せられた許多《きよた》の証の上に、更に一の証を添へたに過ぎない。「文章は無※[#「隻+隻」、7巻−123−下−6]也」の一句は茶山が傾倒の情を言ひ尽してゐる。傾倒の情|愈《いよ/\》深くして、其|疵病《しびやう》に慊《あきたら》ぬ感も愈切ならざるを得ない。「年すでに三十一、すこし流行におくれたるをのこ、廿前後の人の様に候、はやく年よれかしと奉存候事に候。」其才には牽引せられ、其迹には反撥せられてゐる茶山の心理状態が遺憾なく数句の中に籠められてゐて、人をして親しく老茶山の言《こと》を聴くが如き念を作《な》さしむるのである。
 わたくしは此書を細検して、疑問の人物頼遷が稍明に姿を現し来つたかと思ふ。それは「為人は千蔵よく存ゐ申候」の句を獲たるが故である。千蔵は山陽を熟知してゐる人でなくてはならず、又江戸にゐて蘭軒の問に応じ得る人でなくてはならない。わたくしは其人を求めて、直に遷に想ひ到つた。即ち※[#「くさかんむり/姦」、7巻−124−上−3]斎《かんさい》詩集及長崎紀行に所謂頼遷、字は子善、別号は竹里である。
 然るに載籍に考ふるに、千蔵は頼公遷の通称である。公遷、通称は千蔵別号は養堂として記載せられてゐる。
 是に於て遷即公遷であらうと云ふ木崎好尚さんの説の正しいことが、略《ほゞ》決定したやうに思惟せられる。わたくしは必ずしも頼氏の裔孫の答を待たなくても好ささうである。
 わたくしは姑《しばら》く下《しも》の如くに湊合して見る。「頼公遷、省いて遷とも云ふ、字《あざな》は子善、通称は千蔵、別号は竹里、又養堂。」

     その六十一

 菅茶山の書中には猶其十三庄兵衛と云ふ人物が出てゐる。庄兵衛は茶山の旧僕である。茶山の供をして江戸に往つて蘭軒に識られ、蘭軒が神辺に立ち寄つた日にも、主人に呼ばれて挨拶に出た。書牘《しよどく》は、殆ど作物語の瑣細な人物の落著をも忘れぬ如くに、此庄兵衛の家を成し業を営むに至つたさまをも記してゐる。
 其十四として茶山の言《こと》は所謂《いはゆる》「亡弊弟」に及んでゐる。即ち茶山の季弟|恥庵晋宝信卿《ちあんしんぱうしんけい》、通称は圭二《けいじ》である。茶山の行状等には晋宝が「晋葆」に作つてある。
 茶山は書肆に詩を刻することを許すとき、恥庵の遺稿を附録とすることを条件とした。小原業夫《こはらげふふ》の序にも同じ事が言つてある。「先生曰。我欲刻亡弟信卿遺稿。因循未果。彼若成我之志。則我亦従彼之乞。書肆喜而諾。乃斯集遂上木。附以信卿遺稿。」大抵詩を刻するものは自ら貲《し》を投ずるを例とする。古今東西皆さうである。然るに茶山は条件を附けて刻せしめた。「銭一文もいらず、本仕立御望次第と申候故許し候」と云つてある。其喜は「京師書肆河南儀平損金刊余詩、戯贈」の詩にも見えてゐる。「曾聞書賈黠無比。怪見南翁特地痴。伝奇出像人争購。却損家貲刻悪詩。」小説の善く售《う》れるに比してあるのは妙である。小原も亦云つてゐる。「余嘗聞袁中郎自刻其集。幾売却柳湖荘。衒技求售。誰昔然矣。先生之撰則異之。不自欲而書肆乞之。乞之不已。則知世望斯集。不翅余輩。」誰昔然矣《すゐせきよりしかり》は陳風墓門《ちんぷうぼもん》の章からそつくり取つた句である。爾雅《じが》に「誰昔昔也」と云つてある。
 黄葉夕陽村舎詩が附録恥庵詩文草と共に刻成せられたのは文化九年三月である。此手紙は「ほらせ候積に御座候」と云つてあるとほり、上木《しやうぼく》に決意した当時書かれたもので、小原の序もまだ出来てはゐなかつたのである。
 狩谷氏では此年文化七年に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の女《ぢよ》俊《しゆん》が生れた。後に同齢の柏軒に嫁する女である。伊沢分家の人々は、此|女《ぢよ》の名は初めたかと云つて、後しゆんと更めたと云つてゐる。俊は峻と相通ずる字で、初めたかと訓ませたが、人は音読するので、終に人の呼ぶに任せたのかも知れない。
 多紀氏では此年十二月二日に桂山が歿した。二子の中|柳※[#「さんずい+片」、第3水準1−86−57]《りうはん》は宗家を継ぎ、※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《さいてい》は分家を創した。後に伊沢氏と親交あるに至つたのは此※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭である。
 此年蘭軒は年三十四、妻益は二十八、三子|榛軒棠助《しんけんたうすけ》、常三郎、柏軒鉄三郎は長が七つ、仲が六つ、季が当歳であつた。
 文化八年は蘭軒にやすらかな春を齎した。「辛未早春。除却旧痾身健強。窓風軽暖送梅香。日長添得讐書課。亦奈尋紅拾翠忙。」斗柄《とへい》転じ風物改まつても、蘭軒は依然として校讐《かうしう》の業を続けてゐる。
 此年には※[#「くさかんむり/姦」、7巻−125−下−15]斎詩集に、前の早春の作を併せて、只二首の詩が存してゐるのみである。わたくしは余の一首の詩を見て、堀江|允《いん》と云ふものが江戸から二本松へ赴任したことを知る。允、字は周輔で、蘭軒は餞するに七律一篇を以てした。頷聯に「駅馬行駄※[#「糸+相」、第4水準2−84−41]布帙、書堂新下絳紗帷」と云ふより推せば、堀江は聘せられて学校に往つたのであらう。七八は「祖席詞章尽神品、一天竜雨灑途時」と云ふのである。茶山が「一結難解」と批してゐる。此句はわたくしにもよくは解せられぬが、雨は恐くは夏の雨であらうか。果して然らば堀江の江戸を発したのも夏であつただらう。
 わたくしは又詩集の文化十三年丙子の作を見て、蘭軒が釈混外《しやくこんげ》と交を訂したのは此年であらうと推する。丙子の作は始て混外を見た時の詩で、其引にかう云つてある。「余与混外上人相知五六年於茲。而以病脚在家。未嘗面謁。丙子秋与石田士道、成田成章、太田農人、皆川叔茂同詣寺。得初謁。乃賦一律。」此によつて逆算するに、若し二人が此年に相識つたとすると、辛未より丙子まで数へて、丙子は第六年となるのである。
 混外、名は宥欣《いうきん》、王子金輪寺の住職である。「上人詩素湛深、称今寥可」と、五山堂詩話に云つてある。

     その六十二

 頼氏では此年文化八年の春、山陽が三十二歳で神辺《かんなべ》の塾を逃げ、上方へ奔つた。閏《うるふ》二月十五日に大坂篠崎小竹の家に著き、其紹介状を貰つて小石元瑞を京都に訪うた。次で山陽は帷《ゐ》を新町に下して、京都に土著した。嘗て森田思軒の引いた菅茶山の蘭軒に与ふる書は、此比裁せられたものであらう。当時の状況を察すれば、書に怨※[#「對/心」、第4水準2−12−80]《ゑんたい》の語多きは怪むことを須《もち》ゐない。しかし山陽の諸友は逃亡の善後策を講じて、略《ほゞ》遺算なきことを得た。五月には叔父春風が京都の新居を見に往つた。山陽が歳暮の詩に「一出郷国歳再除」と云つたのは、庚午の除夜を神辺で、辛未の除夜を京都で過すと云ふ意である。「一出郷国歳再除。慈親消息定何如。京城風雪無人伴。独剔寒燈夜読書。」
 わたくしは此年十二月十日に尾藤二洲が病を以て昌平黌の職を罷めたことを記して置きたい。当時頼春水の寄せた詩に、「移住林泉新賜第、擬成猿鶴旧棲山」の一聯がある。賜第《してい》は壱岐坂にあつた。これは次年の菅茶山の手紙の考証に資せむがために記して置くのである。
 此年蘭軒は三十五歳、妻益は二十九歳、榛軒は八歳、常三郎は七歳、柏軒は二歳であつた。
 文化九年は蘭軒がために何か例に違《たが》つた事のあつたらしい年である。何故かと云ふに、※[#「くさかんむり/姦」、7巻−127−上−13]斎《かんさい》詩集に壬申の詩が一首だに載せて無い。
 わたくしは先づ蘭軒が病んだのではないかと疑つた。しかし勤向覚書を見るに、春より夏に至るまで、阿部家に於ける職務をば闕いてゐなかつたらしい。わたくしは姑《しばら》く未解決のままに此疑問を保留して置く。
 正月二日に蘭軒の二女が生れて、八日に夭した。先霊名録に第二女として智貌童子の戒名が書してある。童子が童女の誤であるべきことは既に云つた。頃日《このごろ》聞く所に拠れば、夭折した長女は天津《てつ》で、次が此女であつたさうである。
 勤向覚書に此一件の記事がある。「正月二日卯上刻妻出産仕、女子出生仕候間、御定式之通、血忌引仕候段御達申上候。同月四日血忌引御免被仰付候旨、山岡治左衛門殿被仰渡候。翌五日御番入仕候。同月八日此間出生仕候娘病気之処、養生不相叶申上刻死去仕候、七歳未満に付、御定式之通、三日之遠慮引仕候段御達申上候。同月十一日御番入仕候。」
 五月に蘭軒が阿部家の職に服してゐた証に充つべき覚書の文は下《しも》の如くである。「五月九日永井栄安、成田玄良、岡西栄玄、私、右四人丸山御殿え夜分一人づゝ泊り被仰付候段、御用番町野平助殿被仰渡候。」蘭軒の門人録に成田良純、後竜玄がある。玄良は其父か。岡西栄玄は蘭軒の門人玄亭と渋江抽斎の妻徳との父である。
 秋に入つて七月十一日に飯田休庵信方が歿した。先霊名録に「寂照軒勇機鉄心居士、(中略)墓在西窪青竜寺」と記してある。即ち蘭軒の外舅《ぐわいきう》である。家は杏庵が襲いだ。伊勢国|薦野《こもの》の人、黒沢退蔵の子で、休庵の長女の婿となつた。蘭軒の妻益は休庵の二女であつた。
 休庵は豊後国大野郡岡の城主中川修理大夫|久貴《ひさたか》の侍医であつた。平生歌道を好んで、教を冷泉家に受けた。上にも云つた如く、恐くは為泰入道等覚《ためやすにふだうとうがく》の門人であつたのだらう。伊沢分家所蔵の源氏物語に下《しも》の如き奥書がある。「右源氏物語三十冊、外祖父寂照軒翁之冷泉家之御伝授受、書入れ給之本也、伊沢氏。」
 頼氏では此年春水が六十七歳になつた。「明君能憐我、※[#「月+無」、7巻−128−下−2]養上仙班、(中略)如此二十載、光陰指一弾」の二十は恐くは三十ではなからうか。安永九年に浅野家に召し出されてから三十三年、広島の邸を賜つてから二十四年になつてゐる筈である。
 此年蘭軒は年三十六、妻益は三十、長子榛軒は九つ、常三郎は八つ、柏軒は三つであつた。

     その六十三

 文化十年には蘭軒が正月に頭風《づふう》を患《うれ》へたことが勤向覚書に見えてゐる。「正月十日私儀頭風相煩候に付、引込保養仕候段御達申上候」と云つてある。
 しかし病は甚だ重くはなかつたらしい。詩集に「癸酉早春、飜刻宋本国策、新帰架蔵、喜賦」として二絶が載せてある。奇書を獲た喜が楮表《ちよへう》に溢れてゐて、其意気の旺なること病褥中の人の如くでは無い。「宏格濶欄箋潔白。学顔字画勢遒超。呉門好事黄蕘圃。一様影摸紹興雕。」「世間謾道善蔵書。纔入市門得五車。我輩架頭半奇籍。窃思秘閣近何如。」茶山の評に「寇準事々欲抗朕」と云つてある。句々蘭軒にあらでは言ふこと能はざる所で、茶山の一謔も亦頗る妙である。
 経籍訪古志に「戦国策三十三巻、清刊覆宋本、漢高誘註、清嘉慶中黄丕烈依宋木重刊、末附考異」としてある。或は此本であらうか。しかし酌源堂蔵の註を闕いでゐる。
 二月に入つても、蘭軒は猶病後の人であつた
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