二日附である。下《しも》に「翌廿三日出勤番入仕候」と書き足してある。今届と云ふ代に、当時|達《たつし》と云つたものと見える。
夏は蘭軒が健《すこやか》に過したことだけが知れてゐる。「夏日過両国橋。涼歩其如熱閙何。満川強半妓船多。関東第一絃歌海。吾亦昔年漫踏過。」素直に聞けば、余りに早く老いたのを怪みたくなる。しかし素直に聞かずには置きにくい詩である。三十四歳の蘭軒をして此語をなさしめたものは、恐くは其足疾であらうか。
秋になつて八月の末に、菅茶山が蘭軒に長い手紙を寄せた。此|簡牘《かんどく》は伊沢信平さんがわたくしに借してくれた二通の中の一つで、他の一つは此より後十四年、文政八年十二月十一日に裁せられたものである。わたくしは此二通を借り受けた時、些《ちと》の遅疑することもなく其年次を考ふることを得て、大いにこれを快とし、直に記して信平さんに報じて置いた。今先づ此年八月二十八日の書を下に写し出すこととしよう。
その五十八
茶山が文化七年八月二十八日に蘭軒に与へた書は下《しも》の如くである。
「御病気いかが。死なぬ病と承候故、念慮にも不掛《かけず》と申程に御座候ひき。今比は御全快奉察候。」
「中秋は十四日より雨ふり、十五日夜九つ過には雨やみ候へども、月の顔は見えず、十六日は快晴也。然るに中秋半夜の後松永尾道は清光無翳と申程に候よし。松永は纔《わづか》四里許の所也。さほどの違はいかなる事にや。蘇子由《そしいう》は中秋万里同陰晴など申候。むかしより試もいたさぬ物に候。此中秋(承候処周防長門清光)松永四里之処にては余り之違に御座候。(其後承候に半夜より清光には違なし。奇と云べし。)海東二千里|定而《さだめて》又かはり候事と奉存候。御賞詠いかゞ、高作等承度候。」
「木王園《もくわうゑん》主人時々御陪遊被成候哉。石田巳之介|蠣崎《かきざき》君などいかが、御出会被成候はば宜奉願上候。」
「特筆。」
「津軽屋|如何《いかゞ》。春来は不快とやら承候。これも死なぬ疾《やまひ》にもや候覧《さふらふらむ》。何様宜奉願上候。市野翁いかが。」
「去年申上候|塙書之事《はなはしよのこと》大事之事也。ねがはくは御帰城之便に二三巻|宛《づゝ》四五人へ御託し被下候慥に届可申候。必々奉願上候。」
「長崎徳見茂四郎西湖之柳を約束いたし候。必々無間違贈候様、それよりも御声がかり奉願上候。」
「此辺なにもかはりなく候。あぶらや本介《もとすけ》も同様也。久しく逢不申候。福山|辺《へんより》長崎へ参候輩も皆々無事也。其うち保平《やすへい》と申は悼亡のいたみ御座候。玄間は御医者になり威焔赫々。私方養介も二年煩ひ、去年|漸《やうやく》起立、豊後へ入湯道中にて落馬、やうやく生て還候。かくては志も不遂《とげず》、医になると申候。」
「私方へ頼久太郎と申を、寺の後住《ごぢゆう》と申やうなるもの、養子にてもなしに引うけ候。文章は無※[#「隻+隻」、7巻−118−下−3]也。為人《ひととなり》は千蔵よく存ゐ申候。年すでに三十一、すこし流行におくれたをのこ、廿前後の人の様に候。はやく年よれかしと奉存候事に候。」
「庄兵衛も店を出し油かみなどうり候。妻をむかへ子も出来申候。此中《このちゆう》も逢候へば辞安様はいかがと申ゐ候。」
「詩を板にさせぬかと書物屋乞候故、亡※[#「敝/犬」、7巻−118−下−10]弟《ばうへいてい》が集一巻あまりあり、これをそへてほらばほらせんと申候所、いかにもそへてほらんと申候故、ほらせ候積に御座候。幽霊はくらがりにおかねばならぬもの、あかりへ出したらば醜態呈露一笑の資と存候。銭一文もいらず本仕立は望次第と申候故許し候。さても可申上こと多し。これにて書とどめ申候。恐惶謹言。八月廿八日|菅太中晋帥《くわんたいちゆうしんすゐ》。伊沢辞安様。」
「まちまちし秋の半も杉の門《かど》をぐらきそらに山風ぞふく。これは旧作也。此|比《ころ》の事ゆゑ書候。」
以上が長さ三尺|許《ばかり》の黄色を帯びた半紙の巻紙に書いた手紙の全文である。此手紙の内容は頗豊富である。そしてそれが種々の方面に光明を投射する。わたくしはその全文を公にすることの徒為《とゐ》にあらざるを信ずる。
最初に茶山は地の相|距《さ》ること遠からずして、気象の相殊なる例を挙げてゐる。此年の中秋には、神辺は初《はじめ》雨後陰であつた。松永尾の道は半夜後晴であつた。周防長門も晴であつた。松永は神辺を距ること四里に過ぎぬに、早く既に陰晴を殊にしてゐた。茶山は宋人《そうひと》の中秋の月四海陰晴を同じくすと云ふ説を反駁したのである。茶山は後六年文化十三年丙子に至つて、此庚午の観察を反復し、その得たる所を「筆のすさび」に記した。丙子の中秋は備中神辺は晴であつた。備前の中で尻海《しりうみ》は陰であつた。岡山は初晴後陰、北方は初陰後晴であつた。讃岐は陰、筑前は晴であつた。播磨は陰、摂津(須磨)は晴、山城(京都)は陰、大和(吉野)は大風、伊勢は風雨、参河《みかは》(岡崎)は雨であつた。観察の範囲は一層拡大せられて、旧説の妄は愈《いよ/\》明になつた。「常年もかかるべけれども、今年はじめて心づきてしるすなり」と、茶山は書してゐる。しかし茶山は丙子の年に始て心づいたのではない。五六年間心に掛けてゐて反復観察し、丙子の年に至つて始てこれを書に筆したのである。わたくしは少時井沢長秀の俗説辨《ぞくせつべん》を愛して、九州にゐた時其墓を訪うたことがある。茶山の此説の如きも、亦俗説辨を補ふべきものである。
その五十九
庚午|旺秋《わうしう》の茶山の尺牘《せきどく》には種々の人の名が見えてゐる。皆蘭軒の識る所にして又茶山の識る所である。
其一は木王園《もくわうゑん》主人である。上《かみ》に云つた犬塚|印南《いんなん》で、此年六十一歳、蘭軒は長者として遇してゐた。茶山もこれを詳《つまびらか》にしてゐて、一|陪字《ばいじ》を下してゐる。頃日《このごろ》市河三陽さんが印南の事は「雲室随筆」を参照するが好いと教へてくれた。
釈雲室《しやくうんしつ》の記する所を見れば、印南がいかなる時に籍を昌平黌に置いたかと云ふことがわかる。祭酒林家は羅山より鵞峰、鳳岡《ほうかう》、快堂、鳳谷、竜潭、鳳潭の七世にして血脈が絶えた。八世錦峰信敬は富田能登守の二男で、始て林家へ養子にはいつた。市河寛斎は林家の旧学頭|関松※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]《せきしようそう》の門人にして、又新祭酒錦峰の師であつたので、学頭に挙げられた。聖堂は寛斎、八代巣河岸《やよすがし》は松※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]を学頭とすることとなつたのである。印南は此時代に酒井|雅楽頭忠以《うたのかみたゞざね》浪人結城唯助として入塾した。これが田沼|主殿頭意知《とのものかみおきとも》執政の間の聖堂である。松※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]は意知に信任せられて聖堂の実権を握つてゐた。錦峰の実家富田氏は柳原松井町に住んでゐた七千石の旗下であつた。
尋で田沼意知が死んで、楽翁公松平越中守定信の執政の世となつた。柴野|栗山《りつざん》、岡田寒泉が擢用せられ、松※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]は免職離門の上虎の門外に住み、寛斎も亦罷官の上浅草に住んだ。聖堂は安原三吾、八代巣河岸は平沢旭山が預つた。然るに未だ幾《いくばく》ならずして祭酒錦峰が歿し、美濃国岩村の城主松平能登守乗保の子熊蔵が養子にせられた。所謂《いはゆる》蕉隠公子《せういんこうし》で、これが林家九世述斎|乗衡《のりひら》となつた。安原平沢両学頭は罷められて、安原は向柳原の藤堂佐渡守|高矗《たかのぶ》が屋敷に移り、平沢はお玉が池に移つた。聖堂は平井澹所と印南とに預けられ、八代巣河岸は鈴木作右衛門に預けられた。後聖堂八代巣河岸、皆学頭を置くことを廃められて新に簡抜せられた尾藤二洲、古賀精里が聖堂にあつて事を視たと云ふのである。
安原三吾と鈴木作右衛門とは稍《やゝ》晦《くら》い人物である。市河三陽さんは寛斎漫稿の安原|希曾《きそう》、安原|省叔《せいしゆく》及|上《かみ》に見えた三吾を同一人とすると、名は希曾、字《あざな》は省叔、通称は三吾となる筈だと云つてゐる。又同書の鈴木|徳輔《とくほ》は或は即作右衛門ではなからうかと云つてゐる。鈴木が後に片瀬氏に更めたことは雲室随筆に註してある。
此に由つて観れば印南は犬塚、青木、結城、犬塚と四たび其氏を更めたと見える。又昌平黌に於ける進退出処も略《ほゞ》窺ひ知ることが出来る。官を罷めた後の生活は前に云つたとほりである。
其二は石田巳之助である。茶山蘭軒二家の集に石田|道《だう》、字は士道、別号は梧堂と云つてあるのは、或は此人ではなからうか。
其三は蠣崎《かきざき》氏で、所謂《いはゆる》源波響《げんはきやう》である。此年四十一歳であつた。
其四の津軽屋は狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎である。「春来不快とやら」と云つてある。此年三十六歳であつた。
其五の市野翁は迷庵である。此年四十六歳であつた。
其六の塙《はなは》は保己《ほき》一である。此年六十五歳であつた。茶山は群書類従の配附を受けてゐたと見える。阿部侯「御帰城の便に二三巻宛四五人へ御託し被下候はば慥に届可申候」と云つてゐる。
其七の徳見茂四郎は或は※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂《じんだう》若くは其族人ではなからうか。長崎にある津田繁二さんは徳見氏の塋域《えいゐき》二箇所を歴訪したが、名字号等を彫《ゑ》らず、皆単に宗淳、伝助等の称を彫つてあるので、これを詳にすることが出来なかつた。只天保十二年に歿した昌八郎光芳と云ふものがあつて、偶《たま/\》※[#「言+仞のつくり」、第3水準1−91−93]堂の諱《いみな》を通称としてゐたのみである。徳見茂四郎は長崎から西湖の柳を茶山に送ることを約して置きながら、久しく約を果さなかつた。そこで蘭軒に、長崎へ文通するとき催促してくれいと頼んだのである。
其八の「あぶらや本介」は即ち油元助《ゆげんじよ》である。其九其十の保平、玄間は未だ考へない。保平はことさらに「やすへい」と傍訓が施してある。妻などを喪つたものか。未だ其人を考へない。玄間は三沢氏で阿部家の医官であつた。「御医者」になつて息張《いば》ると云ふのは、町医から阿部家に召し抱へられたものか。
其十一の「養介」は茶山の行状に所謂要助万年であらう。わたくしは蘭軒が紀行に養助と書したのを見て、誤であらうと云つた。しかし茶山も自ら養に作つてゐる。既に油屋の元助を本介に作つてゐる如く、拘せざるの致す所である。容易に是非を説くべきでは無い。果して伯父茶山の言ふ所の如くならば、万年の否運は笑止千万であつた。
茶山の書牘《しよどく》は此より山陽の噂に入るのである。
その六十
菅茶山が蘭軒に与へた庚午の書には、人物の其十二として山陽が出てゐる。
茶山は此書に於て神辺に来た山陽を説いてゐる。彼の神辺を去つた山陽を説いた同じ人の書は、嘗て森田思軒の引用する所となつて、今所在を知らぬのである。二書は皆蘭軒に向つて説いたものであるが、初の書は猶伊沢氏宗家の筐中に留まり、後の書は曾て高橋太華の手を経て一たび思軒の有に帰したのである。
此書に於ける茶山の口気は、恰も蘭軒に未知の人を紹介するものゝ如くである。「頼久太郎と申を」の句は、人をして曾て山陽の名が茶山蘭軒二家の話頭に上らなかつたことを想はしむるのである。蘭軒は屡《しば/″\》茶山に逢ひながら、何故に一語の夙縁《しゆくえん》ある山陽に及ぶものが無かつただらうか。これは前にも云つた如く、蘭軒が未だ山陽に重きを置かなかつた故だとも考へられ、又江戸に於ける山陽の淪落的生活が、好意を以て隠蔽せられた故だとも考へられる。
神辺に於ける山陽の資格は「寺の後住と申やうなるもの」と云つてある。茶山が春水に交渉した書には「閭塾《りよじゆく》附属」と云ひ、春水が
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