福山にあつて大目附を勤めてゐたのである。
第七は侯の医官三沢玄間である。書に「学屈原候こといかなるわけに候哉」と云つてある。これはどうしたと云ふのであらうか。水に赴いて死したのであらうか。玄間は俗医にして処世の才|饒《おほ》き人物であつたらしい。初め町医より召し出された時、茶山はこれを蘭軒に報じて、その人に傲《おご》る状を告げた。今其末路を聞くに及んで、「国に居候時も阿堵に不埒多きをのこ、定而其事なるべし」と云つてゐる。しかし茶山が哀矜《あいきよう》の情は、其論賛に仮借の余地あらしむることを得た。「しかし何処へ行ても一あてはあてるをのこ(中略)可惜ことに候。」
第八は亀田鵬斎である。当時既に中風の諸証に悩されてゐた。「ながき事有之まじく候よし気之毒に候。」茶山は鵬斎の焼塩を嗜《たし》むことを知つてゐて、便《たより》を待つて送らうとおもつてゐた。しかし蘭軒の病状を報ずるに及んで躊躇した。「さ候へば却而邪魔ものなるべし。」
想ふに茶山は鵬斎死期の近かるべきを聞いてゐて、妙々奇談中鵬斎を刺《そし》る段を読み、「気之毒」の情は一層の深きを加へたことであらう。譏刺《きし》は立言者《りつげんしや》の免れざる所である。死に瀕する日と雖も、これを免るることは出来ない。
蘭軒の予後は重きに失した。鵬斎は余命を保つこと猶一年半|許《きよ》にして、丙戌の暮春に終つた。此時七十三歳で、歿した時は七十五歳であつた。
第九は木村|定良《さだよし》、第十は石田梧堂、第十一は金輪寺混外《こんりんじこんげ》で、皆茶山が蘭軒をして語を致さしめた人々である。中に就いて木村は茶山が甲戌乙亥の遊に相見ることを得なかつたために、茶山は今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》るまで憾《うらみ》とすると云つてゐる。
第十二第十三は蘭軒の三子柏軒と茶山の養嗣子|菅《くわん》三|惟繩《ゐじよう》とである。蘭軒は柏軒の詩を茶山に寄示《きし》した。茶山はこれを称《ほ》めて、菅三の詩の未だ工《たくみ》ならざることを言つた。書に「菅三も十五になり候」と云つてある。然らば惟繩は文化七年の生であらう。敬は霞亭に嫁する五六年前に、とらと其姉妹との異父兄惟繩を生んだのである。
その百六十
菅茶山の此年文政七年旺秋後の書牘中、わたくしの註せむと欲する所は概ね既に云つた如くである。しかし猶茶山の蘭軒に送つた詩集の事が遺つてゐる。「よほど前に大坂飛脚に出し候」と云ふ詩集が久しく蘭軒の許《もと》に届《いた》らなかつた。
按ずるに是は「黄葉夕陽村舎詩後編」である。此書には「庚辰孟夏日」の武元君立《たけもとくんりつ》の書後、「辛巳十二月」の北条霞亭の序がある。辛巳は霞亭の江戸に入つた年である。わたくしは前に辛巳五月二十六日に茶山が霞亭に与へた書の断片を引いて、「先右序文いそぎ此事のみ申上候」とある序文は何の序文なるを詳《つまびらか》にせぬと云つたが、今にして思へば茶山が詩集後篇の序文を霞亭に求めたことは、復《また》疑ふことを須《もち》ゐない。既にして詩集後編は発行せられた。其奥附には「文政六年歳次癸未冬十一月刻成」と記してある。校閲は庚辰に終り、序文は辛巳に成り、剞※[#「厥+りっとう」、第4水準2−3−30]《きけつ》は癸未に終つた。その市に上つたのは恐くは甲申の春であらう。茶山は当時|直《たゞち》に一部を蘭軒に寄せたのに、其書が久しく届かずにゐたのである。
詩集の事よりして外、わたくしは今一つ此に附記して置きたい。それは茶山の病の事である。行状に拠るに茶山は「※[#「口+鬲」、第4水準2−4−23]噎」を病んで歿した。当時病牀に侍した人の記録は、一としてわたくしの目に触れぬから、わたくしは明確に茶山の病名を指定することは出来ない。しかし推するに茶山は食道癌若くは胃癌に罹つて歿したのであらう。
わたくしの附記して置きたいのは、茶山の病が独り此|消食管《せうしよくくわん》の壅塞《ようそく》即《すなはち》所謂《いはゆる》※[#「口+鬲」、第4水準2−4−23]噎《かくえつ》のみではなかつたと云ふことである。わたくしは上《かみ》の甲申旺秋後の茶山の書牘を引くに当つて、其全文を写し出した。しかし彼書牘には尚傍註の一句があつた。そしてそれが括弧内にも収め難いものであつた。茶山は病める鵬斎に焼塩を送らむと欲して、その病の篤きを聞いて躊躇した。「さ候へば却而邪魔ものなるべし。」此「而」の字の中の縦線二条が右辺《いうへん》に逸出《いつしゆつ》してゐる。茶山は「而」の字より横に一線を劃して一句を註した。「この而のか様になり候様に引つける也。」乃《すなは》ち知る、茶山は上肢に痙攣を起すことがあつたのである。是は恐くは消食管壅塞の病に聯繋した徴候ではなからう。恐くは別の病証であらう。専門臨床家の説が叩きたいものである。
わたくしは上《かみ》に此年の北条霞亭一週忌の事を言つた。江戸に於ては蘭軒や柴山某等が巣鴨真性寺の墓に詣で、神辺に於ては茶山が月下に思を墓畔の宿草《しゆくさう》に馳せた。わたくしは既に甲戌に茶山の江戸に入つたことを言つて、其留守居の霞亭なりしことに及んだ。霞亭を説くこと一たびである。次に辛巳に霞亭の江戸に入つたことを言つた。霞亭を説くこと二たびである。次に癸未に霞亭の歿したことを言つた。霞亭を説くこと三たびである。今其一週忌に当つて、又霞亭の事を言ふ。即ちこれを説くこと四たびである。そして料《はか》らずも其一女の名を発見することを得た。
しかし諸友はわたくしのために霞亭の遺事を捜索して未だ已まない。わたくしは読者に寛宥《くわんいう》を乞うて、下《しも》に少しく諸友の告ぐる所を追記しようとおもふ。
その百六十一
わたくしは此年文政七年の北条霞亭一週忌の事を言つた。そして新に得たる史料に拠つて、霞亭の遺事を其後に追記しようとおもふ。史料とは何であるか。その最も重要なるものは第一、「北条譲四郎由緒書」である。是は浜野知三郎さんが阿部家の記録に就いて抄写して示した。次は第二、「楝軒詩集」である。是は福田禄太郎さんが写して贈つた。最後に第三、嚢里《なうり》に関する故旧の談話である、是も亦浜野氏の教ふる所である。
霞亭|解褐《かいかつ》の年は、わたくしは岡本花亭の尺牘に本づいて辛巳となした。花亭は壬午九月四日に「去年福山侯の聘に応じ解褐候」と云つてゐる。
しかし花亭の語は詳《つまびらか》でなかつた。由緒書に徴するに、「文政二卯四月十七日五人扶持被下置、折々弘道館へ出席致世話候様」と云つてある。山陽の「福山藩給俸五口、時召説書」と書したのが是である。花亭は解褐の年即|東徙《とうし》の年となしてゐたが、実は解褐の東徙に先《さきだ》つこと二年であつた。霞亭は己卯四十歳にして既に阿部家の禄を食《は》んだ。
次は霞亭東命の月日である。わたくしは菅茶山の辛巳五月二十六日の書柬に本づいて、霞亭が此年の春杪《しゆんせう》夏初《かしよ》に江戸に入つたものとした。
此推測には大過は無かつた。由緒書に徴するに、「同(文政)四巳四月十三日御用出府、同年六月七日暫御差留、同日丸山学問所へ罷出、講釈其外書生取立、御儒者と申合候様、同月十三日三十人扶持被下置、大目附格御儒者被召出、同日奥詰出府之所在番」と云つてある。山陽の「尋特召之東邸、給三十口、准大監察」と書したのが是である。
按ずるに四月十三日は藩の東役を命じた日であらう。そして六月七日の「暫御差留」が入府直後の処置ではなからうか。然らばわたくしの推定は大過は無かつたと云ふものの、猶詳なることを得なかつた。霞亭の入府は恐くは六月の初であつただらう。夏初ではなくて季夏《きか》の初であつただらう。
霞亭は夏初には猶備後にゐたらしい。わたくしは楝軒《れんけん》詩集に拠つて此の如くに断ずる。楝軒は浅川氏、名は勝周《しようしう》、字《あざな》は士※[#「木+貞」、第3水準1−85−88]《してい》、通称は登治右衛門《とぢゑもん》、茶山の集に累見せる「浅川」である。
楝軒詩集は五巻ある。其|巻《けんの》四辛巳の詩中に、「送霞亭北条先生応召赴東都」の七律がある。そして「特招元有光輝在、莫為啼鵑思故園」は其七八である。此詩の前には水晶花《すゐしやうくわ》の詩がある。水晶花は卯花《うのはな》であらう。卯花と云ひ、郭公《ほとゝぎす》と云ふは、皆夏の節物《せつぶつ》である。霞亭は夏に入つて猶福山にゐたのである。
しかし此差は猶小い。わたくしは別に大いに誤つたことがある。それは霞亭が東に召された時初より孥《ど》を将《ひきゐ》て徙《うつ》つたとなした事である。実は霞亭は初め単身入府し、尋で一旦帰藩し、更に孥を将て東徙した。此事は夙《はや》く浜野氏が親くわたくしに語つた。若しわたくしが精《くは》しく山陽の文を読んだなら、此の如き誤をばなさなかつたであらう。山陽は「尋特召之東邸、給三十口、准大監察、将孥東徙、居丸山邸舎」と書してゐる。東に召すと東に徙るとは分明に二|截《せつ》をなしてゐる。わたくしの読むことが精しくなかつたと謂はなくてはならない。
由緒書に徴するに、「同年(文政四年辛巳)八月九日江戸引越」と云つてある。
その百六十二
北条霞亭は辛巳の歳に東に召された時、初は単身入府し、後更に孥《ど》を将《ひきゐ》て徙《うつ》つた。前の江戸行は四月十三日に命ぜられて、六月の初に江戸に著したらしい。後の江戸行は由緒書に「八月九日江戸引越」と記してある。
所謂江戸引越は霞亭が江戸に留つてゐて、妻孥を備後より迎へ取つたのでなく、霞亭は自ら往いて妻孥を迎へたのである。其明証は楝軒《れんけん》詩集にある。
浅川楝軒は初め霞亭が召されて東に之《ゆ》く時、上《かみ》に引いた七律を作つて其行を送つた。尋で秋に入つてから、詩を霞亭に寄せた。即ち「奉寄北条先生」の七律で、其第二句に「秋気満庭虫乱鳴」と云つてある。霞亭が妻孥を迎へに備後に帰つた日、細《こまか》に言へば帰り著いた日は秋に入つた後でなくてはならない。
さて霞亭が再び備後を発するに当つて、楝軒は詩二篇を賦した。一は七古で、「奉送霞亭北条先生携家赴東都邸」と題し、一は七絶で、「五日木犀舎席上別霞亭先生」と題してある。
霞亭の自ら備後に往つて妻孥を迎へたことは、此二篇の存在が既にこれを証してゐる。しかし啻《たゞ》にそれのみではない。七古の中に「来携妻孥乍復東」の句がある。又次の年壬午の「春日書事、次霞亭先生丸山雑題韻五首」の七律第二首が「憶昔両回馬首東」を以て起《おこ》つてゐる。霞亭|親迎《しんげい》の証拠は十分だと謂つて好からう。
わたくしは進んで江戸引越の月日を明《あきらか》にしたい。由緒書に「八月九日引越」といふのは、何の日であらうか。楝軒の詩題に「五日木犀舎席上別霞亭先生」と云ふのは、何月五日であらうか。
今仮に八月九日を以て、霞亭一家の江戸に著した日だとすると、木犀舎|祖筵《そえん》の五日は辛巳七月五日でなくてはならない。そして彼楝軒が霞亭に寄せた「秋気満庭虫乱鳴」の詩は、七月朔より五日に至る間に成つて発送せられたものでなくてはならない。木犀舎は山岡氏の家で、今の阿部伯の家令岡田|吉顕《よしあき》さんの姻家ださうである。
只此に一の疑問がある。それは上《かみ》の「来携妻孥乍復東」の詩の題下に、「十月五日」の細註が下《くだ》してあることである。しかし上の仮定が誤らぬとすると、十月は霞亭の備後を去つた後となる。福田氏の抄本を見るに、「十月」の傍《かたはら》に「原書のまま」と註してある。按ずるに福田氏も亦此「十」字に疑を挾《さしはさ》んでゐるらしい。
記《き》して此に至つた時、わたくしは的矢の北条氏所蔵の霞亭尺牘一|篋《けふ》を借ることを得た。思ふにわたくしは今よりこれを検して、他日幾多の訂正をしなくてはなるまい。わたくしは此に先づ一の大いなる錯誤を匡《たゞ》して置く。それは偶《たま/\》篋中より抽《ぬ》き出した一通が、わたくしをして嚢里《なう
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