口+敢」、第3水準1−15−19]《くら》つて、此より時々《じゞ》忠行をして製せしめた。天正十八年八月に家康は江戸に入つて、用水の匱《とぼ》しきを憂へ、忠行に諮《はか》つた。忠行乃ち仁治中北条泰時の故智を襲いで、多摩川の水を引くことを策した。今の多摩川上水が是である。此時家康は忠行に主水の称を与へたと云ふことである。以上は君臣略伝の伝ふる所である。
 此より後主水忠行はどうなつたか、文献には所見が無い。然るに蘭軒の孫女《まごむすめ》の曾能《その》さんの聞く所に従へば、忠行が引水の策を献じた後十年、慶長五年に関が原の戦があつた。忠行は此役に参加して膝頭に鉄砲創を受け、廃人となつた。そこで事|平《たひら》ぐ後家康の許を蒙つて菓子師となつたさうである。
 わたくしは此説を聞いて、さもあるべき事と思つた。素《もと》大久保氏には世《よゝ》経済の才があつた。大永四年に家康の祖父岡崎次郎三郎清康が、忠行の父忠茂の謀を用ゐて、松平弾正左衛門信貞入道昌安の兵を破り、昌安の女婿となつて岡崎城に入つた時、忠茂は岡崎市の小物成《こものなり》を申し受け、さて毫釐《がうりん》も徴求せずにゐた。これが岡崎の殷富を致した基だと云ふ。忠茂の血と倶に忠茂の経済思想を承けた忠行が、曾て引水の策を献じ、終《つひ》に商賈《しやうこ》となつたのは、※[#「鷂のへん+系」、第3水準1−90−20]《よ》つて来る所があると謂つて好からう。
 忠行の子孫は、今川橋の南を東に折れた本白銀町《ほんしろかねちやう》四丁目に菓子店を開いてゐて、江戸城に菓子を調進した。今川橋の南より東へ延びてゐる河岸通に、主水河岸の称があるのは、此家あるがためである。後年武鑑に用達《ようたし》商人の名を載せはじめてより以来、山形の徽章の下に大久保主水の名は曾《かつ》て闕《か》けてゐたことが無い。
 宗家伊沢の二世信政の外舅《しうと》となつた主水|元苗《もとたね》は、忠行より第幾世に当るか、わたくしは今これを詳《つまびらか》にしない。しかし既に真志屋西村、金沢屋増田の系譜を見ることを得た如くに、他日或は大久保主水の家世を知る機会を得るかも知れない。
 信政の妻大久保氏伊佐の腹に二子一女があつた。二子は信栄《のぶなが》と云ひ、金十郎と云ふ。一女の名は曾能《その》である。
 信政の嫡男信栄は年齢を詳にせぬが、前後の事情より推するに、信政は早く隠居して、家を信栄に譲つたらしい。仮に信政が五十歳で隠居したとすると、信栄の家督相続は宝暦十一年でなくてはならない。
 三世信栄は短命であつたらしい。明和五年八月二十八日に父信政に先《さきだ》つて歿し、長谷寺に葬られた。法諡《はふし》を万昌軒久山常栄信士と云ふ。信政は時に年五十七であつた。
 信栄は合智《がふち》氏を娶《めと》つて、二子を生ませた。長が信美《のぶよし》、字《あざな》は文誠、法名称仙軒、季《き》が鎌吉である。信栄の歿した時、信美は猶|幼《いとけな》かつたので、信美の祖父信政は信栄の妹曾能に婿を取り、所謂《いはゆる》中継として信栄の後を承《う》けしめた。此女婿が信階《のぶしな》である。

     その九

 宗家伊沢の四世は信階である。字は大升、別号は隆升軒、小字《をさなな》は門次郎、長じて元安と称し、後長安と改めた。門次郎は近江国の人、武蔵国埼玉郡越谷住井出権蔵の子である。権蔵は法諡《はふし》を四時軒自性如春居士と云つて、天明四年正月十一日に歿した。其妻即信階の母は善室英証大姉と云つて、明和五年五月十三日に歿した。信栄《のぶなが》の死に先《さきだ》つこと僅に百零三日である。
 先代信栄の歿した時、嫡子|信美《のぶよし》が幼《いとけな》かつたので、隠居信政は井出氏門次郎を養つて子とした。信政は門次郎に妻《めあは》するに信栄の妹|曾能《その》を以てしようとして、心私《こゝろひそか》にこれを憚つた。曾能の容貌が美しくなかつたからである。偶《たま/\》識る所の家に美少女があつたので、信政は門次郎にこれを娶《めと》らむことを勧めた。門次郎は容《かたち》を改めて云つた。「わたくしを当家の御養子となされたのは伊沢の祀《まつり》を絶たぬやうにとの思召でござりませう。それにはせめて女子の血統なりとも続くやうに、お取計なさりたいと存じます。わたくしは美女を妻に迎へようとは存じも寄りませぬ」と云つた。此時信階は二十五歳、曾能は十九歳であつた。曾能は遂に信階の妻となつた。
 惟《おも》ふに信階は修養あり操持ある人物であつたらしい。伝ふる所に拠れば、信階は武于竜《ぶうりう》の門人であつたと云ふ。わたくしは武于竜と云ふ儒家を知らない。或は武梅竜《ぶばいりう》ではなからうか。
 武梅竜初の名は篠田|維嶽《ゐがく》、美濃の人である。しかし其郷里の詳《つまびらか》なるを知らない。後藤松陰が「或云高須人、或云竹鼻人」と記してゐる。伊藤東涯の門人である。享保元年生の維嶽が二十一歳になつた元文元年に、東涯は歿した。そこで維嶽は宇野明霞の門に入り、名を亮《りやう》、字を士明と改めた。既にして亮が三十歳になつた延享二年に、又明霞が歿した。亮は後名を欽※[#「鷂のへん+系」、第3水準1−90−20]《きんいう》、字を聖謨《せいぼ》と改めて自ら梅竜と号した。その武と云ふは祖先が武田氏であつたからである。梅竜は妙法院|堯恭《たかやす》法親王の侍読にせられた。
 梅竜は仁斎学派より明霞の折衷学派に入り、同く明霞に学んだ赤松|国鸞《こくらん》が、「不唯典刑之存、其言之似夫子、使人感喜交併」と云つた如く、其師の感化を受くること太《はなは》だ深かつたものと見える。明霞の生涯妻妾を置かなかつた気象が、梅竜を経て美妻を斥《しりぞ》けた信階に伝へられたとも考へられよう。
 梅竜は明和三年に五十一歳で歿した。信階は此時二十三歳で、中一年を隔てて伊沢氏の養子となつたのである。信階が武氏に学んだ時、同門に豊後国大野郡岡の城主中川修理大夫久貞の医師飯田休庵|信方《のぶかた》がゐた。休庵は信階の同出《どうしゆつ》の姉井出氏を娶つたが、井出氏は明和七年七月三日に歿したので、水越氏|民《たみ》を納《い》れて継室とした。休庵は後に蘭軒の外舅《しうと》になるのである。
 信階《のぶしな》の家督相続は猶摂主の如きものであつた。先代|信栄《のぶなが》の子|信美《のぶよし》が長ずるに及んで、信階はこれに家を譲つた。此更迭は何年であつたか記載を闕いでゐるが、安永六年前であつたことは明である。何故と云ふに、此年には信階の長子蘭軒が生れてゐる。そしてその生れた家は今の本郷真砂町であつたと云ふ。本郷真砂町は信階が宗家を信美に譲つた後に、分家して住んだ処だからである。仮に宗家の更迭と分家の創立との年を其前年、即安永五年だとすると、当時隠居信政は六十五歳、信階は三十三歳であつた。

     その十

 伊沢信階が宗家を養父|亡《ばう》信栄の実子信美に譲つた年を、わたくしは仮に安永五年とした。此時信階の創立した分家は今の本郷真砂町桜木天神附近の地を居所とし、信階はこの新しい家の鼻祖となつたのである。
 わたくしは例に依つて、信階|去後《きよご》の伊沢宗家のなりゆきを、此に插叙して置きたい。信階は宗家四世の主であつた。五世信美は歯医者となり、信階の女、蘭軒の姉にして、豊前国福岡の城主松平筑前守|治之《はるゆき》の夫人に仕へてゐた幾勢《きせ》に推薦せられて、黒田家に召し抱へられ、文政二年四月二十二日に歿した。法諡《はふし》を称仙軒徳山居士と云ふ。此より後宗家伊沢は世《よゝ》黒田家の歯医者であつた。六世|信全《のぶかね》は桃酔軒と号した。天明三年に生れ、文久二年|閏《うるふ》八月十八日に八十一歳で歿した。七世|信崇《のぶたか》は巌松院道盛と号した。天保十一年に生れ、明治二十九年一月十三日に五十七歳で歿した。その生れたのは信全が五十八歳の時である。八世が今の信平さんである。
 分家伊沢の初世信階は本郷に徙《うつ》つた後、安永六年十一月十一日に一子|辞安《じあん》を挙げた。即ち蘭軒である。蘭軒は信階の最初の子ではなかつた。蘭軒には姉幾勢があつて、既に七歳になつてゐた。推するに早く鳥居坂にあつた時に生れたのであらう。此子等の母は家附の女《むすめ》曾能《その》である。蘭軒の生れた時、父信階は年三十四、母曾能は二十八、家系上の曾祖父にして実は外祖父なる信政は年六十六であつた。
 安永七年に信階の長女幾勢は、八歳にして松平治之の夫人に仕ふることになつた。夫人名は亀子、後|幸子《さちこ》と改む、越後国高田の城主榊原式部大輔政永の女《ぢよ》で、当時二十一歳であつた。治之は筑前守継高の養子で、明和六年十二月十日に家を継いだのである。
 天明二年に幾勢の仕へてゐる黒田家に二度まで代替《だいがはり》があつた。天明元年十一月二十一日に治之が歿し、此年二月二日に養子又八が家を継いで筑前守|治高《はるたか》と名告《なの》り、十月二十四日に病んで卒し、十二月十九日に養子雅之助が又家を継いだのである。雅之助は後筑前守|斉隆《なりたか》と云つた。
 幾勢の事蹟は、家乗の云ふ所が頗る明ならぬので、わたくしはこれがために黒田侯爵を驚かし、中島利一郎さんを労して此《かく》の如くに記した。中島さんの言に拠るに、墓に刻んである幾勢の俗名は世代《せよ》である。後に更めた名であらうか。又家乗が誤り伝へてゐるのであらうか。
 天明四年に信階は養祖父を喪つた。隠居信政が此年十月七日に七十三歳で歿したのである。法諡《はふし》を幽林院|岱翁良椿《たいをうりやうちん》居士と云ふ。長谷寺の先塋《せんえい》に葬られた。新しい分家には四十一歳の養孫信階、三十五歳の其妻、八歳の蘭軒を遺した。又宗家に於ては孫信美が已に二歳の曾孫|信全《のぶかね》を設けてゐた。
 信政の妻大久保氏|伊佐《いさ》は又|貞光《ていくわう》の名がある。按ずるに晩年剃髪した後の称であらう。伊佐は享和三年七月二十八日に歿した。法諡を寿山院湖月貞輝大姉と云ふ。伊佐の所生《しよせい》には親に先《さきだ》つた信栄、信階の妻曾能の外、猶一子金十郎があつた。
 信階は冢子《ちようし》蘭軒のために早く良師を求めた。蘭軒が幼時の師を榊原|巵兮《しけい》と云つた。蘭軒の「訳女戒跋」に、「翁氏榊原、姓藤原、名忠寛、字子宥、為東都書院郎、致仕号巵兮云」と云つてある。跋は享和甲子即文化紀元の作で、「翁歿十有三年於茲」と云つてあるから、巵兮は寛政四年に歿したと見える。蘭軒は尋《つい》で経を泉豊洲に受けた。按ずるに彼は天明の初、此は天明の末から寛政に亘つての事であらう。
 泉豊洲、名は長達、字《あざな》は伯盈《はくえい》である。其家|世《よゝ》江戸に住した。先手《さきて》与力泉斧太郎が此人の公辺に通つた称である。豊洲は宝暦八年三月二十六日に茅場町に生れ、文化六年五月七日に五十二歳で歿した。父は名が智高、通称が数馬、母は片山氏である。
 豊洲は中年にして与力の職を弟|直道《なほみち》に譲り、帷《ゐ》を下《くだ》し徒《と》に授けたと云ふ。墓誌に徴するに、与力を勤むることゝなつてから本郷に住んだ。致仕の後には「下帷郷南授徒」と書してある。伊沢氏の家乗に森川宿とあるのは、恐くは与力斧太郎が家であらう。所謂《いはゆる》郷南《きやうなん》の何処《いづく》なるかは未だ考へない。天明寛政の間に豊洲は二十四歳より四十三歳に至つたのである。
 豊洲は南宮大湫《なんぐうたいしう》の門人である。二十一歳にして師大湫の喪に遭つて、此より細井平洲に従つて学び、終に平洲の女婿となつた。要するに所謂叢桂社の末流《ばつりう》である。

     その十一

 わたくしは単に蘭軒が豊洲を師としたと云ふよりして、わざ/\溯※[#「さんずい+回」、第3水準1−86−65]《そくわい》して叢桂社に至り、特にこれを細説することの愚なるべきを思ふ。しかし蘭軒の初に入つた学統を明にせむがために、敢て此に人の記憶を呼び醒すに足るだけのエスキスを插《さしはさ》むこととする。
 参河国加茂郡|挙母《ころも》に福尾
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