父正久が何歳になつてゐたかと云ふことは、幸に系図に正久の生歿年が載せてあるから、推算することが出来る。正久は万治二年に生れ、寛保元年に八十三歳で歿したから、天和元年には二十三歳であつた。
 正久の正室は書院番頭|三枝《さいぐさ》土佐守|恵直《よしなほ》の女《ぢよ》である。これが庶子に害を加へようかと疑はれた夫人である。
 別に歴世略伝に有信の父と云ふものが載せてあるが、これは正久とは別人でなくてはならない。又有信の実父でありやうがない。其文はかうである。「初代有信、通称徳兵衛、父流芳院春応道円居士、元禄四年辛未五月十八日、二十二歳」と云ふのである。若し流芳院を正久だとすると、此年齢より推せば、寛文十年に生れ、天和元年に十二歳で有信を挙げたことゝなる。按ずるに流芳院は有信の実父ではあるまい。若し有信の実父だとすると、年月日若くは年齢に錯誤があるであらう。
 わたくしは長谷寺に潜んでゐる幼い有信の行末を問ふに先だつて、有信を逸した旗本伊沢、即総宗家のなりゆきを一瞥して置きたい。それは旗本伊沢の子孫が所謂宗家、分家、又分家の子孫とは絶て交渉せぬので、後に立ち戻つて語るべき機会が得難いからである。

     その五

 有信の父旗本伊沢四世吉兵衛正久は、武鑑を検するに、元禄二年より書院番組頭、十四年新番頭、十五年より小姓組番頭、宝永四年より書院番頭を勤め、叙爵せられて播磨守と云ひ、享保十七年には寄合になつてゐた。邸宅は鼠穴から永田馬場に移された。正久は系図に拠るに万治二年生で、寛保元年に八十三歳で歿した。
 五世吉兵衛|方貞《はうてい》は系図に拠るに、享保元年生で、明和七年に五十五歳で歿した。宝暦十年の武鑑を検するに、方貞も亦父に同じく播磨守にせられ、書院番頭に進んでゐた。邸宅は旧に依つて永田馬場であつた。
 六世|内記方守《ないきはうしゆ》は系図に拠るに、明和四年正月二十七日に生れた。又武鑑に拠るに、寛政六年十月より先手《さきて》鉄砲頭を勤めてゐた。文化の初の写本千石以上分限帳に、「伊沢内記、三千二百五十石、三川岱《みかはだい》」としてある。此後は維新前に至るまで、旗本伊沢は赤坂参河台に住んでゐた。
 七世主水は文化三年より火事場見廻り、文化九年より使番を勤めた。此役が十二年に至るまで続いてゐて、十三年には次の代の吉次郎が寄合に出てゐる。浅草新光明寺に「先祖代々之墓、伊沢|主水源政武《もんどみなもとのまさたけ》」と彫《ゑ》つた墓石がある。此主水の建てたものではなからうか。
 八世吉次郎は文化十三年の武鑑に始めて見えてゐる。「伊沢吉次郎、父主水三千二百五十石、三川だい」と寄合の部に記してあるのが是である。此より後文政三年に至るまでの五年間は、武鑑の記載に変更が無い。文政四年には寄合の部の同じ所に、次の代の助三郎が見えてゐる。
 九世助三郎政義は文政四年の武鑑寄合の部に、「伊沢助三郎、父吉次郎、三千二百五十石、三川だい」と記してある。此役が天保二年に至るまで続いて、三年には中奥小姓になつてゐる。六年には叙爵せられて摂津守と称し、猶同じ職にゐる。九年には美作守《みまさかのかみ》に転じて小普請支配になつてゐる。尋《つい》で政義は十年三月に浦賀奉行になつて、役料千石を受けた。十三年三月に更に長崎奉行に遷《うつ》されて、役料四千四百二俵を受けた。そして弘化二年に至るまでは此職にゐた。弘化三年の武鑑が偶《たま/\》手元に闕《か》けてゐるが、四年より嘉永五年に至るまで、政義は寄合の中に入つてゐる。嘉永六年十二月に政義は再び浦賀奉行となり、安政二年八月に普請奉行となり、三年九月に大目附《おほめつけ》服忌令分限帳改《ぶくきりやうぶんげんちやうあらため》となり、四年十二月に江戸町奉行となり、五年十月に大目附宗門改となり、文久三年九月に留守居となり、元治元年七月十六日に此職を以て歿した。法諡《はふし》して徳源院譲誉礼仕政義居士と云ふ。墓は新光明寺にあつて、「明治三十五年七月建伊沢家施主|八幡祐観《やはたいうくわん》」と彫《ゑ》つてある。
 徳さんは嘗て「正弘公懐旧紀事」を閲《けみ》して、安政元年に米使との談判に成つた条約の連署中に、伊沢美作守の名があるのを見たと云ふ。これは頃日《このごろ》公にせられた大日本古文書に見えてゐる米使アダムスとの交渉で、武鑑に政義の名を再び浦賀奉行として記してゐる間の事である。文書に拠れば、政義の職は下田奉行で、安政元年十二月十八日の談判中に、「美作守|抔《など》は当春より取扱居、馴染之儀にも有之」云々と自ら語つてゐる。
 十世助三郎は慶応武鑑の寄合の部に、「伊沢力之助、父美作守、三千二百五十石、三河だい」と記してある。新光明寺に顕享院秀誉覚真政達居士の法諡を彫つた墓石があつて、建立の年月も施主の氏名も政義の墓と同じである。或は政達が即ち力之助の諱《いみな》ではなからうか。

     その六

 わたくしは或日旗本伊沢の墓を尋ねに、新光明寺へ往つた。浅草広徳寺前の電車道を南に折れて東側にある寺である。
 六十歳ばかりの寺男に問ふに、伊沢と云ふ檀家は知らぬと云つた。其|言語《げんぎよ》には東北の訛がある。此|爺《ぢゞ》を連れて本堂の北方にある墓地に入つて、街に近い西の端から捜しはじめた。西北隅は隣地面の人が何やら工事を起して、土を掘り上げてゐる最中である。爺が「こゝに伊の字があります」と云ふ。「どれ/\」と云つて、進み近づいて見れば、今掘つてゐる所に接して、一の大墓石が半ば傾《かたぶ》いて立つてゐる。台石は掘り上げた土に埋もれてゐる。
「これは伊奈熊蔵の墓だ、何代目だか知らぬが、これも二千石近く取つたお旗本だ」とわたくしが云つた。爺は「へえ」と云つて少し頭を傾けた。「誰も詣る人はないかい」と云ふと、「えゝ、一人もございません」と答へた。
 伊沢の墓はなか/\見附けることが出来なかつた。暫くしてから、独り東の方を捜してゐた爺が、「これではございませぬか」と呼んだ。往つて見れば前に云つた「先祖代々之墓、伊沢主水源政武」と彫つた墓である。政武は七世|主水《もんど》であらうと前に云つたが、系譜一本に拠れば一旦永井氏に養はれたかとも思はれる。墓地の東南隅にあつたのだから、我々は丁度対角の方向から捜しはじめたのであつた。
 此大墓石の傍《かたはら》に小い墓が二基ある。戒名の院の下には殿《でん》の字を添へ、居士の上には大の字を添へた厳《いかめ》しさが、粗末な小さい石に調和せぬので、異様に感ぜられる。想ふに八幡某は旗本伊沢に旧誼のあるもので、維新後三十五年にしてこれを建てたのであらう。二基は即ち政義、政達二人の墓である。
 二人の中で伊沢政義は、下田奉行としてアダムスと談判した一人である。盛世にあつては此《かく》の如き衝に当るものは、容易に侯となり伯となる。当時と雖、芙蓉間詰五千石高の江戸城留守居は重職であつた。殊に政義が最後に勤めてゐた時は、同僚が四人あつて、其世禄は平賀|勝足《かつたり》四百石、戸川安清五百石、佐野|政美《まさよし》六百石、大沢|康哲《やすさと》二千六百石であつたから、三千二百五十石の政義は筆頭であつた。其政義がこの戒名に調和せぬ小さい墓の主である。「此墓にも詣る人は無いか」と、わたくしは爺に問うた。
「いゝえ、これには詣る方があります。わたくしは何と云ふお名前だか知らなかつたのです。なんでも年に一度位はお比丘さんが来られます。それからどうかすると書生さんのやうな方で、参詣なさるのがあります。住持様は識つてゐなさるかも知れませんが、今日《こんにち》はお留守です。」
「さうかい。わたしは此墓に由縁《ゆかり》は無いが、少しわけがあつて詣つたのだ。どうぞ綫香《せんかう》と華とを上げておくれ。それから名札をお前に頼んで置くから、住持さんが内にゐなさる時見せて、此墓にまゐる人の名前と所とを葉書でわたしに知らせて下さるやうに、さう云つておくれ。」
 爺が苔を掃つて香華《かうげ》を供へるを待つて、わたくしは墓を拝した。そして爺に名刺を託して還つた。しかし新光明寺の住職は其後未だわたくしに音信《いんしん》を通じてくれない。

     その七

 麻布の長谷寺《ちやうこくじ》に匿《かく》れてゐた旗本伊沢の庶子は、徳兵衛と称し、人となつて有信と名告《なの》つた。有信は貨殖を志し、質店を深川に開いた。既にして家業漸く盛なるに至り、有信は附近の地所を買つた。後には其地が伊沢町と呼ばれた。永代橋を東へ渡り富吉町を経て又福島橋を渡り、南に折れて坂田橋に至る。此福島橋坂田橋間の西に面する河岸と、其中通とが即ち伊沢町であつたと云ふ。按ずるに後の中島町であらう。
 有信の妻は氏名を詳《つまびらか》にしない。法諡《はふし》は貞寿院|瓊林晃珠《けいりんくわうじゆ》禅尼である。其出の一男子は早世した。浄智禅童子が是である。
 有信は遠江国の人小野田八左衛門の子を養つて嗣となした。此養子が良椿《りやうちん》信政である。惟《おも》ふに享保中の頃であらう。仮に享保元年とすると、有信が三十六歳、信政が四歳、又享保十八年とすると、有信が五十三歳、信政が二十一歳である。信政の父八左衛門は法諡を大音柏樹《だいおんはくじゆ》居士と云ひ、母は※[#「女+(而/大)」、7巻−16−下−14]相寿桂《どんさうじゆけい》大姉と云ふ。
 有信は此《かく》の如く志を遂げて、能く一家の基《もとゐ》を成したが、其「弟」に長左衛門と云ふものがあつた。遊惰にして財を糜《び》し、屡《しば/\》謀書謀判の科《とが》を犯し、兄有信をして賠償せしめた。総宗家の弟は有信が深川の家に来り寄るべきではないから、長左衛門は妻党《さいたう》の人で、正しく謂へば甥《せい》であらうか。
 有信は長左衛門のために産を傾《かたぶ》け、深川の地所を売つて、麻布鳥居坂に遷《うつ》つた。今伊沢信平さんの住んでゐる邸が是である。
 享保十八年十月十八日に有信は五十三歳で歿し、長谷寺《ちやうこくじ》に葬られた。即ち幼くして乳媼《にゆうをん》と共に匿《かく》れてゐた寺で、此寺が後々までも宗家以下の菩提所となるのである。有信は法諡を好信軒一道円了居士と云ふ。此人が即ち宗家伊沢の始祖である。
 二世良椿信政は二十一歳にして家を継いだ。信政は町医者であつた。伊沢氏が医家であり、又読書人を出すことは此人から始まつた。
 信政は幕府の菓子師大久保|主水元苗《もんどもとたね》の女《むすめ》伊佐《いさ》を娶《めと》つた。菓子師大久保主水は徳川家の世臣《せいしん》大久保氏の支流である。しかし大久保氏の家世は諸書記載を異にしてゐて、今|遽《にはか》に論定し難い。
 大久保系図に拠れば、粟田関白|道兼《みちかね》十世の孫景綱より、泰宗、時綱、泰藤、常意、道意、道昌、常善、忠与を経て忠茂《ちゆうも》に至つてゐる。他書には道意を泰道とし、道昌を泰昌とし、常善を昌忠とし、忠与を忠興とし、忠茂を忠武《ちゆうぶ》としてゐる。此中には道号と名乗《なのり》との混同もあり、文字の錯誤もあるであらう。初め宇津宮氏であつたのに、道意若くは道昌に至つて宇津と称した。
 忠茂に五子があつた。長忠俊、二忠次、三|忠員《たゞかず》、四忠久、以上四人の名は略《ほゞ》一定してゐるらしい。始て大久保と称したのは、忠茂若くは忠俊だと云ふ。世に謂ふ大久保彦左衛門|忠教《たゞのり》は忠俊の子だとも云ひ、忠員の子だとも云ふ。忠茂の第五子に至つては、或は忠平に作り、或は忠行に作る。伝説の菓子師は此忠行を祖としてゐるのである。
 忠行が主水と称し、菓子師となつた来歴は、姑《しばら》く君臣略伝の記載に従ふに、下に説く所の如くである。

     その八

 大久保忠行は参河の一向宗一揆の時、上和田を守つて功があつたと云ふ。恐らくは永禄六七年の交の事であらう。徳川家康はこれに三百石を給してゐた。家康は平生餅菓子を食はなかつた。それは人の或は毒を置かむことを懼《おそ》れたからである。偶《たま/\》忠行は餅菓子を製することを善くしたので、或日その製する所を家康に献じた。家康は喜び※[#「
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